Episode30-5:ゼロワンの封印
ブラウンヘアーの彼は、しばらく私のことを見詰めた後、あ、う、と短い声を漏らして喋り始めた。
まだ言葉を操ることはできないため、赤ん坊の彼がなんと言っているのか私にはわからないが、必死になにかを訴えようとしている感じだ。
全身を使ってじたばたと動き、両腕がない分、自由に動かせる足を目一杯に暴れさせている。
なんだ。急にどうしたというんだ。
もしかして、排泄をしておむつが気持ち悪いのだろうか?それともお腹が空いたのか、肌寒いのか暑いのか。
何分自分よりも幼い子供と接するのは初めてのことなので、この行動がなにを表すサインなのか見当もつかない。
ただ、落ち着きがない割に表情は穏やかだし、ぐずって泣き出しそうな雰囲気でもない。
となると彼は、私に対してなにかを伝えようとしているのか。
不思議に思って、そっと保育器に顔を近付けてみると、彼はあうあうと喋りながら、ふと私の背後に目をやった。
よく見ると、何度もそちらの方に向かって足を蹴り上げている。
まるで、そっちを見ろと私に促しているように。
「なに?……こっちに、なにかあるの?」
彼の言葉が理解できない以上、彼の言わんとしていることが私にはわからない。
ただなんとなく、この行動には重要な意味がある気がして、私は彼の示してくれた辺りをくまなく調べてみることにした。
一見すると、なんてことはない部屋の隅。
すぐ側には左の列に並んでいる保育器があるが、他に珍しいものはなにも置かれていない。
彼が気にしていた方向は、確かこの辺りだったはずだが。厳密に彼は、この辺りのどこを注視していたのか。
そんなことを考えながら、私はとりあえずその場で一回りしてみた。
すると、左の壁紙の一部が微かに盛り上がっていることに気付いた。
盛り上がっている部分の面積は、大体縦幅10cm、横幅6cmほどで、厚みは3~4mmといったところだろうか。
薄型の小さなタブレットが壁に張り付いている感じで、よく目を凝らさないとそこが膨らんでいることに気付けない。
周囲には特に目印もないし、壁紙と同じ白塗りでカモフラージュされているため、最初から位置を特定している者でなければ、まず見落としてしまう違和感だ。
非常用ボタンの蓋、のようにも見えるが、これは一体なんなのだろう。
しかし、膨らみの部分に爪をかけてみても、開かない。
どの角度から引っ張ってみても、固くて開けられない。
試しに、表面の部分を指の間接で叩いたりもしてみたが、それも反応なしだった。
開けられないのなら、蓋じゃないのか。じゃあこの膨らみの正体は一体。
少し考えて、私ははっとあることを思い付いた。
この細長い四角形は、もしかすると。
先程首にかけ直したジャスパーのカードを再度引っ張り出し、カードの裏面を膨らみの部分にかざしてみる。
すると、膨らみの右上の部分が一瞬赤い光を点灯させ、続けてピ、と短い電子音が鳴った。
境界部のシステムは基本研究員のIDカードが必要のようだし、もしやと思ってやってみたのだが、どうやら読みは当たったようだ。
カードをかざしてから5秒が経過すると同時に、壁紙の一部が素早く横にスライドして、中から背の高い本棚が現れる。
この謎の膨らみは、壁の中に隠してある本棚を出し入れするための鍵だったらしい。
本棚の中には、保育器の横に配置されているものと同じファイルが、いくつも並んでいた。
中身の入れ替えが激しいのか、それとも単純に数が足りないのか。
並べられているファイルの間にはところどころ隙間が空いていて、中には真横に倒れてしまっているものもある。
私は、その中から最初に目に付いたものを適当に手に取り、開いた。
一番目のページには、これまで確認してきたものと同じように、幼い子供のカルテが納められていた。その内容も、他の子達とほぼ変わらない。
本人が計6ヶ国の混血であるということ、本人の両親が血縁同士であるということ。
それから、観察か廃棄かの項目には、廃棄の方に丸が付けられているということ。
現状把握できている三つの共通点に、このカルテも全て当て嵌まっている。
ただ、他の子達のカルテとは違う箇所が、一カ所だけあった。
カルテの左上に添付されている、本人の全身写真。
写真に収められている赤ん坊の姿は、右腕と右足が通常では有り得ない方向に曲がっている奇形児だった。
恐らくこれも近親相姦の影響によるものと思われる。
その写真の上に、赤いインクで大きく×印が書かれているのだ。
それを見た瞬間、私は背筋がぞっとした。
そういえば、カルテはあっても、肝心の本人の姿がどこにもない。
コロニーの部屋の中には50人の赤ん坊が眠っているが、彼等のカルテはそれぞれ保育器の横に配置されてあるし、ちゃんと人数分ある。
じゃあ、これは?
