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オルクス  作者: 和達譲
Side:ZERO
210/326

Episode31-3:キオラ・シャムシュロヴァ・グレーヴィッチの幻想



家族三人での朝食を終えてしまえば、ゆっくりできる時間はもう終わり。

ここから先は、分刻みで私の一日が始まる。


食後の歯磨きと身支度を済ませ、昨夜の内に纏めておいた手荷物を抱えて玄関に向かうと、出勤前の父さんと母さんがいってらっしゃいと送り出してくれる。

私もそれにいってきますと返し、家を後にして最寄りのバス停まで足を延ばした。


自宅付近から隣街のベシュカレフまでは、路線バスを一本利用しておよそ30分弱の距離だ。

そして、そこから更に10分ほど歩いていくと、目的地のダヴェンポート診療所が見えてくる。


人通りが少なく、静かな立地に建てられているその診療所には、若いが腕の立つ心のお医者さんがいると言われている。



40分後、無事目的地に到着した私は、診療所の敷地に一人で足を踏み入れた。


薄いグレーの塀の向こうには、街並みと同色の白い診療所が建っている。

さすが新設したばかりとあって、どこを見てもピカピカのツヤツヤだ。


段差の低い階段の隣には、バリアフリー仕様の緩やかなスロープが設置されている。

足腰に不安がある人はそっちのスロープを使ってもいいし、必要がないという人は階段を使えばいい。



すると、中に入ろうとした私と入れ違いで、車椅子に乗った若い男性がゆっくりスロープを降りてきた。

診療所での用事が済んで、これから帰るところなんだろう。


私はその人と擦れ違う時にこんにちはと挨拶をし、邪魔にならないよう階段の方を使って、出入口のドアの前まで足を進めた。

私の気配に反応した自動ドアが横に開くと、広々とした玄関ホールと待合室が見える。


待合室のソファーの上には数人の老若男女の姿があり、受付には若いお姉さんが二人座っている。

初めてここを訪れた時には、神妙な雰囲気に少し腰が引けてしまったが、今となってはすっかり見慣れた光景だ。


母さんが付き添ってくれたのは初診の時だけだったけれど、一人で通院することにももう慣れた。

私にとっては先生に診察をしてもらいに来るというより、友達の家に遊びに行く感覚に近いかもしれない。



「あ、キオラさん。こんにちは。

今日はヘイズのところに診察かな?」



待合室に顔を出した私に、背後から誰かが声をかけてきた。

振り返ると、見知った人物がすぐ側にいた。



「ヨダカさん。こんにちは。

…あれ。でも今って、いつもならお仕事をしてる時間、ですよね?

