Episode31-4:キオラ・シャムシュロヴァ・グレーヴィッチの幻想
ヘイズ先生にスタッフルームへ通された後は、ヨダカさんと合わせて三人でしばらくの間談笑に勤しんだ。
何気ない日常のエピソードから、専門的な医学の話まで。
殆どがヘイズ先生とヨダカさんのやり取りで、私は専ら二人の会話を聞いていただけなのだが、それだけでも十分に楽しかった。
普段あまり家から出ることのない私には、どんな些細な話でもまるで冒険の物語を聞かせてもらうように胸躍るものであったから。
家族と話をするのも楽しいけれど、こうして大人のお友達と話をするのも新鮮でとても勉強になる。
それに、ヘイズ先生とヨダカさんは傍から見ている分にも分かるほど仲が良い。
高校時代からの付き合いとあって、互いに良識を弁えつつも気の置けない関係を維持しているようだ。
一年前にこの診療所が建てられた際にも、親友のよしみでヴィノクロフ家が援助をしたという。
単純に親しいだけでなく、ヘイズ先生にとってもヨダカさんにとっても、互いに対等でいられる唯一無二の存在であることが窺える。
少なくとも、ヨダカさんにここまでフランクに接することができるのは、私の知る限りヘイズ先生だけだ。
仲の良い友達。気持ちが通じ合っている関係。
二人のやり取りを見ていると、いつも私は感心して、同時に羨ましい気持ちになる。
今の生活に不満があるわけではないし、私のようなただの子供にも普通に接してくれる優しい人はたくさんいる。
でも、私には親友がいない。
この人さえいればいいと思えるほど、好いて好かれる相手が私にはいない。
無論、父さんと母さんもかけがえのない存在で、私は家族のことを一番に愛している。
その気持ちだけは変わることがないし、揺るがない愛情だ。
ただ、たまに思ってしまうのだ。
家庭教師を雇ってもらっているおかげで、勉学に不自由したことは今のところないけれど。
もし私も、普通の子達と同じように普通に学校に通えていたら。
いつかは、出会いを感謝したくなるような友達ができたのだろうかと。
「おっと。もうこんな時間か。
名残惜しいけど、座談会はそろそろお開きにしよう。
あんまり引き止めてしまうと、ヨダカとキオラさんの迷惑になってしまうしね」
そして、談笑に花を咲かせること30分。
社員の人が煎れてくれた紅茶と共に、三人でヨダカさんのお土産を頂いた頃。
ヘイズ先生が残念そうな顔で手を叩き、そろそろティーブレイクはお開きということになった。
本当はもう少し二人の話を聞いていたかったのだけれど、あまり長居をするとヘイズ先生の迷惑になってしまう。
ヨダカさんもこの後別の用事が入っているというし、私も研究所の方に向かわなければならない。
残念だが、続きはまた次の機会のお楽しみということにしよう。
「ヨダカ、差し入れをどうもありがとう。
今度はこっちから手土産を持って、お宅に伺わせてもらうよ」
「私も、ごちそうさまでした。マカロンも美味しかったし、貴重なお話が聞けてとても楽しかったです。
ヘイズ先生もヨダカさんも、良かったらまた私の家にも遊びに来てくださいね」
帰り支度を始めるヨダカさんにヘイズ先生と私が改めてお礼を言うと、ヨダカさんはどういたしましてと笑った。
ついでに私の家にもまた来てほしいとお願いすると、二人は喜んでと快諾してくれた。
私がこの診療所に通院することが決まった時、ヘイズ先生とヨダカさんはわざわざグレーヴィッチ家に挨拶に来てくれて、両親とは既に面識がある。
招くとすれば次で二度目となるのだが、両親もすっかり二人のことを気に入ったようだし、私も二人が遊びに来てくれるなら嬉しい。
機会があるなら、今度は堅苦しいことは抜きにして我が家のように寛いでいってほしい。
「じゃ、キオラさん。最後に、先週出した課題の答えを聞かせてくれますか?」
締め括りに、ヘイズ先生が私に最後の質問を投げ掛ける。
曰く、先週出した課題の答えとは、文字通りヘイズ先生が私に課した問題のことを指している。
ただ、一口に問題といっても別に難しいことではない。
この一週間の間にいつもとはなにか違う事態、もしくは現象が起きなかったか。
あったとすれば、その時私はどのように感じ、どんなことを思ったのか。
要するに、気になることがあったなら報告してくれ、ということだ。
私は、一度先生の視線から目を背け、心の中で自分に問うた。
この一週間で、個人的になにか気になったこと。いつもとは違う変わった出来事。
一応あることにはあるが、今ここでその話をしてもいいのだろうかと。
ヘイズ先生は心のお医者さんで、その道のプロだ。
悩みを打ち明ければきっとなにかしらの答えや打開策を見付けてくれるだろうし、人の秘密を知って笑ったりするようなことも絶対にしない。
特に隠したいと思っているわけでもないし、嘘をつくほどの理由もない。
なのに、何故だろう。
ヘイズ先生になら話してもいいと思うのに、信用しているのに、いざ悩みを明かそうとすると、息が詰まってなかなか切り出せない。
なんなんだ、この感じは。
まるで、誰かに口止めの呪いをかけられたように、思考が阻害されてしまう。
ただ訳を話すだけのことなのに、世界の命運を託されたかのような、大袈裟なほどの緊張感に襲われる。
「……実は、一つだけ。
両親にも話していないんですけど、気になっていることがあるんです」
「ほう。珍しいですね。話してくれますか?」
