Episode31:キオラ・シャムシュロヴァ・グレーヴィッチの幻想
寒い。冷たい。
骨の芯まで冷え切った体は、氷よりも冷たい床の上に倒れたままぴくりとも動かなかった。
全身に流れる血管まで凍てついてしまったのか、まるで体内に太い針金でも埋め込まれているような感覚で、動かさなくても指先が、間接が痛む。
眠くなってきた。こういう展開を、映画の中で観たことがある。
雪山で遭難した登場人物達が、寒さの余り生命活動を停止させそうになり、なんだか眠くなってきたと力無く呟く。
それを主人公が必死に留めさせようとして、今にも意識を手放しそうな仲間の体を何度も揺さ振っていた。
ここは雪山じゃないし、私の周りには寄り添ってくれる仲間もいないけど。
この睡魔が、死の世界へと誘う魔法であることは知っている。
このまま眠ったら、私は死ぬ。もう二度と目を覚まさない。
でも、それでもいいような気がした。
なにも考えたくない。死ぬなら死ぬで、もういいや。
だって、生き残っても、私には。
"キオラ"
――――――――
はっと目を覚ますと、見慣れたモスグリーンの天井が視界に飛び込んできた。
勢いよく上体を起こすと、どくどくと心臓が脈動していた。
無意識に伸びた手は、恐る恐るパジャマの衿元を掴んだ。
私は今、ベッドの上にいる。
アイボリーのシーツと、ブラックの掛け布団との間に脚を挟み、座っている。
辺りを見渡すと、私の部屋がある。
天井の色と同じ、モスグリーンの壁紙に囲われた部屋。
温かみのある木製のデスクに、本棚が二つ。
それから、アンティーク風の白いチェストと、小さめのごみ箱と、昔両親がプレゼントしてくれた大きな白熊のぬいぐるみ。
変わらない、いつもの私の部屋だ。
朝目が覚めると、一番最初に目にする光景だ。
特に周りに異変が起きていないことを確認してから、私は重い体を無理矢理に動かして、ベッドを出た。
カーテンを引き、窓を開けると、さんさんと照る日差しと共に穏やかな風が室内に流れ込んでくる。
外の空気を深く吸い込み、日の光に顔を晒すと、徐々に鼓動が鎮まっていく。
首筋に滲んでいた嫌な寝汗も少しずつ風に拭われていって、緩やかに体温が低下していく。
よかった。あれは、夢だったんだ。
頭が覚醒すると同時にようやく状況を理解して、私は安堵の溜め息を吐いた。
それにしても、何故あんな夢を見てしまったのだろう。
やけにリアルというか、現実のように五感が働いていて、夢を見ている間はこれが夢であると全く気付かなかった。
過去にも、こんな風に悪夢を見て飛び起きたことが、何度かあった。
夢の内容は日によって異なっていたけれど、私の体が苦痛を伴うという点は共通していて、舞台も毎回同じ場所だった。
真っ白な箱の中のような、殺風景な空間。
いつもそこに、私は一人でいる。
痛い目に遭ったり、怖い目に遭ったり、箱の中にいる間は、必ず不吉な出来事が起こる。
そしてそれは、私が目を覚ます瞬間まで終わらない。
どんなに助けを叫んでも、返ってくるのは自分の声の残響だけで、夢の世界の私が意識を手放さない限り、現実の私は目を覚まさない。
夢を見ているというよりは、その間だけパラレルワールドにトリップしている感覚に近いかもしれない。
勿論、こんな悪夢を見ずに済むように、過去には色々と策を講じてきたのだが、結果は変わらなかった。
寝る前に温かいミルクを飲んでみたり、かわいい絵本を読んでみたり、私が眠りに落ちる瞬間まで、母さんに手を握ってもらったり。
色々試してみたけれど、未だに良い効果は出ていない。
なにもしていなくても夢を見ない時はあるし、逆を言えば、どんな小細工をしたところで必ずしも悪夢を回避できない。
今となってはすっかり当たり前の現象となってしまったが、毎晩ベッドに横になる前に、今夜は悪夢を見ませんようにとお祈りをするのが日課となりつつある。
「誰だったんだろう、あれ」
虚空に向かって独り言を呟くと、私の声に引き寄せられるように、ミーフの群れが窓の縁に集まり始める。
その内の一羽は私の肩に乗り、私はその子の腹を指先で撫でてやりながら思案した。
先程、私が目を覚ます直前、誰かが私の名を呼んだ気がした。
どんな声だったかはもう覚えていないが、頭の中に直接響いてくる感じで、私はあの声に起こされて夢から覚めた。
誰だったんだろう。低い声だった気がするし、多分母さんの声じゃない。
なのに、思い当たることがないにも関わらず、とても懐かしいような感じがするのだ。
もしかして、この街に住む妖精かなにかが、悪夢にうなされる私を助けようとして、声をかけてくれたんだろうか。
まさかそんなファンタジーなことは有り得ないと思いつつ、そうだったらいいのにとも少し思う。
「キオラー!目は覚めているのー?