もしかして、先生もどこか具合が悪くなったんですか…?」



静かなテノールボイスで話し掛けてくれた彼の名は、ヨダカ・ヴィノクロフ。

我がヴィノクロフ州を治めておられるボリス・ヴィノクロフの一人息子にして、いずれは父から主席の座を引き継ぐであろうと言われている人物だ。


見るからに柔らかそうな髪は80歳を過ぎたお爺さんのような色合いをしているが、顔立ちはとても凛々しくて整った容姿をしている。

生まれつき足が不自由であるそうで、外出の際には今のように車椅子を使っていることが多い。

そのため、本来は結構な長身なのだが、子供の私とも同じ目線で話してくれる。


知り合ったのはつい最近だけれど、いつも穏やかで優しいヨダカさんのことを私はすぐに好きになった。



しかし、普段はお父様の手伝いで多忙な日々を送っているらしく、あまり頻繁には街に出られないのだと以前話していた。


そんな彼が真昼にここいるということは、仕事よりも優先させなければならない特別な用向きがあった、ということなのだろうか。

それとも、最近なにか悲しい出来事があって、ヨダカさん自身が心を患う患者さんになってしまったとか。


心配して私が尋ねると、ヨダカさんはそんなんじゃないよと言って笑った。



「心配してくれてありがとう。でも、今日は本当にたまたまなんだ。

ちょっとこの辺りに寄る用があったからね、ついでにヘイズの顔を見てやろうと思って。

最近は俺よりもあいつの方が忙しいからさ。友人の一人として、ささやかながら労いをね」


「あ、マカロンだ。ヘイズ先生、ここのマカロン好きだって言ってましたもんね」



ヨダカさんがここにいる理由が単に気が向いたから寄っただけなのだと分かって、私はほっとした。


なんでも、この辺りで用事を足したついでに、仕事がてらヘイズさんの顔を見に来たんだそうだ。

だから、私と会ったのも本当に偶然。


元気そうなヨダカさんの腕には、ベシュカレフで有名なお菓子屋さんの箱が抱えられていて、綺麗なリボンと袋に包まれている。


中に入っているのは、ちょっとお高めのマカロン。

甘い物が好物なヘイズさんのため、ヨダカさん自ら専門の店に出向いて購入してきたものらしい。



「せっかくだし、キオラさんも後で一緒に食べないかい?

時間の方が大丈夫なら、だけど」


「え、いいんですか?ヘイズ先生のためにわざわざ買ってきたものなのに…」


「いいのいいの。社員の人達の分はもう渡してあるし、あいつ一人で食べるにはちょっと多いから。

ほっとくとあいつ、調子に乗って糖尿病になっちゃいそうだし。みんなでお茶にすれば、量も丁度いいだろう?」



二人は相変わらず仲良しなんだなと感心していると、ヨダカさんは私にもマカロンを分けてくれると言った。


私は断ろうとしたが、ヨダカさんがいいと言ってくれるなら、みんなでゆっくりお喋りもしたい。なので、せっかくだしご厚意に甘えることにした。

ちょっとくらい寄り道をしても、研究所での検査の時間までには間に合うはずだ。



「あ、いたいた。ヨダカ!…と、キオラさん。いらっしゃい。いつも時間通りだね」



そこへ、一足遅れてヘイズ先生が現れた。

診察室からパタパタとこちらに向かってきた彼は、ヨダカさんの隣にいる私に気付いて、にこやかに手を振ってくれる。



「こんにちはヘイズ先生。ヨダカさんとは今会ったところなんです」


「みたいだね。いきなり現れるものだから、患者さん達みんなびっくりしちゃって、さっきまでちょっとした騒ぎになってたんだよ?

