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オルクス  作者: 和達譲
Side:ZERO
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Episode29-6:ゼロワンの生生



あれから、もう何日経っただろうか。

そもそも、最初から日にちを数える余裕すらなかったので、私にそんなことがわかるはずはなかった。


一年の殆どを研究所で過ごしている私には、あまり季節の移り変わりを実感する機会がなく、時間の経過を感覚で知ることもできない。


日光浴で外に出る時だけ、一応夏の暑さや冬の寒さを感じることができるが、それも一時間ほどで終わってしまう上、三日置きの朝にしか行われない。

日付や時間の把握はカレンダーと時計を見れば済むことだが、逆を言えば、そのための手段を失えばなにもわからなくなってしまう。


真っ白な地下の世界に季節という概念はなく、昼と夜の区別もない。

日が昇った眩しさで自然に目を覚ますことはなく、日が落ちたから、間もなく一日が終わるだろうと実感することもない。


三日ぶりに外に出れば、いつの間にか雪が降っていたり、溶けていたりして、四季が移り変わる瞬間を喜ぶことも、悲しむこともない。



そんな私に、せめて曜日の感覚だけは忘れないようにと発案されたのが、金曜のデザートの日だった。

いつもはカロリーが高いからという理由で甘い物は禁止されているのだが、毎週金曜の昼食時だけは特別にそれが解禁されている。


しかし、今の私には食後のデザートを楽しむ余裕はおろか、肝心の食事すらまともに喉を通らなくて。


あれから金曜日が五つ過ぎたという事実は理解できても、今日が何月の何日であるかは知らないし。

わざわざカレンダーを確認する気も、職員に尋ねる気も起きなかった。




「……つかれたな」



あの日、スピロスの采配で行われた早成隊の実験を最後に、私の心はすっかり壊れてしまったようだった。


向こう三日間は死んだように眠り続け、その後一週間は後遺症に見舞われて、ベッドから起き上がるのも一苦労だった。


四六時中酷い頭痛に吐き気、目眩に襲われて、実験中に鼓膜が破れたせいで、聴覚が上手く機能しなかった。

ふとした拍子に近くで大きな物音がしたりすると、脊髄反射で震えが止まらなくなったり、急な呼吸困難を引き起こしたこともあった。


私の体を診察した研究所お抱えの医師によると、スピロスの実験内容はとても九歳の少女には許容しきれないものであったそうで。

当時の体験が、私の中でトラウマ化してしまったのだろうとのことだった。



セーフティーラインを見極められなかったどころか、私的な感情から行き過ぎた行動を取ったスピロスはその後処罰を受けたらしく、久しく顔を見ていない。


だが、あれはあくまで想定外のハプニングであり、実験自体は節度を守って行っていれば問題なかったそうなので、スピロスは処罰を受けても除名はされなかった。

恐らく、罰も精々短い謹慎処分が課される程度で、数日後には何食わぬ顔で研究所に戻ったのだろう。



節度。節度か。

節度ってなんだっけ。

彼らの言う節度とは、一体どういう意味を指しているんだろう。


途中でやり過ぎだと戒めることはあっても、繰り返し人体実験を行っている非道さには誰も意見しない。

いや、彼らは皆、自分達の行いを絶対だと信じているから、そもそも間違いにすら気づいていないのか。


彼らも私も、この閉鎖的な世界に浸かっていた時間が、あまりに長すぎた。

特にゴーシャークの奴らは、最早なにが間違いで正しいのか、善悪の分別が殆ど欠落しているように思う。




「今日も一日、自由に行動する許可を与えます。

ただ、いつも言っていることですが、立入禁止の部屋や区域には決して近付かないこと。

それから、読書がしたい場合には、書庫を管理している担当職員にどの本が読みたいか予め申し出ておくこと」



スピロスの実験が終了して20日が経過した頃には、自然と鼓膜も治っていたし、あれほど苦しめられていた後遺症も嘘のように消えてなくなった。


実験の最中には、このまま死ぬかもしれないと覚悟もしたのに。

いつの間にかなにもかも元通りになっている自分は、やはり普通ではないのだと思った。


でも、体が元通りになっても、中身は相変わらずぐちゃぐちゃに壊れたままで。


三日間の眠りから覚めた私は、以来食べることも眠ることもままならず、喋ることもしなくなった。

自らの意思でそれを拒否しているのではなく、無意識に私の体が、生命活動を拒絶するようになったのだ。



私の体は一体どうなってしまったのか。私の心は、どうしたいと思っているのか。

思考する気力すらも持ち合わせがなくなった私は、自分が今生きているのか死んでいるのか、生きたいのか死にたいのかもわからなかった。


日々のよりどころとしていた、日光浴の時間も。読書も映画鑑賞も。

なに一つ手につかない。なにもやる気にならない。

ぼんやりと焦点の合わない瞳をさ迷わせ、能動的に行うのは呼吸と歩行だけ。


そんな私の抜け殻のような状態を見て、研究所の職員達がこれは一大事だと騒いでいた。


急遽全ての予定を変更し、私の心身を癒すことを最優先させて、毎日欠かさずやってきた勉学も訓練も、一切中止になった。

勉強も訓練もしなくていい。実験もしばらくお休みにするから、今は君のやりたいことをやりなさいと。


でも私は、この事態を喜べなかった。

やりたいことをやっていいと言われても、何にも関心が向かなくなってしまった今の私には、ちっとも有り難いことじゃなかったから。

授業を受けなくていいのは確かに楽だったが、その分手持ち無沙汰な時間が増えて、一日がとてつもなく長く感じた。



