Episode31-2:キオラ・シャムシュロヴァ・グレーヴィッチの幻想
その後、身支度を整えてダイニングに戻ると、父さんが既に席についていた。
先程までは温室で植物達の世話をしていたようだが、今は新聞を読みながら険しい顔をしている。
「父さん、おはようございます」
私が近付いて挨拶をすると、父さんは広げていた新聞を畳んで、笑顔でおはようと返してくれた。
彼の名前はイヴァン。
生まれは母さんと同じロシアだそうだが、知り合ったのは二人がシグリムに国籍を移した後のことらしい。
シルバーグレーの短髪に、グレーの瞳。
口元には髪と同じ色の髭を蓄えていて、母さんと色違いのブラウンのカーディガンを羽織っている。
凛々しい顔立ちで目付きがちょっと鋭いため、やや近寄りがたい雰囲気があるが、中身は娘の私が見ても気さくな紳士だ。
普段はヴィノクロフの役所で勤めているそうで、街ではそれなりに顔が知られている。
そしてなにより、父さんと母さんはとても仲が良い。
今のようにお揃いの服を身に付けていることなんてしょっちゅうだし、二人とも50代とは思えないほど若々しい見た目をしている。
やはり、同い年というだけあって相性がいいのだろう。
いつまでも互いに恋をしている雰囲気で、そのおかげもあってみずみずしい若さを維持できているのかもしれない。
「さあ、準備も済んだし、ゆっくり朝食にしましょう」
母さんが腰のエプロンを外して、キッチンの脇に置く。
縦長の四角いテーブルの北側に父さんが座っていて、私は父さんの向かいの席に腰を下ろした。
どこに誰が座るかは特に決めていないが、基本ここが私達の定位置だ。
そして母さんの定位置は、私と父さんの間。東側の、丁度キッチンに背を向ける席だ。
母さんの向かいの席はずっと空席になっており、来客にはそこへ座ってもらうことが多いが、四人用のテーブルを三人家族が囲むとなると、こうして片側が寂しいことになる。
私が着席するのとほぼ同時に母さんも自分の定位置に着席し、それを見て父さんが私達に目配せをした。
「今日も三人で朝食にありつけることを感謝しよう。さあ二人とも、手を組んで」
父さんの言葉に続いて、私と母さんもそれぞれ自分の両手を組む。
その手を胸の前まで持っていって、静かに目を伏せた。
我が家では、食事をする前にこうしてお祈りをするのが通礼となっている。
余計な言葉は喋らず、ただ黙ってお祈りのポーズをするのがルールだ。
宗教的な縛りがあるわけではないが、心で訴えかけるだけでも十分神様に伝わるから、というのが父さんの教え。
「では、頂こうか。ソフィア、キオラ」
「はい、イヴァン」
「はい父さん、母さん。頂きます」
お祈りを終えて、父さんが短く合図を出す。
私は最後に頭を下げてから、まずはテーブルの中央に置いてあるサラダを取り分けた。
穏やかな時間。幸せな日々。
今朝のように悪夢を見たり、悲しいことも決して少ないわけじゃないけれど、こうして三人で過ごせる今が、ただ幸せだ。
何気ない話をして、当たり前に食事が出来て、自然に笑うことができる。
もっと自分の体が健康だったらとか、学校に通えたらだとか、本音を言えば少なからず欲もあるけれど。
それでも、私は今の暮らしに満足している。
体が弱くても、学校に通えなくても、私には父さんと母さんがいてくれるし、帰る家があるから。
今はただ、その現実に感謝して、家族と共に過ごせる一分一秒を大事にしようと思える。
「それで、今日の予定はどうなんだ?キオラ。
一日いっぱい、結構忙しいんじゃなかったか?」
私と母さんが昨日一緒に買い物をした話で盛り上がっていると、コーヒーに口を付けていた父さんがおもむろに尋ねてきた。
私はフレンチトーストを食べようとしていた手を止め、父さんの方を見つめ返した。
「今日は、朝食を食べた後ヘイズ先生のところに行って、それから電車に乗ってキングスコートまで行きます。
時間はかかると思うけど、多分夕食までには帰宅できると思います」
「それに今日は、研究所の方にフェリックス先生がお見えになる日なんでしょう?
