Episode03-8:溜め息と足音
「参ったな。ミリィの言っていた通りだね。君はただ頭が良いだけではないようだ」
「頭の出来は関係ないですよ。知っていたから、気付いただけです。
知らなければ、きっと何も感じなかった」
「なるほど。ボクの家族のことまで話してあるのか。君はミリィに信頼されているんだね」
コーヒーから立ち上る湯気を深く吸い込み、シャノンはゆっくり息を吐いた。
「君の考えている通りだよ。
バシュレー家とボクに、血縁関係はない」
ナルシス・バシュレー。
前プリムローズ主席にして、現役の作曲家であるシャノンの父。
しかし二人の間に血の繋がりはなく、シャノンはバシュレー家に引き取られる形で養子となった。
今から10年程前のことだ。
「旧姓はラブラシュリ。10年程前まで、ボクはシャノン・ラブラシュリだった。
ミドルネームのエスポワールは、バシュレー家に引き取られる際に、ナルシス様が付けてくれた名なんだ。
意味は、フランス語で"希望"」
シャノンの本当の家族。
シャノンの生みの両親は、彼が幼い頃に交通事故で他界してしまった。
愛する父母と急死によって分かたれたシャノン少年は、ある日突然一人になった。
「生前のご両親は、どのような人達だったんですか?」
「ボクの生みの両親は、元々バシュレー家に仕える身分でね。
母がメイド、父がナルシス様の専属執事。二人とも、とても優秀な人だったよ」
「……シャノンさんが家事にも堪能だったのには、そういう背景があったんですね」
「そうだね。いつかはボクも両親の跡を継いで、バシュレー家に奉公するはずだったから。
基本的な雑務の他に、礼儀作法や語学なんかも徹底的に仕込まれたよ」
愛する母、そして父までもを一度に亡くしたシャノン少年に最初に手を差し延べたのが、他ならぬ主人のナルシスだった。
ナルシスとその妻、グウェンドリンの間には子がいなかった。
故にシャノン少年は、夫妻のただ一人の息子として、バシュレー家に迎えられることとなったのだ。
バシュレー家に仕えるはずだった身の上が、向後が、まさかこんな風に進路を変えてしまうだなんて。
当時のシャノンにとっては、夢にも思わなかった変事だった。
「ボクに音楽の楽しさを教えてくれたのは、実の父だった。
でも、師としてその芸を育ててくれたのは、ナルシス様だ。
だからミリィは、ああいう言い方をしたんだろうね」
長年ナルシスの側近として付き従ってきた父は、ナルシスの素晴らしさを誰より深く理解していた。
後に彼の才は、父が語り部となることで息子にも伝えられた。
幼いシャノンは、ナルシスの音楽を子守唄代わりにして育ったのだ。
物心つく前から身近にあった、音楽という存在。
父の没後は、新たな保護者となったナルシスに、直に手ほどきを受けるようになった。
それは悲しくもあったけれど、シャノンにとって願ってもなかったことだった。
憧れの人に稽古をつけてもらえる。
好きなものを好きなだけ学ぶことができる。
ナルシスの紡ぎ出す音の世界に、ますます魅了されたシャノンは、次第にその道の才能を開花させていった。
一応の土台はあったにせよ、シャノンをここまで成長させたのは、単に血の力によるだけではない。
つまりミリィは、養父であるナルシスの愛と、シャノン本人の弛まぬ努力あってこその成果なのだと、あの時言いたかったのである。
「ナルシス様は他に、リーダーとしての在り方もボクに説いてくださった。
あの日からボクは、主席の子息になったわけだからね。次期主席に最も近い座に置かれた以上、帝王学も視野に入れた教育を受ける必要があったんだ」
「近い……?養子となった時点で、それは既に決定していたのではないんですか?」
「中にはそういうところもあるみたいだけど、プリムローズは違うよ。
ここは完全指名制。前主席に推された者が、次に統べる頭となる。血縁はあまり関係ないんだ。
初代シルキア・プリムローズとナルシス様が、ただの友人であったようにね」
プリムローズの名付け親としても知られる初代主席、シルキア・プリムローズはナルシスの友人だった。
彼らの縁は互いに著名な作曲家であったことから始まり、後年には唯一無二の親友同士を公言するほど深い仲に進展したという。
だからこそシルキアは、次期主席に血縁者ではなく、敢えて他人のナルシスを選んだ。
我が子には自由な未来を与えてやりたい。
そして我が城は、最も信頼する友に守ってもらいたいと。
「今となってはボクが継承しているけれど、決まったのは割と最近のことなんだ。
数年前まで別の人を指名しようかと迷っていたらしいし、最初からそのつもりでボクを引き取ったわけじゃないんだよ」