あれだ、空港で芸能人を待ち伏せするファンみたいな。

誰も言い触らさないでくれたから、噂が広まることはなかったけど…。一時はどうなることかと思ったよ」


「ヨダカさん、みんなから愛されてますもんね。びっくりするのもしょうがないです」



困ったような笑顔で、ヨダカさんを見遣るヘイズ先生。

というのも、私が来る前の診療所で一騒ぎあったとのことだ。



ヨダカさんがあのボリス・ヴィノクロフの嫡男であることは、既に周知の事実。

そんな有名人が突然現れたら、居合わせた人達が驚くのも無理はない。


それに、ヨダカさんにはお父様譲りの人望と、安定した人気がある。

次期主席に就任するにはまだ早いが、彼の好感度は下手な映画俳優よりもずっと高く、ヨダカの名を知らない人間は少なくともヴィノクロフにはいない。


故に、ヨダカさんの登場で診療所内は一時騒然。

タレントが地方で撮影を行った時のように盛り上がり、患者さん達は本来の目的を忘れて喜んでいたという。



その後、このことは他言無用ということで収め、一段落ついたようだが、あんなに騒がしい待合室は今まで見たことがないとヘイズ先生は言った。


"君が現れただけで皆あんなに笑顔になるんだから、精神科医の僕の立場がないよ"と。

ヘイズ先生の皮肉に、ヨダカさんもごめんごめんと笑っている。



「お詫びと言ってはなんだけど、ほら。

君の好きなお菓子を買ってきたから、機嫌を直してくれよ」


「えっ!?なんだいそれ!さっきまではそんなもの持ってなかったじゃないか!」


「そりゃあ隠していたからね。社員の人達にも、このことはヘイズには内緒だと口止めしておいたし。

いいサプライズだろう?」



マカロンの包みをヨダカさんが手渡すと、ヘイズ先生は心底驚いた反応をした。


どうやら、ヨダカさんがお土産を持参してここを訪ねたことはヘイズ先生にだけ秘密だったようだ。

よく見ると受付にいるお姉さん達も悪戯っぽく笑っているし、通りすがりの男性職員からはお先に頂いてますと声をかけられる。


ふと目が合ったヨダカさんがしてやったりとウインクをしてきて、私は思わず笑ってしまった。



「なんだ~。さっきからみんながニヤニヤしてたのは、これが理由だったのか…。

嬉しいけど、別に隠さなくたっていいだろう」


「最初から告知してしまったら、大好きなマカロンに浮かれて仕事に身が入らなくなるかもしれないと思ってさ」


「さすがにそんなヘマはしないよ!

…でも、ありがとう。最近忙しくてお店に寄る時間がなかったから、とても助かるよ。

時間も丁度いいし、今からみんなでお茶にしよう。時間はまだ平気なんだろ?」


「ああ」



幼馴染み同士の気の置けないやり取りを見物していると、ヘイズ先生が私にも確認の問いを投げ掛けた。

先程ヨダカさんが誘ってくれたように、私も一緒にお茶をしないかと。


私はその問いに喜んでイエスと答えたが、そういえばと思い、待合室のソファーの方に目をやった。



「でも、今からお茶なんてして大丈夫なんですか?

待ってる患者さんもいるみたいだし、迷惑になったりとか…」


「ああ、それなら問題ないよ。

これから僕らの休憩時間だし、あそこにいる患者さん達は処方箋の受け取りを待っているだけだから。

急患以外は午後まで誰も来ないはずだし、みんなでお菓子を食べる時間くらいはあるよ。心配しなくても大丈夫」



私の問いにヘイズ先生がにこにこしながら答える。


曰く、今待合室で待機している患者さんは既に診察を終えた人達のようで、午前中の予約分はこれで全員済んだらしい。

なので、ゆっくりティータイムを楽しむだけの時間はあるそうだ。



「…あ、せっかくだし、お茶をするついでにキオラさんの診察も一緒にやってしまおうか。その方がキオラさんもリラックスできるだろうし。

構わないよね?ヘイズ」


「俺はいいよ。キオラさんはどう?」


「私も大丈夫です。いつも簡単なお話をするだけで、すぐに終わりますから」



その後、ヘイズ先生の提案で私の診察も同時に行うことになり、私とヨダカさんは先生の案内でスタッフルームへと向かった。



他の患者さん達のことまでは分からないが、私は特に心を患っているわけではないので、診察といっても大袈裟なことはしない。


軽い世間話をしたり、時間に余裕がある時には職員の人達に勉強を見てもらったりなど。

あくまで私の感性が人並みに育まれているかをチェックするのが目的なので、いつも簡単な質疑応答をするだけで済んでいる。


診療所に通っていることを友達の家に遊びに行く感覚だと思ったのは、実際に友達とするようなことしかここではしていないからだ。



"体だけでなく、一度心の方も診てもらってはどうか"。

当初は心配性な母さんに勧められて始まったことなのだが、母さんの提案を受け入れて正解だったなと、今となっては思う。


おかげでヘイズ先生やヨダカさんと出会えたし、私の世界も少し広がった。

人とのコミュニケーションはとても楽しく、素晴らしいものなんだと、二人は私に大切なことを教えてくれた。


未来のことはどうなるか分からないが、許されるなら、今後とも末永く二人とはお付き合いさせてもらいたい。


叶うならもう少し年頃の近い友達もほしいところだけれど、そこは目をつむっておくことにしよう。



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