この本棚に仕舞われている分のカルテは、誰の記録を付けたものなんだ。
このカルテに記録されている子供は、今どこにいる。
やめて。違う。そんなはずない。
私が悪い方に考えすぎているだけで、きっとなにか理由があるはずなんだ。
心臓がどくどくと脈打つ度、その振動が全身に伝わって、ファイルのページに触れる指先が小刻みに震えてしまう。
無意識に出た生唾を飲み込み、すっかり冷たくなった指で、恐る恐る次のページをめくる。
「これ、………」
部屋にいる50人分のファイルには、例のカルテしか納められておらず、次のページからは余白が続いているだけで、なにもなかった。
けれど、本棚の中に仕舞われている方のファイルは違った。
カルテの封入されているページをめくると、本人の更に詳細なデータと、本人がどうやって生まれたのかが明記された資料が、何枚か封入されていた。
そこに記されていたのは、俄かには信じがたい事実だった。
なんと、この子の生物学上の両親は、自然な妊娠によってこの子を身篭ったのではなく。
ボランティアで協力してくれた人達の遺伝子を、マグパイの研究員達が意図して受精させていただけだというのだ。
つまりこれは、血族同士の禁断の愛の結晶ではなく。
赤の他人の手によって生み出された作り物。
所謂、試験管ベビー、デザイナーベビーというやつらしかった。
マグパイの研究員達は、わざわざ遺伝子的に近親交配を行っていたのだ。
一体何故、こんな狂気じみたことを。
だが、もっと恐ろしい事実は他にある。
ボランティアで協力してくれた人達はあくまで自分の遺伝子を提供しただけであり、その後の過程には一切関与していないとされている。
つまり、自分達の提供した精子や卵子が、後に研究員達の間でどんな風に扱われているかを、何一つ知らないということだ。
本人の許可なく勝手に交配を試されて、人体実験の道具にされているなどとは夢にも思っていない。
研究員達の手によって密かに作り出される、新たな命。
となると、その受精卵は一体誰が代わりに育て、出産したのか。
その答えは、全く無関係の若い女性達に、代理出産を強いていたということだった。
資料に記載されている情報によると、例の近親交配によって結ばれた受精卵は、後に生まれてくる子供のみならず、代理出産を行う女性にも大きな影響を与えるらしい。
生まれた子供は生来なんらかの障害を抱え、その子達の代理母を努めた女性達は、例外なく命を落としていると。
原因は不明。
ただ、安定期を過ぎた辺りから急速な体力の低下が始まり、もう直出産を迎えるという頃にはすっかり衰弱して、常人では有り得ないレベルにまで体温が下がってしまうのだという。
その後、お産後間もなくして、中にはお産に至る前に、彼女達は眠るように死亡する。
まるで、お腹の中にいる子供に、じわじわと自分の命が吸い取られていくかのように。
実験によって作り出された子供達は、全員健康を損なった状態で無理矢理に生み落とされ。生んだ女性も例外なく死ぬ。
そんな非生産的で、不毛で残酷な実験を繰り返していれば、当然必要な人材も次第に足りなくなっていくはずだ。
果てには必ず絶命という結末が待っている。
ならば、当然代理母を努めてくれる女性の数も減っていき、いずれ潰えてしまうのは目に見えている。
仮に協力を仰いだところで、最初から死ぬと分かっている実験に手を貸そうだなんて人はいないだろう。
受精卵だけならいくらでもストックがある。
あとは、それを代わりに出産してくれる器があればいいだけ。
重要なのは、その器の確保。
「かみ、かくし」
代理母を努めたとされる女性のプロフィールの欄に、出産までの経緯と、当たり前のように並んでいた謎の単語。
KAMI-KAKUSHI。
ローマ字で表記されたその単語の意味までは載っていなかったが、資料によると、彼女達は皆カミカクシという組織によって捕らえられた一般人であるとのことだった。
KAMI、で一度区切られているということは、これは日本語の上、もしくは神を示しているのかもしれない。
そう仮定するならば、後半のKAKUSHIは恐らく、日本語で"隠す"という意味の言葉だろう。
隠す上、隠す神?
まだ日本語のカリキュラムは修了していないので、日本独自の風習や概念までは予習できていない。
とにかく今は、カミカクシという組織の名前だと思っておくことにする。
なんにせよ、これでマグパイの研究員達が内密に行っていたことの真相が、ようやくはっきりした。
彼らは、カミカクシと呼ばれる謎の人身売買組織と結託し、世界各国の若い女性を集めて、自分達の研究に利用していた。
カミカクシがなんらかの方法で女性達をさらい、さらってきた女性達をマグパイが引き取る。
そうすることで、わざわざ表向きに募集をかけずとも、安全に人材を手に入れることができたというわけだ。
そして、マグパイの奴らに捕まった女性達は、後にマグパイが作った特別な受精卵を胎内に埋め込まれ、文字通り子供を作る道具として強引に代理母親に仕立てあげられる。
近親交配という常軌を逸したやり方で作られた、誰のものともわからない得体のしれない卵を。
結果、生まれた子供達は漏れなく心身に障害を抱えることとなり。
代理母親役を強いられた女性達も、妊娠中に体を壊して、間もなく死亡した。
誰一人として幸せにならない。
非道で残忍。こんなのは命の冒涜だ。
神を崇めるのは所詮口だけ。
あいつらは、道徳なんてものは取るに足らないくだらない感情だと思っている。
自分達が罰を受けるに値する生き物だとは、露も思っていないんだろう。
奴らが頑なに自分達の所業を明かそうとしなかったのは、これが理由だったようだ。
こんなことが知れれば、私の中で反抗心や敵対心が芽生えるのは時間の問題だと、奴らもわかっていたから。
思わず叫んでしまいたくなるほどの怒りが一気に湧いてきて、私は声を殺すためにきつく奥歯を噛み締めた。
最後の16枚目のページをめくる頃には、呼吸することさえままならなくなっていた。




