Episode30-3:ゼロワンの封印
お姉さんの問いに私が頷くと、お姉さんは計50文字のパスワードを一音一音丁寧に発音して教えてくれた。
目を閉じて耳に意識を集中させると、数字とアルファベットが入り混じった不規則な文字列がお姉さんの声に乗って私の頭の中に流れてきた。
脳髄に染み込むように深く、そしてはっきりと。
お姉さんは、これだけ長いパスワードをメモなしに覚えるのは大変ではないかと心配してくれたが、この程度の暗記であれば私にとっては造作のないことだった。
過去には円周率を100桁以上覚えさせられたこともあるし、昔から暗記や暗算は得意な方だったから。
そういう風に教育されてきたのだから、できるのは当たり前なのだ。
やがて50文字のパスワード全てを言い終えると、最後にどう?と尋ねるお姉さんの声が聞こえた。
私は、その一言を合図にゆっくりと目を開け、覚えましたと答えた。
するとお姉さんは、少し悪戯っぽいような笑みでくすりと笑うと、流石ねと呟いて、ジャスパーのカードを私の首にかけてくれた。
「今教えたパスワードと、このカードがあれば、マグパイの実験室には入れるはずよ。
今なら監視カメラの機能も停止しているし、あなたが中に侵入したってことが途中でバレる心配もない。
ただ、気をつけて。ここから先は時間との勝負。
そう簡単には元に戻らないはずだけど、きっと二時間以内には全てのシステムが復旧する。そうなる前に実験室から出て、あなたが中に侵入した痕跡を一切残さないこと。
絶対に、誰にも見付かっちゃ駄目だよ。いいね?」
「わかりました。教えてくれてありがとうございます、お姉さん」
お姉さんの真剣な顔と声色から、彼女が本気で私のことを心配してくれているのがわかる。
いつもいつも、決められたスケジュール通りに行動して、必要最低限の受け答えしかしてくれない彼らとは違う。
お姉さんは、今私の目の前にいる彼女は、私が今まで接してきたどの人間より、人間らしく、正しい人だと思った。
もし、今回の緊急事態が、彼女によって引き起こされたものであるとするなら、彼女はテロリストも同然の大きな犯行に及んだことになる。
なのに何故か、私はこの人のことを悪い人間だとは、ちっとも思わなかった。
こんなに、こんな風に、正面から私と向き合ってくれる人は、真っすぐに私の心と対話しようとしてくれる人は、今までいなかったから。
だから、お姉さんが私にだけ話し掛けてくれることが、嬉しい。
だから、お姉さんとここでお別れしなければならないことが、悲しい。
例え貴女が何者であっても、これからなにをする気でいるのだとしても。私に触れてくれたあの手は、優しい人の手だったから。
この人が一緒にいてくれるなら、代わり映えのない研究所暮らしも、耐え難い苦痛を伴う実験も、これからは我慢できそうな気がすると、思ったから。
お姉さんから受け取ったジャスパーのカードに目を落とし、短くお礼を言うと、私の声は聞いたことがないような音をしていた。
自分のこんな声を聞いたのは初めてのことで、自分で自分に少し驚いてしまったが、どうしてこうなったのかはなんとなくわかる。
私は、寂しいんだ。
この人とまた離れ離れになるのが。この人とこうして触れ合っている今この時が、もう直過去になってしまうのが。
その時。俯いたままでいる私の体を、ふと柔らかいものが包んだ。
柔らかくて、温かくて、無性に懐かしい感じがして、いつまでも寄り添っていたいような、優しい香りがした。
それから、一拍遅れて首筋に触れた息遣いに、私はお姉さんに抱きしめられているのだと、気付いた。
「かわいそうに。本当に、可哀相な子。
あなたがもっと、憎たらしい子供だったら良かったのに」
「……おねい、さん?」
「ごめんね。このままあなたを連れ去ってしまいたいけど、今の私には力がないの。
こんなことしかしてあげられなくて、本当にごめんね」