なにか特別な用向きなの?」
私が父さんの問いに答えると、母さんが重ねて尋ねてくる。
「うん。いつもの検査と、採血と、あと私に会わせたい人がいるからって。
先生が自分の用事で研究所に来ることってあんまりないから、たぶん大事なご用───、なんだと思う」
先程父さんも言った通り、今日の私は結構忙しい。
この後朝食を食べ終えたら、ベシュカレフのダヴェンポート診療所に行って、定期検診を行う。
それが済んだら、そのまま電車でキングスコートまで直行し、ゴーシャーク研究所に向かう。
研究所には大体三日から四日置き程の周期で通っており、いつもはそこで体を診てもらったり、職員の人に勉強を付き合ってもらったりしている。
言ってしまえばあそこは、私にとって二つめの家のようなものだ。
ただ、今日は検診や勉強の他に特別な用があるらしく、多忙のフェリックス先生が私用も兼ねて顔を出しにくるらしい。
先日職員が説明してくれたことなのだが、なんでも私に紹介したい人物がいるとのことで、今日はその人と私の対面が主なイベントなのだという。
私が簡潔に述べると、父さんは納得した顔で頷き、母さんは心配そうな表情で私の顔を覗き込んできた。
「随分密度の濃いスケジュールみたいだけど……。本当に一人で大丈夫なの?
途中で具合が悪くなるかもしれないし、一人で電車に乗るなんて……。
やっぱり、私も一緒について行きましょうか?」
不安そうに眉を下げる母さん。
体調のこともあるが、私は一人で外を出歩いた経験が少ないので、途中で迷子になったりしないか心配なんだろう。
けれど、母さんが思うほど私は世情に疎いわけじゃないし、研究所にももう何度も足を運んでいるので、道に迷うことはまずない。
体調の方も最近は落ち着いてきているので、安定剤を持ち歩いていれば一日くらいは平気のはずだ。
「大丈夫だよ母さん。電車の乗り方は知ってるし、研究所に着いたら担当の職員さんが色々教えてくれる。
最近は発作も起きてないし、気持ち悪くなったら自分で薬を飲むから。一人でもちゃんと帰って来られるよ」
「でも……」
私が大丈夫だと説得しても、母さんはまだ腑に落ちない様子でもじもじと肩を揺らしていた。
「いいじゃないか。これも一つの経験だ。
もしなにかあった時は、周りの人に助けを求めればいい。その時は、私もキオラの元まで飛んで行くよ」
そこへ父さんが助け舟を出してくれ、今日一日まめに家に連絡を入れることを条件に、母さんはやっと私の一人歩きを承諾してくれた。
母さんに気付かれないよう、口の動きだけで父さんにありがとうと伝えると、父さんは困ったように笑った。
「ああ、駄目ね。自分でも過保護だと分かっているんだけど、どうしても……」
これで一件落着だと、私が野菜のスープに口を付けると、母さんが俯いて静かに語り始めた。
私が一人で外出することにまだなにか言いたいことがあるのかと、母さんの顔に目をやると、なんだかさっきまでと様子が違った。
「ごめんね、キオラ。
私があなたを丈夫に生んであげられなかったせいで、こんなに苦労をかけて……。
高齢での出産は危険だと分かっていながら、私が無理矢理に生んだりしたから、あなたは……」
先程までの不安げな表情とは違い、今度は悲しい陰を落とした顔で、母さんは独り言のように言った。
いつも朗らかな母さんが、こんな風に自分を責める言葉を口にするのは初めてのことなので、私は驚いた。
けれど、今までは表に出さなかっただけで、不安な気持ちは常に母さんの中にあったのだろうということは、なんとなく分かった。
私は知っている。私と同じくらい、母さんも、私の病気と闘ってくれていることを。
