Episode30-11:ゼロワンの封印
「───初めまして、キオラちゃん。
私の名前はソフィア。今日からあなたのお母さん役をやるように言われています。
生まれはロシアだけど、今はヴィノクロフのエリシナという街に住んでいるの。綺麗でいいところよ。
そして、こちらが…」
「イヴァンだ。ソフィアさんの夫として、そして君の父親として、これからの人生を生きていくようにと頼まれた。
フェリックス先生の期待を裏切らないためにも、君のお父さんとして精一杯頑張るよ。
今日からよろしくな、元ゼロワン」
目を覚ますと、私はベッドの上にいた。
側に立っているのは、研究所の職員が三人と、研究員が一人。それから、見知らぬ中年ほどの男女が二人。
ベッドで横になっている私を取り囲むように、二人の男女がこちらを見下ろしていて、ぼんやりとした視界には白い天井と男女の笑顔が映っている。
何故だろう。せっかく目が覚めたのに、妙に意識がふわふわする。
全身が気怠い。四肢が鉛のように重くて、腕が上がらない。足が動かせない。
眠い。まだ夢の中にいるみたいで、思考が働かない。
指先が氷のように冷たく、なのに頭だけが熱を持っている。
熱くて冷たい。どこか、なにかが寒い気がする。
「おはようございます、ゼロワン。気分はいかがですか?」
イヴァンとソフィアと名乗った男女が脇に引っ込むと、研究員の一人が入れ代わるように私のもとへ近付いてきた。
手にはカルテを持っていて、白衣の右胸のポケットには、国章が刻まれた赤いバッジを付けている。
あのバッジは、なんだったか。
確か、本人の身分を明らかにするための証明書のようなもの、だったはずだが、それがなにを意味しているのかが、どうしても思い出せない。
とても重要で、私にとって馴染みの深い代物である気がするのだが、肝心なことだけを覚えていなくて、胸の辺りがもやもやする。
「ここ、は、どこ、ですか」
返事をしようと口を開くと、漏れたのは殆どが掠れた吐息だった。
おかしいな。上手く声が出せない。
まるで、長い間喋っていなかったような、数年ぶりに喋るような感じで、喉が強張っている。
自分の声って、今までどんな風に音にしていたんだっけ。
そんなことも忘れてしまうくらい、今の私の頭の中は、空だ。
「ここはゴーシャーク研究所の医務室ですよ。
今はまだ意識がはっきりしていない状態なので、実感が湧かないかもしれませんが、直に色々と思い出してくるはずです。
なにも心配いりませんよ」
ゴーシャーク、研究所。
ああ、その名前には覚えがある。
確か、私が赤ちゃんの時からお世話になっている施設で、体の弱い私は、昔からここで治療を行っていた。
研究所と名が付いているが、私にとっては最寄りの病院のような場所だ。
少しずつ霧が晴れていくように、私の中の記憶が色付いていく。
朦朧とした意識が輪郭を持ち始め、呼吸の仕方や唾の飲み込み方を思い出してくる。
しかし、目の前にいるこの人は、誰だったか。
名前は知っている。
エメリー・ロカンクールという白人の若い男で、出身はスイス。
短く切り揃えられたブロンドの髪と、スカイブルーの大きな瞳が印象的な美男子で、初めて会った時にはその中性的な容姿から女性と間違えてしまった。
見かけの割に声が渋くて、それがまた意外で驚いたこともよく覚えている。
なのに、彼が何者であるのかということだけが、全くわからない。
彼個人の詳細なプロフィールははっきりと覚えているのに、彼が普段なにをしている人で、研究所でどんな仕事をしているのかが、なにも…。
なんだろう、この感じ。
馴染みを感じるのに知らない人な気がするし、知らない人だと思うのにどこかで会ったことがあるような、不可思議な感覚が全身を包んでいる。
なにかが変だと思うのに、なにが変なのかわからない。
「では、早速ですがいくつか質問をさせて頂きます。
まだ話すのは辛いと思いますが、大切なことですので。出来るだけ早くに済ませてしまいましょう」
エメリーがベッドの脇に置いてあった椅子に腰掛け、カルテと私の顔を交互に見比べながら、事務的な質問を投げ掛けてくる。
「ここの研究所を取り仕切っている総帥。君の専門のお医者さんは誰ですか?」
「フェリックス、キングスコート先生」
「君の体には生まれつき重い病が巣食っていますね。それはどんな病気ですか?」
「神経の、病気、で……。
すぐに死ぬようなことはないけど、完治は難しくて……。よく気持ち悪くなったり、気を失ったり、する」
研究所のこと、私の体のこと。
他にも色々と質問をされ、私はその全てに正直に答えた。
エメリーの問い掛けに返事をする度に、自分の声と言葉が、ゆっくりと頭の中に染み込むように刻まれていく。
実際に自分で言葉にしてみると、より記憶が鮮明になっていくようで、エメリーの問いに答えるほど私は私という人間のことを思い出せるようだった。
そうだ。私は生まれた頃から神経の病に侵されていて、そのせいで普通の子達とは同じ生活が送れないんだった。
しょっちゅう体調を崩してはこの研究所に運びこまれ、病気が原因で、私は学校に通うことも、友達と遊ぶこともできなかった。
でも、研究所の職員達や両親が掛かり切りで世話をしてくれて、話し相手になってくれたから、そんなに寂しいと感じたことはなくて…。
……あれ。両親?
両親って、なんだっけ。
私の両親って、誰だっけ。
私のお父さんとお母さんって、どんな姿をしていたっけ。どんな名前だっけ。
あれ?
