Episode30-10:ゼロワンの封印
「私に、なにをする気なんですか……!」
右頬が床にくっついている状態では上手く口が回らず、喋る度に溢れ出す唾液を抑えられない。
身体機能調査の時以外にこんなに乱暴に扱われたことはなく、だからこそこのイレギュラーな状況が不吉でたまらなかった。
「聡いお前なら、この状況を見れば想像もつくのではないか?」
先生が冷めた声でそう言うと、私の頭を押さえ付けていた何者かの手が引っ込み、代わりにテオドアの右手が私の前髪をわし掴んだ。
テオドアが右手を後ろに引っ張った分だけ、自然と私の頭が持ち上がっていく。
不可抗力でのけ反った首からはくぐもった声が漏れ、力付くで上を向かされた首は、骨の軋む音を立てた。
聡いお前なら、と。
またしても私の悪い予感は当たってしまったみたいだ。
この人を、こいつらを相手に慈悲を求めるだけ、時間と気力の無駄だったというわけか。
なにもかも丸く収まる結末なんて、この世界では決して起こり得ないと知っていた。そんなのは最初から分かっていたことだった。
なにかを与えられるということは、同じだけ、私の中のなにかが奪われるということ。
こちらが先にサクリファイスとなるものを捧げなければ、彼らはこちらの要求に耳も貸してくれない。
彼らに、無償の希望を期待してはいけない。
嘆くな。理不尽は嫌というほど慣れているだろ。
「じゃあ、どんな罰を与えますか」
けれど、いいさ。それでも。なんでも。
どんな罰でも受けると言ったのは私なのだから、今更保身のための言い訳はしない。
これからなにをされようと、私の体がどうなろうと。それが必要なことだと言うなら従ってやる。
ただ、子供達を救うと約束したことだけは、絶対になかったことになんてさせない。
私が罰せられることと引き換えに、なにがなんでも、子供達の身の安全は保障してもらう。
もし約束を破るというなら、その時は遠慮なく、あなたの首をへし折ってやるぞ。
「罰?おかしなことを言うな。
これはむしろ、私の慈悲だよ。お前への褒美と言ってもいい」
言い終えると同時に、先生は懐から小ぶりのピルケースを取り出して、中に入っている錠剤を何粒か口に放り込んだ。
あの錠剤は先生がたまに服用しているサプリメントで、眠気を覚ましたい時などに飲むと具合がいいのだと、前に言っていたのを覚えている。
ガリガリと、わざとらしく音を立てて錠剤をかみ砕く咀嚼音が、酷く耳に障る。
本人に挑発する気はないのだろうが、その一挙一動が無性に神経を逆撫でる。
今このタイミングであのサプリメントを飲んだということは、今の状況に先生が飽きを感じ始めているということだ。
無表情で眉を下げている顔には、これ以上の問答は不要だと書いてある。
くそ。ことごとくペースを持って行かれる。
それも、本人は意図してやっているわけではないから、尚のこと性質が悪い。
「だったら、この薬は、なんなんですか。
この注射を打たれたら、私の体はどうなるんです」
沸々と込み上げる怒りと苛立ちを堪えるので手一杯で、冷静に思考が働かない。
なので、こちらももう余計なことは聞かないことにした。
テオドアの持つ謎の薬液が私の体に投与されるのは、恐らく覆らない決定事項だ。
ならば、何故そうするのかではなく、そうした後どうなるのかだけ分かればいい。
事実を答えるだけなら、例え会話が噛み合わなくても簡単なことだろう。
喉が引き攣らないように奥歯を噛み締めながら、質問の内容を変えて再び先生に問い掛ける。
すると、私の視界に映る先生の姿が、スローモーションでピルケースを懐に仕舞った。
「そいつは随分前に私が開発した薬でな。公には未発表のため流通はさせていないが、効果のほどは実証済みだ。
