Episode30:ゼロワンの封印
スピロス采配の実験から、約二月後。
相変わらず具体的な日時は把握できていないが、昨日の朝、日光浴で外に出た時に雪が降っていたので、季節が秋から冬に移り変わろうとしているのは確かだと思う。
時間の経過と共に少しずつ私の体調も良くなっていき、今では職員や研究員達を相手にも最低限の受け答えができるまでに回復した。
だが、心ここにあらずといったぼんやりとした調子はなかなか抜け切らず。
話し掛けられても意図せず無視をしてしまったり、誰かに指図されないと食事をとることも忘れてしまったりなど、まだ全快と呼ぶには至らない感じだった。
そこで、最近はようやくデスクワークの授業が再開されたのだが、体の方はまだ万全でないということで、実施訓練の授業と身体機能調査は、もうしばらくお休みということになった。
「総帥はどこだ!フェリックス先生は今どちらにおられる!」
「現在は主席としてのお勤めで手が離せないとのことで、こちらに到着するには、もうしばらく時間がかかりそうだと…」
「チッ。こんな時に地上の連中はなにをやっている…!
仕方ない。どうにか我々で処理する。君はテオドアを呼んできてくれ。ルイスがいない以上、あれの管理はテオドアが責任者だ。
お前は管制室に行って、すぐに予備の電源を復旧させるよう催促してこい」
「わかりました」
そして、そんなある日の午後。
少し前に今日の分の午前授業を終わらせた私は、日課である血液検査と昼食も済ませて、午後からの自由時間をいつも通り適当に散歩でもしようかと考えていた。
するとその時、研究所の奥からバタバタと忙しない足音が響いてきて、マグパイの研究員や職員達がなにやら血相を変えてぞろぞろと出てきた。
全員一様に険しい顔付きで、見るからに気が立っている様子だった。
いつも冷静でポーカーフェースを欠かさない彼らが、こんな風に感情的な態度をとっているのは初めてのことだった。
少なくとも、私は今まで見たことがない。
一体なにがあったのかは知らないが、ピリピリと張り詰めた雰囲気から察するに、なにか予期せぬ事態が発生したのだろうことが窺える。
集団の先頭で、職員の女性に対して早口でまくし立てていたのは、シム・ユソンという韓国系の若い男だ。
すっきりとした黒の短髪に小柄な体格、切れ長な目と凛々しい眉が特徴的なアジア系らしい容姿をしていて、彼とは何度か数学の授業で顔を合わせたことがあった。
通常、私の教育を担当するのは専門の職員か、その都度招かれる講師だけなのだが、シムは過去に数学のコンテストで優勝した経歴があるとかで、数学の授業がある時だけたまに教鞭を振るってくれている。
役職は確か、数いるマグパイの研究員の中から抜擢されたという、幹部の一人だったはず。
そして、そんなシムが苛立った様子で口にしていたテオドアという名前は、マグパイ研究所で指令官という役職についている人物の名だった。
テオドア・リヴィア。元アイルランド系アメリカ人。
プラチナブロンドの髪に、軍人のようながっちりとした体格。
大きな鼻と三白眼が目を引く白人の男で、マグパイ研究所の中ではかなり重要な立場にある人物だと聞いている。
しかし、いつもどこでなにをしているのか、彼の姿を研究所で見掛けることは滅多にない。
指令官としてどういった職務についているのかも不明で、研究員達の口からよく名前は聞くものの、はっきり言ってテオドアは、私の中で謎の多い男という印象だった。
脇目も振らずに早足で廊下を歩いていくシムと、シムの後を慌てて追い掛けていく職員が二人。
それからマグパイの研究員が三人、続けて私の横を通り過ぎていく。
恐らく彼らは、これから目的のテオドアを探しに行くところなんだろう。
すぐ近くにいた私の存在も目に入っていないようだったので、状況はかなり切迫しているようだ。
シムの指示を受け、それぞれの持ち場に向かうため散り散りになっていく職員達。
たまたま付近を通り掛かった者らも、そのただならぬ雰囲気を察して、慌ただしく動き回っている。
そして気が付けば、辺りには他に誰もいなくなっていた。
嵐が過ぎ去ったように廊下は急に静かになり、その場には呆然と立ち尽くす私一人が残された。
さて、どうしたものか。
研究所の一大事といっても、私個人は特に困ることはないし、シムやテオドアのためになにか手助けをしてやろうという気もない。
いっそもっと激しい爆発か火災でも起きて、この研究所ごと崩れてなくなってしまえばいいのにとすら思う。
そうすれば、私は全てのしがらみから解放されるから。
間もなく、頭上から緊急事態警報が降ってきた。
ウー、ウー、と人々の焦燥を駆り立てる低い音が、繰り返し研究所内に鳴り響く。
前にこの警報を聞いたのは、確か首都の方で震度3の地震があった時だったか。
もっとも、それしきのことでは研究所はびくともしないので、一応通告のための警報は出されたものの、実際に目立った被害はなかったそうだが。
しかし、今回の警報は前とは状況が違うらしい。
次いで若い男の声でアナウンスが流れ始め、一時的に研究所内を封鎖するとの説明があった。