「……また朝食を残しましたね。

どうしても食べられないというなら仕方ありませんが、その代わり、血液検査はちゃんと受けてください」



朝起きて、顔を洗って歯を磨く。

ただ、朝食にはほとんど手を付けない。

通常は全て食べ終えるまで部屋から出してもらえないのだけど、今だけは残してもなにも言われないから。


それからなんとなく外に出て、あてもなく研究所の中をふらついたり。

廊下の隅でじっと座り込んだりして、時間が経過するのをひたすら待った。


たまに、職員やマグパイの研究員から声をかけられることもあったが、全て無視した。


長い一日を終え、自室に戻ると、朝食も昼食もまともに食べられなかった代わりにと点滴を打たれ、入浴をして、ベッドに入って泥のように眠る。

そんな日々が、何日も続いた。



入浴や部屋の掃除など、身に染み付いた日課だけは自然とこなしていたが、それ以外はからっきし。


毎日欠かさず体の調子を調べられ、セラピストの人からあれこれと質問をされたり、話を聞かされたりもしたが、私はなにをされてもなにを言われても反応しなかった。

言葉は耳に入った順に頭から抜けていくし、私が頑なに喋ろうとしないせいで会話にならない。

意思の疎通ができなければ、当然治療も上手くいかない。


体の傷はあっという間に治してしまうのに、さすがのゼロワンもトラウマの克服はそう簡単にはいかないようだと。

職員達が今後私をどう扱っていくかで毎日話し合っていたようだが、いくら悩もうと結果は変わらない。

だって、私自身に変わる気がないのだから。



これから私はどうなるのだろう。

生きる屍も同然に落ちぶれ、回復の見込みもないとなれば、私の価値など無いに等しい。

役に立たないと判断されて、このままお払い箱になるのだろうか。

ここから追い出されるのだろうか。


そうなったら、私はどうしようかな。

外に出れば、少しは気持ちも変わるだろうか。

生きることに前向きになれるだろうか。


ふと鏡に映った自分の顔に向かって問い掛けようとしたが、そんなことをしても答えは得られないと知っているから、やめた。



「おはよう。こんにちは。こんばんは。

あなたの名前はなんですか」



ただ、そんな空虚で自堕落な日々の中にも、新しい発見があった。

最近、鏡を見ると、妙な感覚に襲われるようになったのだ。


正確には、鏡に映る自分の姿を見るとだが、目の前にいるのは確かに自分自身であるはずなのに、何故か他人のような気がしてしまう。

見慣れているはずの自分の顔を見詰めていると、知らない人と向かい合っているような、不思議な気分になってくる。


この言葉に出来ない感情は、もしかしてなにかの病気なんだろうか。

たまに鏡に向かって話し掛けてみたりもしたけれど、鏡の中の私は私と同じ動作をするだけで、返事はしてくれなかった。

なのに、妙な感覚は一向に治まる気配がない。



思えば、あの時も似たような感覚に襲われた。


先日の実験の最中、隣室からこちらの様子を観察しているだろうスピロスに対し、私が恨みを込めて"地獄に堕ちろ"と呟いた時。


なにかがふっと私の体に降りてきたような感じがして、気付けば、口が勝手に動いていた。

誰かが私の体を使って、私の代わりに喋ったような気分だった。


やはり、スピロスの実験のせいで、私は気が変になってしまったんだろうか。

自分の中にもう一人知らない自分がいるようだなんて、どう考えても普通ではない。



だが、私はこのことを職員には報告しなかった。

マグパイの研究員にも、ゴーシャークの奴らにも、誰にも。


特に理由はない。

ただ、従順に彼らの言うことに従うのが、いい加減嫌になってきたから。

だから、これは私だけの秘密にすることにしたんだ。



「ねえ。そっちの私は楽しい?

鏡の中の世界って、ここより優しい場所ですか?」



それが、私にとって、生まれて初めてついた嘘だった。


思いがけず訪れた反抗期は私の心に固い鍵をかけて、他の誰にも決して開かれることがないよう、頑丈な鎖で覆われた。



私は、鏡の中に生きているもう一人の私を、別人として認識することに決め、余計なことはもう考えないようにした。

妙な感覚の正体はいくら考えても答えが出なかったし、ならば思考を一度放棄して、目の前にあるものを全て受け入れてしまえばいいと思ったから。


他の誰に声をかけられても、全く返事をする気にならなかったのに、何故か鏡の中の私に対しては、自分から話してみようという気になった。


無論、私が勝手に別人だと思い込んでいるだけで、鏡に映っているのはあくまで私自身。

こちらがどんなアクションを起こしても、向こうからリアクションは返ってこない。コミュニケーションをとることもできない。


それでも、なんとなくそれでいいと思った。

なにをしてもなにを言っても、彼女は私を咎めないし、鏡の前に立てば、いつでも私に寄り添ってくれる。


自分とそっくりな存在がすぐ側にいると思うと、私は一人じゃないのだと感じることができて、ほっとした。

常に私のことだけを見詰めてくれる人がいると思うと、少しだけ、寂しさが和らいだ。



初めてできた対等な相手。

友達っていうのは、きっとこういう感じなんだろうな。


第三者の目から見れば、鏡に向かって毎日話し掛けている子供なんて、不気味以外の何物でもないのだろうけど。

ここには、私以外にも可哀相な子供がいるんだという安堵が、とても心強かった。



「私も、そっちの世界に行きたいな」



自室にある、冷たい姿見の表面に手を当てて、ぼんやりと呟くと、彼女がそれに応えるように、優しく微笑んだように見えた。



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