対象者の特定の記憶を消し、まるで別人に生まれ変わったかのような気分にさせてくれる」
"記憶を消す"。
先生のその一言を聞いて、私は先生の思惑を一瞬の内に理解した。
無駄と理解していても抵抗せずにはいられなくて、全身をじたばたと暴れさせてみたが、計四人の研究員がしっかりと私の体を押さえ付けているため、びくともしない。
大の男四人にのしかかられてしまっては、いくら武術を習っているとはいえ、最早どうにもならなかった。
背後から伸びてきたシムの手が強引に私のボレロを脱がしてきて、私の右腕と首筋が露出される。
それに合わせて、テオドアが私の頭を右に倒し、続けて他の誰かの手が、その位置から動かないように私の顎を掴んだ。
シムの細い指先が、あらわになった私の首筋を這っていく。
どこに針を刺すかを確認しているのか、私が抵抗できないのをいいことに、まるで水揚げされた魚を品定めする手つきで遠慮なく触れてくる。
嫌だ。いやだいやだ。
もがけばもがくほど、四人が私を押さえ付ける力が強くなっていって、恐怖心と焦りが募っていく。
「……っぜんぶ、なかったことにする気ですか。
私の記憶を、消して…。みんなをたすけると、約束したことも、なかったこ、とに…っ!」
自分では目一杯叫んだつもりでも、実際に出た声は震えていた。
怖い。記憶を消されたら、今の私が消えてしまったら、明日の私はどうなるんだ。
子供達の命は。助けると約束したこともなかったことにされて、私は先生に約束をさせたことすら忘れて。
ここに、哀れな兄弟達が存在していたことも、全部忘れてしまうのか。
そんなの嫌だ。
そんなのは私じゃない。
今までの記憶を失ったら、私は私でなくなる。実質、死ぬのと同義だ。
先生がまた私の目の前まで歩み寄ってきて、震える私の頭を撫でた。
この人に触れられたくないのに、頭に乗せられた手を払い落としてしまいたいのに、できない。睨むことしかできない。
「心配するな、ゼロワン。これはお前への褒美だと言っただろう」
「助けるって、約束したくせに……!」
「約束はした。だが、お前はやり方を指定しなかった。だから、私は私のやり方で、お前の望みを叶えてやることにしたんだ」
"大丈夫。一度は空になっても、すぐに代わりの息を吹き込んでやる"
"それまでの間、精々甘い夢に浸り、束の間の幻想に酔いしれるといい"
"形はどうあれ、お前の望みは刹那の空想の中に果たされるのだから"
"これなら、約束を破ったことにはならないだろう?"
そう言い残し、先生が手を離して一歩後ろへ引き下がった。同時に、右の首筋にテオドアの注射器が宛がわれる。
細く鋭い針が肌に触れる感覚に、私は虚しくて涙を流した。
私は、馬鹿だ。
「ぜったい、ゆるさない。
あなたも、おまえらも。なんどわすれたって、このにくしみはいっしょう、きえないぞ」
最後の言葉くらいは聞いてやろうということなのか、私が恨みつらみを吐き終えるのを待ってから、テオドアが左手を斜めに構えた。
そして、注射針が容赦なく首筋に突き刺さる感覚に、私は一度呼吸を止めた。
中の薬液がゆっくりと体内に注がれていって、その溺れるような息苦しさから、生理的な声が途切れ途切れに漏れる。
視界が歪む。息ができない。
刺された瞬間はとても痛くて苦しかったのに、逆に引き抜かれた瞬間は、いつ針が抜けたのかわからないほど痛みを感じなかった。
急に、眠くなってきた。
徐々に重くなっていく瞼を、開けていられない。
このまま意識を手放してしまったら、次に目を開けた時には、私は。
深い湖に足の先から浸かっていくように、少しずつ意識が遠ざかっていく。
頭まですっかり沈んだ時には、もうなにも見えなくなっていた。
最後に聞こえたのは、赤ん坊の誰かが泣く声。
それから、初めましてと囁く、自分とよく似た声だった。