「……夢を、みるんです」
「夢?」
少し考えてから恐る恐る私が答えると、ヘイズ先生は興味深そうに目を細めた。
脇で上着に袖を通していたヨダカさんも、ぴたりと動きを止めて私の方を見る。
この数日で気になったことといえば、思い付く限り一つしかない。
今朝見たばかりの夢の話。
それもただの夢ではなく、現実のようにリアルで既視感のある悪夢。
毎度決まって同じ場所で、痛みや肌寒さの感覚まで鮮明に再現される、眠った後に見る世界。
たまに怖い夢を見るのだということは、以前母さんにも相談したことがある。
しかし、その怖い夢がいつも同じ舞台で展開されること、良い夢よりも悪い夢を見る頻度の方が多いということは、母さんには話していない。
私は、詳しい内容については省略して、周期的に悪夢を見るのだという旨だけヘイズ先生に伝えることにした。
いつも決まって、箱の中のような狭い場所にいて、そこでなにかに追い掛けられたり、襲われたりする。
目が覚めると殆ど忘れてしまうのだが、とても怖い夢を見たという印象だけはよく覚えていると。
目覚めると殆ど忘れてしまうというのは実は嘘なのだが、正直あまり詳しい内容は話したくなかった。
なんだか、この話はあまり人に明かしてはしてはいけない気がしたから。
「うーん。悪夢かあ。確かに、頻繁に見るようなら毎日眠るのも辛いですよね」
「いつも同じ場所にいるってのもなんか引っ掛かるね。
過去にその場所へ行った記憶はあるのかい?」
「ありません。父さんと母さんの話を聞いていても、それらしいことは言ってなかったと思います」
難しい顔で唸るヘイズ先生に代わり、ヨダカさんが私の隣に腰掛けて尋ねてくる。
しかし、思い当たる節が全くなかったので、私は正直に記憶にないと答えた。
「舞台が共通しているというのは、確かに気になる要素だけど…。問題なのはなにより、夢そのものの質だよね。
頻繁に悪夢を見るケースとして最も考えられるのは、現実に切迫した状況下に置かれていて、その不安な気持ちが悪い心象風景となって現れる…、ってことなんだけど…」
「私、特に困ってることはないですよ。毎日幸せです」
「そっかー…。うーん、そうだよなあ。
まあ、悪夢ってのは一概に悪いものとも言えないし、吉兆を知らせてくれたりっていう場合も稀にあるから、原因を特定するのって結構難しいところなんだよね。
本人に自覚したトラウマがあるなら話は別なんだけど、キオラさん自身に思い当たる節はないみたいだし…」
私の何気ない相談にもヘイズ先生は真剣に対応してくれ、隣ではヨダカさんも思案を巡らせてくれている。
トラウマ。精神的要因。
私自身にそういった自覚はないのだが、もし自分が知らないだけで過去になにかトラウマになりうる出来事があったのだとしたら。
私は一体なにを見て、どんな経験をして今に引きずっているのだろうか。
確かに、病気を抱えているという不安要素や、普通の子達と同じことができないというストレスは少なからず抱えているのかもしれない。
だがそれは、こんな大袈裟な形となって現れるほどの心因ではないと思うし、多少ストレスを感じることがあっても、人は皆悩みを抱えて生きているものだ。
私だけが特別悩み苦しんでいるわけではない。
じゃあ、どうしてこんなことになるんだろう。
両親は私を愛してくれているし、私は毎日を幸せに過ごしているのに。
なのに何故、眠ると不吉な夢ばかり見てしまうのだろうか。
「じゃあ、試しに夢日記を付けてみるってのはどうかな?」
「見た夢の内容を、日記に付けて残すってことですか?」
「そう。詳しい内容が分かれば対処もできるし、認識を深めることで、自分の意思一つで悪夢を回避できる場合もある。
キオラさんの言う"箱の中みたいな場所"について、僕も手掛かりを探しておきますから。キオラさんは、思い出せる限りでいいので、夢の中で見たことを記録に付けてみてください。
…それから、くれぐれも自分一人では抱え込まないこと。
不安な時はご両親に話してみるのもいいですし、僕のところに相談に来てもいいです。キオラさんの悩みは、僕にとっての悩みでもありますから。
一緒に戦う仲間がいるのだということを、常に頭の隅に置いていてくださいね」
他にも、ヘイズ先生からあれこれと質問をされたが、私はその全てを濁して返した。
本気で心配してくれる先生には申し訳ないが、自分自身の理解が足りていない今の段階では、まだ全てを打ち明けるべきではない気がしたから。
せめて、もう少しなにか取っ掛かりのようなものを見付けてから、改めて先生に相談しようと判断した。
すると先生は、より悪夢に対する理解と自覚を深めるためにも、試しに夢日記を付けてみるのもいいと助言してくれた。
夢の世界で見たもの、感じたものを、記憶が鮮明な内に逐一文字に書き起こすことで、自然な忘却を防ぐ。
夢の内容が判明すればそこから原因を特定できる場合があるし、自分自身への理解が深まるに伴って、夢の内容を自在にコントロールできる場合もあるのだそうだ。
もし夢の世界を操ることができれば、自分の意思一つで悪夢を回避することも可能になる。
この現象は俗に明晰夢と呼ばれており、会得するのはかなり難しいというが、試してみる価値はありそうだ。
私はこの日から、ヘイズ先生の助言通り、悪夢を見た場合には日記を付けることにした。
この何気ない行為が、後に重要な鍵となることなど、この時は想像もしなかった。