起きたのなら、下に降りていらっしゃい!もうすぐ朝食ができますからねー」
すると、階下から聞き慣れた声が響いてきた。
ドアを閉めた二階の部屋まで、はっきりと通る女性の声だ。
私がそれにはーいと返事をすると、驚いたミーフ達がパタパタと一斉に羽ばたいていった。
出来ればもう少しみんなと遊んでいたかったんだけど、せっかく作ってもらった朝食を冷ますわけにはいかない。
窓の縁に落ちていたミーフの羽根を一枚拾い、デスクの上に置いてから、窓を閉めて私は自室を出た。
「おはよう、キオラ。今朝はよく眠れた?」
眠気眼を擦りながら階下に降りていくと、一階の広いダイニングで母さんがテーブルメイクをしていた。
並べられた朝食の皿からは、出来立ての温かい湯気が立っている。
階段を下りてくる足音に気付いたのか、私がダイニングに姿を現すと同時に、母さんは顔を上げて挨拶してくれた。
彼女の名前はソフィア。
ロシア出身の専業主婦で、アッシュブラウンのショートヘアーがよく似合っている美女だ。
アイボリーのシャツの上にピンク色のカーディガンを羽織り、下はブラウンの巻きスカートと、腰エプロンを付けている。
温和で料理上手。笑うと目尻に皺が寄って、それがまたチャーミングで可愛い。
私の自慢の母親だ。
私も背筋を伸ばしておはようと挨拶すると、母さんは急に眉を下げて、私のもとに歩み寄ってきた。
「なんだか顔色が良くないわ。声も掠れているし…。
もしかして、あまり眠れなかったの?」
腰を屈め、母さんが心配そうに私の頬を撫でる。
私は母さんの優しい手つきが嬉しくて、母さんの柔らかい手の甲に自分の指先を重ねた。
「ううん、そうじゃないの。ちゃんと眠れたよ。
ただ……、」
既に終わった話ではあるが、母さんを相手に嘘をつく必要もないので、私は今朝起きた出来事を正直に打ち明けることにした。
「また、怖い夢を、見たの」
「……どんな夢?」
私の言葉に母さんの表情がぴたりと固まり、私の頬を撫でていた手も途端に強張った。
その反応を見て、あまり心配をかけるようなことを言ってはいけないかと、夢の内容まで説明するべきか少し考えた。
「気が付いたら、白い部屋の中にいて、私は閉じ込められてたの。
その部屋は、すごく寒くて、冷たくて…。私は何度も、誰か助けてって叫ぶんだけど、いつまで経っても助けは来なくて、ずっと、一人ぼっちで。
このまま、私の体は凍り付けになっちゃうのかなって思って…。それが少し、怖かった」
夢の中で体験した出来事を思い出しながら話すと、母さんはなにも言わずに私の言葉を聞いてくれた。
そして話し終えると、母さんは私の頭をそっと自分の胸に押し当て、抱きしめてくれた。
母さんの温かい体温が肌に伝わり、母さんの香りが全身を包む。
仄かに甘い柔軟剤と、食べ物の芳しい香りが混じった匂い。
この匂いが側にあると、何故かそれだけで安心できる。
私は母さんの胸に顔を埋め、細い腰に腕を回して抱きしめ返した。
「かわいそうに。それは怖かったわね。
でも、もう大丈夫よ。母さんがずっと側にいるから。
悪いお化けがキオラに悪戯しないように、私がキオラを守ってあげますからね」
私の頭を撫でながら、母さんが優しい声で言う。