同時に、廊下の電気がワントーン落とされ、辺りが薄暗くなる。
先程シムが予備電源がどうのと話していたから、一刻も早く復旧させたいシステムに電力を優先するため、他は必要最低限の分まで抑えることにしたんだろう。
封鎖、ということは、現在地上にいる者達はその間研究所に入れないということだし、逆に研究所にいる者は、しばらく外に出られなくなるということだ。
わざわざ退路を絶つような真似をするのは、なにか不穏な存在が外に漏洩してしまわないようにするためだろうか。
バイオハザード物質の封じ込めか、それとも研究員達の間で流血沙汰でもあったか。
もし前者であった場合、一応は自分も危険な立場であるはずなのだが、何故か私は酷く落ち着いていた。
死に対する恐怖心が薄い分、身に迫る脅威が例え毒であろうと獣であろうと、別に怖くはないから。
ただ、気が付くと私は、ある場所に向かって足を延ばしていた。
先程シム達が向かった道とは逆の方向。
言い方を変えると、先程シム達が慌てて飛び出してきたとされる、問題の場所だ。
そこは研究所の中でも立入禁止区域に指定されている一角で、境界部と呼ばれている。
境界部に自由に出入りすることを許されているのは、マグパイの研究員とゴーシャークのメンバー、そして限られた一部の職員のみで、それ以外の人間は許可なく立ち入ることを禁じられている。
無論、私もだ。
マグパイの研究員達は普段その中で研究を行っているというが、具体的に彼らがなにをしているのか、私は一切知らない。
人づてに、新薬を開発するための実験を行っているのだと聞かされたことはあるが、その様子を見たこともなければ、開発中の新薬とやらがなんのための薬なのかもよくわからない。
そうだ。昔から、私は知らないことが多すぎる。
英才教育のおかげで、確かに知識は着々と広がっていると思うが、その分身近なものに目がいかなくなっている気がする。
彼らは意図して、私の関心が自分達に向かないように画策しているのかもしれない。
あそこでは一体なにが行われているのか。
たった今発生した緊急事態は、なにをきっかけに火が上がり、どこから煙を立ち上らせているのか。
ほぼ無意識に、前へ前へと進んで行く私の足。
久しく停止していた私の中の好奇心が、疑心暗鬼が、沸々と再燃し始めるのを感じる。
見てみたい。あの先になにがあるのか。
皆が頑なに、私から遠ざけようとしているもの。その正体がなんであるのか、今度こそ明らかにしたい。
ーーーーー
そして、マグパイ研究所の立入禁止区域に向かって段々と走り出した私は、その途中で何者かに捕まった。
十字に別れた分岐点を真っ直ぐに進もうとすると、突然右手の曲がり角から人の腕が伸びてきて、私はその腕に引きずり込まれるようにして体勢を崩した。
こちらが抵抗するよりも早く腕を伸ばしてきた謎の人物が、私の体を羽交い締めにしてしまったため、私はあっという間に身動きができなくなった。
突然死角から引き寄せられたため、相手が誰なのかはわからなかった。
研究員か、職員か、それともどこからか研究所に侵入してきたよそ者か。
いずれにせよ、こんな手荒な真似をするということは、相手は私にとって味方に相当する人間ではなさそうだった。
「動かないで。大人しくして。手荒な真似はしたくないの」
その人は素早く私の口元を手で押さえると、耳元で静かに囁いてきた。
私の肩を引っ張った腕はとても力強かったので、てっきり男かと思ったが、その人は優しい女性の声をしていた。
低すぎず高すぎず、透き通るような美しい声からは敵意が感じられなかった。
ただ、体勢的にその人の顔だけが見えなかった。
私はとっさに全身の力を抜き、その人の言う通りに抵抗するのをやめた。
すると、背後から安堵するような短い溜め息が聞こえてきて、その人は私を後ろから抱きすくめたままじりじりと後ずさっていった。
大きな機材の影になった部分にゆっくりと座り込むと、ようやく私の体が解放された。
「驚かせてごめんね。けど、今あいつらに見付かるわけにはいかないから…」
羽交い締めにされていた腕が解かれ、恐る恐る後ろに振り返ると、そこには若い女の顔があった。
綺麗な人、だと思った。
肩につくほどの真っ赤な髪と、血管が透けて見える白い肌。淡いピンク色の瞳。
体型はとても華奢でほっそりとしているが、手足が長いのでそれなりに身長はあるようだ。
ただ、顔立ちには若干の幼さが残っているため、年頃は大体16から20歳くらいと推測できる。
ここの研究員や職員達は皆大人の人ばかりなので、自分と同じくらいの年頃の子供は初めて見た。
もしかして、この人が外の世界から迷い込んできたよそ者なんだろうか、と一瞬思ったが、どうやらそういうわけでもないらしい。
よく見ると彼女は、自分と全く同じ格好をしていた。
白いチュニックに白いボレロ、チュニックの裾から伸びる剥き出しの足には靴が履かれていないし、首には見慣れた首輪が着用されている。
自分と同じ服装。同じ若者。
この研究所に住んでいる子供は自分だけだと思っていたが、もしかして、この人も私と同じなんだろうか。
私と同じで、研究員達の玩具にされている、囚われた篭の鳥なのだろうか。




