Episode29-4:ゼロワンの生生
私が初めてブラックアウトというものを経験したのは、9歳の時。
一年前のあの日。
定期的に行われる身体機能調査、平たく言うと人体実験で、ラザフォードに爪を剥がされたあの日から、私の地獄の日々が始まった。
実験を行うゴーシャークのメンバーは、実験の内容に別れてチームを二つに分けているようだった。
晩成室を拠点としているのが、通称晩成隊と呼ばれるチーム。
早成室を拠点としているのが、通称早成隊と呼ばれるチームで、ラザフォードは前者の晩成隊に名を連ねるメンバーだった。
そして、曰く実験のレベルとは。
当時ラザフォードの言っていた、実験段階の繰り上げというのは、残念ながら一度や二度で済むことではなかったらしい。
どういう訳か私の体は、傷付けられるほどに耐性がつくようで、実験をこなした分だけ徐々に傷の治りが早くなっていくという特異体質だった。
そしてその現象はどんどん悪い方向に影響し、私の回復能力が高まっていくにつれ、実験内容も日増しに過激なものへと変化していったのだ。
どうせ最後には自力で元通りにしてしまうのだからと、ゴーシャークの奴らは私の体を使って、好き放題に人体実験を繰り返した。
前回の実験を命からがら耐え抜いても、次回の実験では前回よりも更に辛い仕打ちが待っている。
何度繰り返しても、乗り越えた先にはまた新たな壁が現れて。
その壁は、奥へ奥へと進んでいくほどに、高く私の行く手を阻んでくる。
以前までと比べ、傷の完治に時間を要するようになったので、実験の周期も20日置きから30日置きへと目安が変更されたが、それはただ私の体が綺麗に治るまでの間という意味でしかない。
傷の完治が確認され次第、間もなく次の実験を行わなければならないし、治療に専念するための期間も傷痕の痛みがずっと続いているために、ろくに眠ることもできない。
研究員達が施してくれる手当てといえば、あくまで私自身の回復力を促すための処置に過ぎず。
精々患部に包帯を巻く程度で、薬は出してもらえない。
勉学に影響が出るほど体調を崩した場合には多少融通してもらえるが、それ以外は基本お前が我慢しろというスタンスだ。
だから、実験が行われている最中も、済んだ後も、私は休むことなく苦痛に苛まれ続けている。
常に、自分一人で痛みと戦ってきた。
早く治ってほしい。早く、この苦しみから解放されたい。
でも、全て治ってしまったら、また。
相反する思いで板挟みになった私は、心身共に、徐々に疲弊していった。
「では、いつものように、しばらくここで待機していてください」
「……いつまで、ですか」
「いつも通りです。所要時間は君には通告しない。それがルールだと前にも説明したでしょう。
実験終了のタイミングはこちらで判断しますので、君はいつも通り、ただここにいるだけでいいのです」
その日私が通されたのは、右の実験室。
早成室の方だった。
前回の身体機能調査の時には晩成隊の奴らに右足の骨を折られたので、完治するまでに一月近くの時間を要した。
が、いくら間隔が長く空いたからといって、記憶がなくなるわけではない。
予め次の実験内容を告知してくれれば、事前にある程度の準備や覚悟も決めておけるのだろうが。
当日私がどんな目に遭わされるかは、実際に実験が開始されるその瞬間までわからない。
私の新鮮なリアクションを見るため。
より強い感情の起伏、恐怖の感覚を植え付けるために、彼らはあえてなにも教えてくれない。
昔、右の実験室に通された時には、担当の早成隊メンバーからちょっとした怪談話を聞かされたり、虫の群れを放った密室に10分から20分程度の間閉じ込められたりしていた。
それらはあくまで私の反応を見るためのものだったので、実験内容も軽い内容で済んでいたし、当初は私がやめてくれと訴えれば途中で中断することも許してもらえた。
だが、ラザフォードの件を皮切りに、早成隊の実験も段階が繰り上げられてしまったので、もう私の要求が通ることはない。
以前はここで監禁され、三日三晩飲まず食わずの状態で放置された。
三日目の夜、私の憔悴した様子を見て、ようやく彼らは私を部屋から出してくれたが、まだ放っておいても平気そうだと判断されていれば、監禁はその後も四日五日と延長されていたかもしれない。
左の"痛い"方と比べ、右の"怖い"方の実験は、肉体的には多少楽だが、その分精神にかかる負担が加算される。
晩成隊の実験は私の体を負傷させることが目的だが、早成隊の実験はまず私の情緒を狂わせることからスタートするため、時には数日間に及ぶこともあるのだ。
実験の所要時間が長ければ長いほど、当然私の中のストレスも次第に膨らんでいく。
「すこし寒い、な」
さて、今回はここでなにが行われるのか。