以前から私が悪夢に悩まされていることは伝えてあるが、夢の内容まで詳しく説明したのは、さっきが初めてのことだった。
夢の中で見た光景や、体験した出来事を上手に説明できなかったからというのもあるが、あまり生々しいことを言うと余計な心配をかけてしまうと思ったから。
でも、こんな風に受け止めてもらえるなら、これからは出来るだけ正直に話してみようかな。
最後にもう一度ぎゅっと抱きしめてからゆっくり腕を緩めて、母さんの顔を見上げる。
すると母さんは、なにかを企むような笑みを浮かべて、私の頬を指先でつついた。
「それに、今朝は特別なものがあるの」
「特別なもの?なに?」
「キオラを笑顔にする魔法よ。
ほら、よく匂いを嗅いでみて。なんだかわからない?」
私が首を傾げると、母さんはすんすんと鼻を鳴らしてみせた。
母さんを真似て私もダイニングに漂っている空気を嗅いでみると、奥のカウンターキッチンの方から甘い香りが流れてきた。
この匂いって、もしかして。
「もしかして、フレンチトースト!?」
「あたり!早起きしてクリームも作っておいたのよ。今朝のは特に自信作」
「嬉しい!食べたいと思ってたの!」
はっとした私が思わず大きな声を上げると、母さんはくすくすと楽しそうに笑った。
以前、おやつにと作ってくれたフレンチトーストがとても美味しくて、私がまた食べたいと何気なく言っていたのを母さんは覚えていたらしい。
そのためにわざわざ早起きをして、添える生クリームまで準備してくれたようだ。
母さんの手料理はどれも絶品で、スイーツを作る腕もお店を出していいくらい。
毎日ご馳走が食べられて、私はとても幸せだ。
「さ、お楽しみが待っているから、早く顔を洗ってらっしゃい。
キオラのお皿には、クリームをたっぷり添えてあげますからね」
「うん!ありがとう母さん。急いで支度してくるね」
母さんに背中を押され、私は早足で洗面所まで向かった。
久しぶりに母さんのフレンチトーストが食べられるかと思うと、つい鼻歌まで歌ってしまいそうな気分だった。
洗面所の明かりを付け、チェストの上のラックから洗顔用のヘアバンドを手に取る。
そして、早速顔を洗おうと、洗面台の鏡に目をやった時だった。
鏡に映っているのは、当然自分の姿。
その後ろに、一瞬見知らぬ人影が佇んでいるのが見えたのだ。
私は思わずヘアバンドを落としてしまい、慌てて後ろを振り返った。
しかし、そこには誰もおらず、再び鏡に目をやった時には、もう私の背後にはなにもなかった。
なんだ、今のは。
あまりに一瞬のことだったので、あれがただの見間違いだったのかすらわからない。
幻?起床してまだ間もないから、寝ぼけた頭が錯覚を起こしたのだろうか。
でも、それにしてははっきり見えた気がするし、微かに気配のようなものも感じた気がするのだが。
不思議に思いながら、床に落としたヘアバンドを拾い上げ、私は鏡に映る自分の顔を指先でなぞってみた。
勘違いでなければ、先程の人影、なんだか自分とよく似た容姿の女の子、だった気がするんだけど。
でも、やっぱり錯覚だという気がしてきたし、ダイニングで母さんが待っているから、今はあまり深く考えないようにしよう。