「へえ……。だったら尚更、さぞ御苦労なさったんでしょうね」
「え?」
「先のお話を聞いただけでも、なんとなく察しがつきますよ。
幼い内から、大人同士の覇権だ派閥だの争いに巻き込まれて……。
僕が貴方の立場だったら、今頃はかなり性格歪んでたと思います」
シャノンはまた一瞬呆気にとられてから、間を持たせるため軽く笑った。
「あはは。君もミリィも、ボクを買い被りすぎだよ。
………まあ確かに、苦しんだこともあったけどね」
以前までと比べると少しは改善されたものの、他者に対するトーリの猜疑心は未だ根深く残っている。
誰にでも友好的な態度で接するミリィやシャノンのような人種に於いては、特に。
優しげな雰囲気や人の好さそうな笑顔の裏で、なにか如何わしいものを隠しているのではないか。
こちらが気を許す隙を狙って、陥れようと画策しているのではないか。
自分自身が腹に一物抱えている人間だからこそ、他もそうであるように感じてしまう。
得てしてトーリはおべっかを言わないし、必要以上に同調したり遠慮したりも出来ないのだ。
そんな自らの性格をトーリ自身はコンプレックスに思っているものの、時に引け目負い目こそが出し抜けな転機を齎すこともあった。
「実はね。小さい頃いじめられっ子だったんだ、ボク」
「え……。そうなんですか?そんな風には感じませんが」
「そりゃあ、感じさせないように隠しているからね。
こうして自分の感情をコントロールできるようになるまでは、それなりに苦労もあったよ」
幼い頃、シャノンはとても内気で、人見知りの激しい子供だった。
最初は、ただ口下手なだけだった。
洒落た冗談や軽口で、場を和ませたりする器用さに欠けていただけだった。
しかし、いつしかそれは大きな劣等感となって、シャノンの言語に制限をかけた。
知らない人を前にすると、緊張して声が出せなくなったり。
勇気を出して話してみても、吃音気味な言葉遣いになってしまったり。
生来頭は良かったものの、思っていることを上手く表現できないもどかしさは、当時のシャノンにとって一番の悩みの種だった。
そんなシャノンの弱点を見抜いた周りの子供達は、シャノンを差別対象として見下し、嫌がらせをしたりするようになった。
話し掛けられてもわざと無視をしたり、持ち物を隠したり。
時にはシャノンの秘密や恥ずかしい話を、皆に誇張して触れ回ることもあった。
彼らの心ない行為の数々にシャノンはとても傷付いたが、いつも抵抗することは出来なかった。
他者に仕返しをする方法は、温厚な両親の教えには含まれていなかったからだ。
現在の様子からは微塵も想像がつかないが、あの頃のシャノンにとって友人と呼べた相手は極少なく。
せいぜい両親の同輩や、可愛がってくれた使用人仲間くらいのものだった。
「ちょっと信じられないですね……。今のシャノンさんからは想像もつかないです」
「そう?そう言ってもらえると、ボクも頑張った甲斐があるね。
………でも、ある日を境に、ぴたっといじめはなくなったんだ。
ボク自身は特に何もしていない。なのに、彼らは急に態度を軟化させた。
今までずっと無視をされていたのに、その日は彼らの方から話し掛けてきたくらいでね。みんな驚くほど優しかったよ。
どうしてか分かるかい?」
「………10年前、ですか」
「その通り」
その日は、シャノンがバシュレー家に引き取られてから、初めて学校に行った日だった。
同じクラスの生徒も先生も、我が子を送迎しにきた保護者達も。
昨日までとは別人のように、皆がシャノンに優しくした。
これまでの扱いが嘘のように、掌を返すように。誰もがシャノンに親切にし、笑顔を向けた。
その時には既に、街中に情報が知れ渡っていたから。
「つい昨日まで他人以下だった関係が、いつの間にか友達同士ってことになってた。
つい昨日までボクを突き飛ばしていた手が、今度は優しく肩に回されるようになった。
幼いながらに、酷く恐ろしかったよ。これでようやく友達が出来たんだと、どうしても前向きには考えられなかった」
子供達は、自分こそがシャノンの一番の友達だと張り合うようになり。
大人達は、シャノンに声をかける度にナルシス様によろしくねと付け足した。
そんな彼らの真意を、シャノンは始めから見抜いていた。
彼らが見ているのは自分ではない。
彼らの目は、自分を通して父を、父を通り越して街を、国を、権力を見ているのだと。
両親を失って、シャノン少年の人生は何もかも変わってしまった。
唯一変わらずにいてくれたのは、屋敷の中で過ごす時間だけ。
以来シャノンは、ますます心を閉ざし、やがて学校に行くことさえも拒否するようになった。
無駄に傷付くくらいなら、いっそ一人でいた方がましだと。