先程私を実験室まで案内したのは、スピロス・テオドラコプロスというギリシャ系の白人男性だ。
ブロンドの髪にシルバーの瞳。
長身で四角い眼鏡をかけていて、一見すると温厚そうにも見える彼だが、中身はとても冷淡で合理主義な性格であることを私は知っている。
いついかなる時も定められたルールを遵守し、一定の冷静さを損なわない。
だが、逆を言えば、イレギュラーな事態には容赦がない男でもある。
つまり、スピロスの采配で実験が進められるということは、泣こうが喚こうが、彼の決めた条件がクリアされない限り、私は絶対にこの実験室から出してもらえないということだ。
スピロスの出て行った扉が固く施錠され、実験室には私一人が取り残された。
窓はなく、扉は出入口のためのものが一つだけ。
それも外側から鍵をかけられているため、スピロスが迎えに来るまで私は外に出られない。
白い床に、白い壁紙。
壁紙は一箇所だけ厚い強化ガラスに張り替えられていて、正方形の部屋の一面だけが、黒く塗り潰されている。
このガラスの壁紙は、晩成と早成両方の実験室に存在しているものだが、あちらからはこちらの様子が丸見えになっていても、こちらからあちらの様子を知ることはできない。
所謂、マジックミラーというやつだ。
隣室で待機している早成隊のメンバーは、常時そこから私を監視し、私は彼らに一方的に見られるだけ。
よく目を凝らしてみても、黒いガラスの向こうになにがあるのか、早成隊のメンバーがどのようにして隣室に待機しているのか、全く見えないしわからない。
6坪程の空間はまるで大きな箱の中にいるようで、隅にはカーテンで仕切られただけのトイレが設置されている。
トイレがあるのは早成室のみで、晩成室の方にはない。
だが、体を休めるためのベッドはないし、暇を潰すための本もない。
四方には合計八つの監視カメラが光っていて、あらゆる角度から見張られているのを感じる。
所要時間は不明。
全くなにもわからない中での耐久テスト。
私は、いつ周囲で異変が起きても対処できるよう、部屋の中央に立って、神経を研ぎ澄ませた。
そして数分後。
実験開始を知らせるサイレンが部屋中に響き渡り、私はいよいよかと呼吸を鎮めた。
だが、いくら待っても、なにも起こらなかった。
明かりが落とされないということは、今回の実験は暗闇の耐久ではないようだ。
だとすると、前回と同じように断食だろうか。
それとも、後から虫や蛇の群れが部屋に放たれるのだろうか。
不審に思いながら、私は今回の実験の意図を把握するべく、部屋の隅々を探してみることにした。
扉、床、壁、天井、トイレの周辺。
警戒が途切れてしまわないように注意しながら、慎重に部屋のあちこちをチェックし、どこかいつもと違う箇所がないか調べて回った。
が、やはり疑わしいものは見付けられず。
今回はここでなにをやらされるのだろうかと首を傾げつつ、私が再び部屋の中央に戻った時だった。
狙い澄ましたタイミングで、突然部屋中にけたたましい騒音が鳴り響いたのだ。
ギィー、と金属に爪を立てるような、耳をつんざく不快な音が絶えず辺りに轟き続ける。
先程のサイレンとは比べようもないほどの大音量で、休む間なく私の鼓膜を刺してきた。
私はたまらずその場に膝を着き、ぴったりと両耳に掌を押し当てて歯を食い縛った。
だが、隙間なく塞いだつもりでも、音を遮断することはできなかった。
煩い。痛い。
耳が、頭が、目の奥がえぐられるように痛い。
後頭部を鈍器で殴られたような痛みが延々と続き、息をつく隙もない。上手く呼吸ができない。
「……っぁ、ぐ、ぁぁあああああああ"あ"あ"あ"!!!!」
頭が割れそうだ。
その場にうずくまったまま、生理的に咆哮した。
これ以上奴らの好きにさせてたまるかと、意地でも声だけは上げるものかと当初は思っていたのだが、気持ちとは裏腹に体が勝手に叫んでしまう。
しかし、それでも途中で音が止むことはなく。
ようやく部屋が静かになったのは、その後三分ほどが経過してからのことだった。
私はうずくまった姿勢から力無く横向きに倒れ、心臓の辺りを右手できつく握り締めて、溺れかけたように慌てて深く息を吸い、吐いた。
なんだ、今のは。
今回の実験は、あの騒音に耐えるテストなのか。
まだスピロスが迎えに来ないということは、耐久は先程の一度きりではない。
となると、次の騒音は一体いつ始まる。
私は息も絶え絶えにどうにか体を起こし、三角座りをして、もう一度耳に両手を当てた。
二度目のタイミングがわからない以上、今の内にできることといえば、次の衝撃に備えておく他にない。
どうせ、やめてくれと訴えても、私の言葉は彼らには届かないのだから。
だから、耐えるしかないんだ。
終わりの見えないこの苦しみが、いつか途絶えるその瞬間まで、耐えろ。