私の顔の真横に、お姉さんの赤い頭がある。
私の左耳のすぐ側で、お姉さんの切なげな声が響いている。
連れ去ってしまいたいとは、私と一緒にどこかへ逃げたいという意味なのだろうか。
こんなことしかしてあげられないとは、ジャスパーのカードとパスワードのことを言っているのか。
彼女が一体誰で、どうしてここにいるのかわからない。
だから、これから彼女がなにをする気でいるのか、目的がわからない。
わかるのは、彼女が私を思って胸を痛めてくれているということだけ。
確かに彼女が、優しい人であるということだけ。
背中にきつく回された腕。
肩に埋められた赤い髪。
震える吐息。人肌のぬくもり。
自分のものではない、規則的な心臓の音。
心地好い。誰かに抱きしめてもらうのが、こんなに気持ちのいいことだとは、知らなかった。
固く凍り付いた私の心が、彼女の体温で少しずつ溶かされていくような感じがする。
このむず痒いような、胸が締め付けられるような息苦しい感情が、切なさであるということがわかる。
"おかあさん"
漠然と、彼女の姿に会ったこともない母親の面影を重ねてしまった。
母親に抱かれる子供の気持ちとは、きっとこういうものなんだろうと。
私がそれを言葉にすることはなかったが、お姉さんは返事をするように更に強く抱きしめると、名残惜しそうにそっと体を離して、両手で私の頬を包んだ。
「約束する。
必ず、私があなたを助けてあげる。いつかきっと、私が、あなたをここから連れ出してあげる」
「また、会ってくれるんですか」
お姉さんは頷いて、私の額に自分の額をぴったりとくっつけた。
「だから、諦めないで。私も諦めずに戦うから。
あいつらの言うことは絶対に信用しちゃだめ。あなたは、あなたの思いを、あなた自身の心だけを信じていて。
この先なにがあっても、なにを知っても。どんなに悲しくて辛くても、どうか生きることをやめないで」
「生きていたら、またお姉さんに会えますか」
「会える。きっと会いに来る。
…その時は、今度こそちゃんと、お友達になりましょうね」
そう言うとお姉さんは、私の頬に一つキスを落として静かに立ち上がった。
機材の影から出て、十字路の死角から辺りに人がいないかを確認する。
飛び出す準備をしている。
どうやら、いよいよ別れの時がきてしまったようだ。
私は、思わず行かないでと口走ってしまいそうになるのをぐっと堪えて、ジャスパーのカードを懐に仕舞うと、警戒するお姉さんの背中に向かって声をかけた。
「名前を教えてくれますか」
私の問いに、お姉さんがゆっくりと振り返り、美しく笑う。
「私はイノセンス。
いつか迎えに行くから、今日という日を忘れないでね」
イノセンス。
意味は純真、そして潔白。
雲一つない空のようでいて、透き通った海のような彼女に、まさに相応しい名前だと私は思った。
私の問いに答えてくれたお姉さんは、まだ少し後ろ髪を引かれているような様子だったが、時間が差し迫っているようで、すぐにキリっとした表情に変わった。
思い切り床を蹴り、お姉さんが私に背を向けて走り出した瞬間、彼女の赤い髪がふわふわと風に舞い上がった。
しかしそれはあっという間の出来事で、次瞬きから目を開けた時には、もうそこにお姉さんの姿はなかった。
彼女の向かった方角は、先程の十字路の西の道。
そちらを真っすぐに進んで行くと、ゴーシャーク研究所とマグパイ研究所とを繋ぐ渡り廊下と、私専用の日光浴用出口がある。
すぐに地上に出たいのであれば、確かに日光浴用出口を使うのが手っ取り早い。
だが、一応外には出られても、あそこは高い壁に囲まれているので、研究所からの脱走が目的なら逃げ道としては使えないはずだ。
だとすると、彼女は一体これから、どこに向かうつもりでいるのだろう。
お姉さんに少し遅れて、這って十字路に出た私は、遠ざかっていくお姉さんの背中を見送りながら、彼女の命運を思った。