そもそも私は、どこで生まれたんだろう。
この国の名前はフィグリムニクスだ。ゴーシャーク研究所はその首都のキングスコートにあって、フェリックス先生はそこの主席をやっていて……。
だから、私が生まれたのは、この国のどこかで、私の両親もこの国に暮らしている住人で、私は……。
私の、名前は。
"───だから、諦めないで。私も諦めずに戦うから"。
"───あいつらの言うことは絶対に信用しちゃだめ。あなたは、あなたの思いを、あなた自身の心だけを信じていて"。
その瞬間、脳裏に赤髪のお姉さんの顔がちらついて、私は反射的に勢いよく体を起こした。
鳩尾の奥からなにかが一気に昇ってきて、慌てて口元を手で押さえたが、堪えきれずに溢れたものを零してしまった。
幸いなにも食べていなかったので、吐いたのは微量の胃液だけで済んだが、指の隙間から垂れたそれが、白いシーツにぽたぽたと染みを作る。
頭が、痛い。気持ち悪い。
脳を乱暴に揺さぶられているような感じで、酷い目眩がする。
私は口を両手で押さえたまま俯き、ベッドの上でうずくまった。
けれど、姿勢を変えても、目を閉じても、気持ち悪い感覚はなくならない。
荒い呼吸を繰り返しながら苦しむ私の背中を、エメリーの左手が優しく撫でる。
「可哀相に。まだ完全に構築できていないようですね。
まあ、初めてならこんなものでしょう」
頭上からエメリーの穏やかな声が落ちてくるが、彼がなにを言っているのか理解できない。
音が聞こえた側から消えていくようで、エメリーの告げた台詞のイントネーションだけが、意味もなく頭の中に残響する。
苦しくて、上手く息が吸えない。吐けない。
なのに、この感覚が、どこか懐かしいという気がする。
以前にも、今に似た息苦しさを経験したことがあると、思い出せないのに思ってしまう。
あの人の名前は。
赤い髪の、美しい瞳と声をした、あのお姉さんの名前を、私は知っている。
ずっと前に、何年も前に、昨日に、つい先程会ったばかりの彼女は、私に教えてくれたんだ。
思い出せ。思い出せ、私。
この苦しさから逃げたら、きっとなにもかも失くしてしまう。
お姉さんのことを忘れて、いつか忘れたことも忘れてしまう。
そんなの駄目だ。全部真っ白になってしまう前に、どうにか、糸口を見付けないと。
ここで手放したら、見逃したら、私は、もう私でなくなる気がするから。
「イノセンス」
独りでに動いた口から、一つの言葉がついて出た。
猫が体の中に溜まった毛玉を吐き出すように、無意識に口が開いて、勝手に声が言葉になる。
そして私は思い出した。それが彼女の名前だということを。
彼女に導かれた先に見たものが、無垢な命の墓場だったことを。
走馬灯のように、どこからともなく溢れ出してくる映像の波が、記憶であることがわかる。
そうだ、違う。
私は体の弱い子供なんかじゃない。私に両親なんていない。
ここは、私の苦しみを癒してくれる場所なんかじゃない。
フェリックス先生は、私を診てくれるお医者様なんかじゃ、ない。
ここにいる、エメリー・ロカンクールは、あの赤いバッジの意味は、晩成隊の。
「もう一度やり直しだな」
急にトーンの低くなったエメリーの声に、私が恐る恐る顔を上げると、エメリーのスカイブルーの瞳と目が合った。
その瞬間、うなじの辺りに衝撃が走って、間もなく鋭い痛みが全身に走る。
首に、なにかが刺さっている。いや、刺された。
私はこの痛みを知っている。
エメリーのこの表情は、あの時の先生の顔と同じだ。
まただ。あの時と同じ。
だから、この薬が体に馴染んだ頃には、私はまた忘れてしまうんだ。
私が私であることを忘れて、きっと今より、もっとずっと透明に近くなる。
「エメ、リ────」
今すぐにでもうなじに刺さっている注射器を抜いてしまいたいのに、体が言うことをきかない。
同じ姿勢のまま、四肢が石のように硬直している。自分の鼓動だけが絶えず動いている。
勝手に溢れ出す涙を拭うことも、もうできない。
「大丈夫。次こそは上手くやってあげますからね」
最後に見たのは、エメリーの絵に描いたような笑顔。
最後に聞いたのは、エメリーの人の良さそうな声。
エメリーの白い腕が再び私の背後に回り、うなじに刺された注射器が遠慮なく引き抜かれた。
針が抜けた途端、私は電源が切れたように力が抜けて、重力に逆らえずに仰向けに倒れた。
呼吸が止まる。
飲み込めずに溢れた唾液が、口の端から垂れる。
だめだ。眠っちゃだめだ。
底無しの沼から伸びてきた無数の手が、中へ引きずり込もうと私の足を掴む。
どんどん引っ張られていって、冷たい沼の水面に踵が沈む。
視界に淡い光が滲み始める。
一切の音が耳に届かなくなる。
嫌だ。あの沼に落ちたら、私はもう二度と陸に上がれない。
誰かが上から掬い上げてくれない限り、私は二度と沼から顔を出せない。
掬い上げてくれる人は、いない。
"眠っていいよ"。
"代わりに、ボクが見ていてあげるから"。
"今は、ボクの中でおやすみ"。
再び意識を手放す瞬間、頭の中でまたあの声が響いた気がしたけれど、どうすることもできなかった。
腹まですっかり浸かったところで、一際大きな手が私の目元を覆い、その手に強く引き寄せられた私は、後ろから一気に倒れた。
黒くて冷たい沼の感触が全身を包み、無数の手が、私をより深いところまで連れていく。
ふと見上げれば、沼の辺に誰かが立っていて、落ちていく私をじっと見下ろしていた。
『We must not forget that day.』




