Episode30-9:ゼロワンの封印
すっかり動けなくなった私に、先生が静かに歩み寄ってくる。
没収された子供は再び先生の腕に戻されたようで、泣き疲れたのか少し大人しくなっていた。
「かえ、して…!その子を返して…っ」
唯一自由に動かせる首を目一杯のけ反らせ、私が必死に睨み上げると、こちらを見下ろす先生が穏やかに微笑んだ。
この状況で、どうしてそんな顔ができるのか。
深い憎悪と憤怒に満ちた目を向けられているのに、何故そうも平然としていられる。
やっぱり、この人は普通じゃない。
なんとかして、あの子をもう一度奪い返さないと。早くあの腕の中から引き離してやらないと、今度こそ容赦なく殺されてしまうかもしれない。
悔しさから思わず唾を吐いてやりたい気持ちだったが、圧迫されているため腹筋に力が入らない。
口から漏れるのはだらしなく垂れた唾液と、ひゅーひゅーと掠れた吐息だけで、発声しようとすると喉の奥が引き攣って、上手く喋れなかった。
「返す?返すもなにも、最初からこいつはお前のものではないだろう」
どうしてそこまで執着するのか、とでも言いたげな顔で、先生が不思議そうに首をかしげる。
その態度は人によってはおちょくられているように映るかもしれないが、先生は私を煽る目的でそうしているのではない。
単純に、本気でわかっていないだけだ、この人は。
あの子の命を紙屑同然にしか思っていない先生には、私がこうも怒っている訳が理解できないんだ。
どうせ処分されてしまうものに愛着を持ったところで、後に残るのは虚無だけであるのにと。
もう、いやだ。こんなの。
なにを言っても通用しない。誰も私に味方してくれない。
見渡せば周りは敵ばかり。守るべきものは既に魔王の手中に堕ちていて、私の腕は重い枷に封じられている。
手を伸ばすことさえ叶わず、突破口も見当たらず、先に待つ未来には絶望しかない。
どうする。こんな時私はどうすればいい。
せっかく出会えたのに。こんなに近くにいて、救おうと思えば救えたはずなのに。
もっと、もっと私が賢ければ。もっと私が強ければ。もっと私が大人であったら、この最悪の状況も、どうにか打破できたかもしれないのに。
悔しい。結局私は、ただの無力な子供だ。
あれだけの大口を叩いておきながら、なんて愚かなことだ。なんて詰めが甘いんだ。
奥歯を噛み締め、大粒の涙を零しながら、私は振り絞った声で懇願した。
「………さ、ないで」
「何?」
「……にも、しないで。その子に、なにもしないで。
私はどうなってもいい。どんな罰でも受けるから、お願いします。
ここにいる子供達を、どうか殺さないで」
これ以上みっともない姿を晒したくないと思うのに、堪えようと意識すればするほど涙が溢れてくる。
私の歪んだ双眸から溢れた涙が、白い床にじわじわと水溜まりを広げていく。
すると先生は、なにを思ったのか子供を手放すと、研究員の一人に預けて、おもむろに私の目の前で膝を折った。
呆然としている私の顎を右手で持ち上げ、強引に上を向かせる。
「どんな罰でも甘んじて受けるということは、自分が罰を受けるに値する罪を犯した、と認めることになるが、それでいいんだな?」
「……はい」
「よろしい。ならば今この場で、その罪とやらを告白してもらおう。
ゼロワン。お前は己を何者と見ている?」
掴まれた顎からも絶えず涙が滴り、先生の長い指を汚していく。
しかし先生はそんなことは気にも留めずに、本物の父のような穏やかな声で、私に問うた。
正直このシチュエーションは、改めて屈服と従属を誓わされるようで内心不服だった。
だが、抗う術がない以上、成り行きに身を委ねる他ない。
私が先生の言うことに大人しく従っていれば、ひょっとしたら、せめてあの子の命だけは助けてもらえるかもしれない。
駄目元でも、やってみればなにかが変わるかもしれない。
まだ、諦めるな。
出来ることだけを考えるんだ。
先生の問い掛けに私が答えようとすると、私の腰を膝で押さえ付けていたシムが少しだけ力を抜いてくれて、呼吸が楽になった。
「わたしも、この子達と同じなんでしょう。
私の、生物学上のお父さんと、お母さんも、混血の人間で、血の繋がった縁者だった。そしてそれを、あなた達が遺伝子的に交配した。
本棚の中のファイルに書いてあったことと、同じ。私とこの子達は、同じ方法で作られた、デザイナーベビーだ。
そうでしょう?」
私が確信を持ってそう告げると、先生は興味深げな声を一つ漏らして、それで?と続きを促した。
「なのに、私だけが生かされて、他の子達はみんな処分されてしまった。
それは、この中で唯一、私が五体満足で生まれたからだ」
「仮にそうだとして、お前の出した結論は?」
「殺す必要がない。例え、生後間もない内に多少の問題が見つかったとしても、成長に伴って、その問題は解消するかもしれない。
あなた達の感覚で言うならば、彼らにはまだ"使い道"があるはずだ。
少し見た目や性能が一般と違うからといって、試す前から捨ててしまうのは尚早であると、私は思ったのです」
子供達のことを取るに足らない物として表現するのは心苦しかったが、先生と同じ土俵に立たなければ伝わらないと思い、今だけ先生の言葉を借りて訴えた。
確かに、生まれて間もないこの子達にはなんらかの障害が見られ、五体満足の人間と比べると、生活水準に差があるという意味では劣っているかもしれない。
だがそれは、あくまで表面的な、客観的な評価であり、障害者であるから人としての価値も低いという見方は間違いであると、私は言いたいのだ。