そして、私もゆっくりと立ち上がって周囲を見渡した。
お姉さんのことは気になるが、彼女はいつか私のことを迎えに来てくれると言った。
だから私は、いつかまた会えるという彼女の言葉を信じ、今の自分にしかできないことをやろうと思う。
偶然手に入った、研究員のIDカードとパスワード。
お姉さんが与えてくれたこのチャンスを無駄にしないためにも、私も今この時間を有効に使わなければ。
付近に人の気配がないかを充分に警戒して、私はお姉さんとは反対の方角に走り出した。
十字路の東側。
こちらの道をしばらく真っ直ぐに進むと、突き当たりに左右の分岐がある。
向かって右側に行けば、研究員専用の休憩室や、図書室などが並ぶ廊下に出て、左側に行くと、立入禁止区域に指定されているマグパイの実験室があるのだ。
この辺りは、私にはあまり関係のない場所なので、普段は滅多に近付くことはないが。
セキュリティーが甘くなっている今ならば、私もあの先へと進むことができる。
謎に包まれた、マグパイ達の営みの場へ。
ーーーーー
「ほんとに、網膜認証が作動してない…」
間もなく、足音と気配を限界まで殺して盗っ人のようにこそこそと走り回った私は、無事に目的の場所までたどり着くことができた。
幸運にも、途中で誰かと擦れ違うこともなかったので、私が今ここにいることを知る者は、赤髪のお姉さん以外にはいないはずだ。
目の前に立ちはだかっているのは、見覚えはあるが馴染みのない、大きな扉。
突き当たりの分岐を左に曲がった先に聳えている、秘密の入口。
ここが、マグパイ研究所の境界部と呼ばれる、マグパイの心臓部といってもいい場所だ。
扉の構えは、ゴーシャーク研究所の結晶部に少し似ている。
研究員達がこの先でどんなことを行っているかは知らないが、一応は実験室という扱いであるなら、きっと中はラボのような造りになっているはず。
はやる心臓を抑え、扉の脇に設置されている網膜認証のマシンを確認してみると、やはり電源ごと落ちていた。
天井の隅に固定されている監視カメラも、全く作動していない。
首に下げていたIDカードを取り出し、網膜認証用マシンの下にある機械にカードを差し込むと、本当に一段階目の認証がクリアされてしまった。
通常はカードの読み込みの後に網膜認証をして、それから所定のパスワードを打ち込まなければならないのだが、今は二段階の本人確認は必要ない。
お姉さんの言っていたことが正しければ、このカードとパスワードがあればロックは解除されるはず。
ジャスパーのカードでさっさと本人確認を済ませた私は、先程お姉さんに教わったパスワードを、素早く機械に打ち込んでいった。
そして、50文字全てを打ち込んでしばらく待つと、セキュリティーロックが完全に解除され、扉が横にスライドして開かれた。
こんなに、簡単に。
まさかこれほど上手くいくとは思っていなかったので、正直驚いたが、呆気にとられている暇はない。
扉の向こうには、やはり結晶部と同じように長い廊下が続いていて、そこから更に六つの小部屋が左右に別れていた。
小部屋の数は右に二つ、左に四つで、右手にある方が広さに余裕がある感じだ。
そして、奥の突き当たりには、見覚えのないエレベーターが一つ。
マグパイにもゴーシャークにも、どちらの研究所にも他にエレベーターなんて見たことがないが、これは地上に直通しているものなのだろうか。
それとも、まさか更に地下へと続いているものなのだろうか。
となると、マグパイ研究所は地下二層構造になっているということになるが、そんな話は今まで聞いたことがない。
出鼻から疑問は尽きないが、なんにせよ、これから全てわかることだ。
ジャスパーのカードを機械から回収し、恐る恐る最初の一歩を踏み出した私は、とうとうマグパイの秘密に介入していった。