自分の不安が私に伝染してしまわないようにと、いつも気丈に振る舞って、私を勇気付けてくれていることを。
知っていたからこそ、私も母さん達の前では出来るだけ明るくいようと努めてした。
誰か一人でも崩れてしまったら、たちまちこの温かい空気は決壊してしまう気がしたから。
「そんなことないよ、母さん」
私の声に、母さんが顔を上げる。
泣いているわけではないが、今まで見たことがないような暗い顔をしている。
私はスープのカップをテーブルに置き、母さんの手を握って、指を絡めた。
「確かに、私が病気を持っているせいで、お金はかかるし、心配もかけるし……。
もう少し元気に生まれていれば、もう少し父さんと母さんの負担にならずに済んだかなって、思うこともあるわ。
迷惑をかけるばかりで、自分を嫌いになりそうになる時もある。
でも、私は私を不幸だとは思ってない。今の私を、私は後悔してない。
……うまく言えないけど、私、父さんと母さんの子に生まれて、幸せよ。私の父さんと母さんが、今の父さんと母さんで良かったって、心から思ってるわ。
だから、そんな悲しいことを言わないで、母さん。私、二人のことが大好きなの。
私が二人を誇りに思っているように、私も、二人にとって生んで良かったと思ってもらえるような娘に、なりたいの」
何故自分は普通の子達とは違うのか。
もっとマシな器を持って生まれていれば、病気になっていなければ、経済的にも精神的にも、こんなに両親に負担をかけることはなかったのに。
我がグレーヴィッチ家にとって、自分はただのお荷物なのではないか。足枷なのではないか。
いっそ生まれなかった方が、父さんと母さんは幸せだったんじゃないか。
ふとした時に急に卑屈になって、自分自身が酷く憎らしく感じることがあった。
自分は疫病神なんだと、自己嫌悪で一人泣く夜もあった。
でも、私が謝ると、母さんはいつもそんなことないと言ってくれた。
どんな形であれ、我が子として生まれてくれたことが嬉しいと。ただあなたが生きていてくれるだけで、私達は幸せなのだと。
だから私も、弱音を吐くことをやめたんだ。
どんなに悲しくても、消えてしまいたくても。
父さんと母さんの前では、絶対に卑下することを言わないと決めたんだ。
だって、私は。この体は、父さんと母さんが与えてくれたものだから。
二人が愛してくれたものだから。二人が守ってくれているものだから。
二人が宝物だと言って触れてくれるこの体を、自分で傷付けちゃ駄目だと、思ったんだ。
「ありがとう、キオラ。私達の娘になってくれて。
あなたに出会えて、とても幸せよ」
「私もだよ、キオラ。お前と生きるこの瞬間こそ、私とソフィアが今まで歩んできた意味だ。
これからも、どうか共に生きておくれ」
私の視界に、愛すべき父母の顔が並んでいる。
母さんはうっすらと涙を浮かべ、父さんは優しく微笑んでいる。
最後に二人の声が重なって、愛してると言ってくれた。
「私も愛してるわ。父さん、母さん。ずっとずっと、大好きよ」
未来はどうなるかわからない。
高齢の両親が先に死ぬか、病気が悪化した私が先に死ぬか。
不安定なバランスで今の幸福が成り立っていることを、私達は全員理解している。
だからこそ、後悔している時間などない。
こうして笑い合える時間が、あとどれだけ残っているかわからない。
病気は治したい。
そのつもりで毎日を生きているし、諦めたくない。
でも、もし。
もし逃げ切れずに捕まって、この身を蝕む毒が全身に回ったら。
私が死んだ後には、なにが残るだろうか。
両親を悲しませる以外に、私はこの世になにが残せるだろうか。
私が世界にいたことを、何人の人が、覚えていてくれるだろうか。
『Under water』