今の時代、義手や義足等の性能は本物の四肢と遜色ないほどに発達しているし、身体に障害を抱える子達にはそういったアイテムを与えてやれば、彼らも五体満足の人間と大差ない生活を送れるはずだ。
知能に障害のある子は、確かに一般と比べて育てるのが難しい場合があるが、その分並の人間には想像もつかないような才能を秘めている可能性がある。
普通のことが普通にはできなくても、特別なことが彼らにとっての当たり前であるかもしれないのだから。
考え方次第で、彼らの未来はいくらでも明るく描いていける。
周りの大人達がしっかりと先導を引いてやれば、ちゃんと前を向けるし、歩いて行ける。
本人の意思を蔑ろにして、他人が無理に摘み取っていいものではない。
ここにいる誰しもに否定されようと、私はそう思っている。
じゃないと、私は。
私が今生きている理由を、肯定できない。
「……素晴らしい。やはりお前は素晴らしいよ。
生きた歳月など関係ない。見た目はただの子供でも、お前の中には大人顔負けの魂が存在している。
それでこそ、私の娘に相応しい」
先生が心底嬉しそうな声でそう言い、私の顎を掴み上げていた手を離すと、そのまま指先で私の頬を撫でた。
喜んでいる、のか。
今の私の台詞の中に、先生の琴線に触れる言葉があったということなのだろうか。
わからないが、先生の中でなにかが変わったことだけは確かだ。
しかし、まだ安心はできない。
緊張を切らさないようにじっと先生の顔を見詰めていると、先生がふと部屋の出入口の方に目をやった。
恐らく、そこにいる誰かに対してなにかの指示を出したんだろうが、体勢的に私は後ろを振り向けない。
だから、先生の目配せの理由が私にはわからない。
「いいだろう。殊勝なお前に免じて、特別に望みを叶えてやる」
次に降ってきた先生の言葉に、私は一瞬我が耳を疑った。
「……じゃあ、助けてくれるんですか。この子達みんな」
「ああ。それがお前の望みなのだろう?」
「ほん、と、に…。本当に、救ってくれるんですね。みんな、生きてもいいってことですね」
「ああ」
俄に信じられなくて、私が確認のため何度も聞き返すと、先生はその度に頷いて肯定してくれた。
やった、のか。本当に。
私が、先生の気に入るように振る舞ったから、先生も考え直してくれたってことか。
私の必死のメッセージが、この人にもやっと届いた、ということなのか。
いまいち実感が湧かなかったが、先生は嘘を言わない人だ。
テレビの前で演説をしている時の先生は、まるで別人のように愛想のよいことしか言わないが、研究所にいる時の先生は違う。
一国の主席としてではなく、研究所の総帥としての先生が言ったことであるなら、先程の台詞は嘘ではない。
「良かった………」
無意識に漏れた一言。
ぼんやりと霞む視界。
妙に遠ざかって聞こえる研究員達の話し声。
安堵から真っ白になってしまった頭の中には、他になにも入ってこない。
ただ、自分の浅い呼吸だけが耳に響いている。
できたんだ、私にも。
私にも、誰かを救うことができた。
どんなに不格好でも、最悪の結末を少しだけ変えることができた。
しばらくの間を置いて、先生の前向きな言葉がゆっくりと全身に沁みてくるのを感じる。
それは私の胸にも微かな希望を与え、今だけは過去のどんな嫌なことも、水に流せてしまいそうな気分だった。
「つくづく哀れな娘だな、君は」
しかし。
喜びを感じていられたのはほんの一瞬のことで、ふと頭上から降ってきた冷たい声に、私は一気に現実へと引き戻された。
こちらが首だけで振り返るよりも早く、シム以外の何者かの手がぬっと背後から伸びてきて、乱暴に私の頭を掴んだ。
勢いよく床に顔を押し付けられ、思い切り頬骨をぶつけてしまう。
痛い。だが、そんなことはどうでもいい。
今、お前はなんと言った、シム。
私のことを哀れな娘だと言ったか。淡々と嘲る声で。
視界の端に、先生のモンクストラップの靴が映りこむ。
けれど、強く頭を押さえ込まれているせいで、全く上を向くことができない。
この状況は、どう考えても普通じゃない。
せっかく嬉しかったのに、あの一瞬は幻だったのか。先生は、良い方に考え直してくれたんじゃないのか。
「せっかく培われたお前の魂をリセットしてしまうのは勿体ないが、お前ならきっと、何度やり直しても並以上の成長を見せてくれることだろう。
余計なものを取り払い、必要な情報のみを残した状態で、もう一度生まれたままの姿に戻してしまえば…。
お前は今度こそ、私の理想通りの存在に生まれ変われるはずだ」
独り言のように呟いた先生の隣に、どこからか小さめのアタッシュケースを持ってきたテオドアが並ぶ。
床に置いたアタッシュケースの蓋を開け、中にあるものを取り出したテオドアは、私のすぐ側まで歩み寄ると、その場で片膝を着いた。
びくとも動かせない頭の代わりに、目玉を限界まで上に向かせて見上げると、見慣れない注射器を握ったテオドアの手が辛うじて視界の端に映った。
それは一般的なものよりもやや大きいサイズで、太い筒の中には赤い液体が詰まっていた。
血のように鮮やかな赤色。
しかし本物の血と比べると透き通っていて、なにか特殊な薬品であることは一目瞭然だった。
毒々しいというか、あまり人体に与えてはいけないような見た目をしているが、この薬の正体は一体なんなのか。
まさか、この得体の知れない薬を、これから私の体に入れる気なんじゃ。




