Episode29-3:ゼロワンの生生
私の体が、初めて耐えられない苦痛だと悲鳴を上げたのは、8歳の頃だった。
ゴーシャーク研究所には、開かずの間と呼ばれる空間が一箇所存在している。
そこに立ち入ることを許されているのは、真のゴーシャークの名を預かる、13人の選ばれた研究員のみ。
マグパイの研究員や職員達も一応ゴーシャーク研究所に出入りすることは可能だが、彼らは前述の開かずの間には近寄ることすら禁じられている。
ゴーシャークの中のゴーシャーク以外には、決して開かれることのない禁断の領域。
その名を結晶部といい、関係者以外から開かずの間と呼ばれている所以は、つまりそういうことである。
そして、私の身体機能調査は、いつもその開かずの間の中で行われている。
ゴーシャーク研究所の西側突き当たりにある大きな扉を潜ると、真っ直ぐに伸びた長い廊下と、そこから更に左右に別れた部屋がある。
部屋数は全部で九つ存在し、左手に四つ、右手に四つ並んでいて、廊下を直進した先に最後の一部屋が一際大きな扉を構えている。
私の調査に使用している部屋は、いつも決まって左右の手前から二番目にある部屋。
向かって左手にあるのが晩成室、右手にあるのが早成室と呼ばれる実験室で、それらを纏めてエクリプスルームというらしい。
言ってしまえば、開かずの間とはつまりゴーシャークの心臓で、二つのエクリプスルームは彼らの縄張りということである。
「今回からステージが一段階上がりましたので、念のため拘束具を着用してもらいます。
ですが、怖がらなくて大丈夫ですよ。
痛みのレベルが以前より少し上がったというだけで、死に至るほどのものではありませんから」
その日、私は通常より早くに午後の授業を切り上げて、真っ直ぐに開かずの間へと向かった。
例の身体機能調査がある日は、私が自室に戻る一時間前、つまり午後の実施訓練を一時間早くに切り上げてエクリプスルームへと移動する。
午前授業のデスクワークがマグパイ研究所、午後授業の実施訓練が主にゴーシャーク研究所で行われるのは、訓練を終えた後すぐに身体機能調査を始められるようにと考慮されてのことだ。
だが、その日は何故か二時間も前から呼び出しがかかった。
通常より早くに調査が開始されるということは、通常よりも長く、調査に割く時間を設けるということになる。
訓練室まで私を呼びにきたゴーシャークの研究員によると、今日からは実験のレベルが一段階上がるとのこと。
そのために、以前よりも時間を要するとのことだった。
実験のレベルが上がる。それはつまり、今までよりもっと、強い痛みを伴う実験が行われるという意味。
昔からこの身体機能調査が嫌いだった私は、内容が益々過激なものになるらしいと聞いて、エクリプスルームに向かう足取りがとても重く感じた。
その後、私が通されたのは左の部屋。晩成室の方だった。
過去の経験から、二つのエクリプスルームがどのようにして区別されているか、おおよそは理解している。
恐らく、晩成は私の体の経過を調べるための実験室。
そして早成が、私の心の経過を観察するための実験室だ。
加えて、実験はどちらも私の心身に負担をかける、という目的が前提にある。
となると、今日の実験は"怖い"方じゃなく、"痛い"方か。
漠然と状況を理解した私は、心底嫌でたまらない気持ちになりながらも、それでも抵抗することはできないので仕方なく研究員達の指示に従うことにした。
どうせ避けられないのなら、出来るだけ早く実験を終わらせてやるだけだと。
ちなみに、先程私を訓練室まで呼びに来たのは、ラザフォード・ティッチマーシュという若い男だ。
イギリス系の白人で、黒髪に青い眼をしている、いかにも堅物そうで冷ややかな顔付きをした青年。
凛々しい眉は滅多なことでは動かないし、黒子が印象的な口元が綻んでいる様子は、少なくとも私は見たことがない。
実験を行うゴーシャークのメンバーの内、私をエクリプスルームまで連れ出す役目を与えられた人物が、その日の実験を采配するのが決まりだ。
なので、今回の実験はラザフォードの指揮で進められることになる。
正直、彼は取っ付きにくい雰囲気だから苦手だし、たまに私のことを舐めるように見つめている時があるから、本音を言えばあまりラザフォードとは接触したくなかったのだが。
ラザフォードの指示で晩成室に通された私は、室内に設置されている改造ストレッチャーの上に寝かせられた。
加えて、実験の最中に暴れられては危険だからという理由で、全身をきつく拘束された。
そこで私はようやく、先程のラザフォードの言葉を理解した。
これまでの実験の中で、これほど徹底して四肢の自由が封じられたことはない。
過去に晩成で行われた実験内容といえば、専用の椅子に座らされ、担当の研究員に自分の腕なり足なりを差し出し、刃物で浅く皮膚を切られたりする程度のものだった。
だから、どうにか耐えられた。
だが、今回は。
最中に暴れないための処置が施されるということは、私が苦痛に耐え切れず暴れる可能性があるということだ。
一体、これからなにが始まるんだ。
私はどうされてしまうんだ。
何度尋ねてみても、誰も本当のことを教えてくれない。
ただ、済んだら治療してやるからと。そんなに心配する必要はないと適当にあしらわれるだけで、誰も私の不安に耳を傾けてくれない。
仰向けに固定された私の視界には、明るい天井と、四人の研究員の顔が映っている。
怯える私の顔を冷めた目で見下ろしている彼らは、私のことをただの物として認識しているようだった。
「では、始めます」
全ての準備が整った後、ラザフォードのその一言を合図に、実験室中に短いサイレンが鳴り響いた。
まるで手術を行う執刀医のように、器械台の上からある道具を手に取ったラザフォードは、私にそれを一目見せてニヤリと笑った。
この道具の名前を、私は知らない。
ただ、その造形を目にしただけでも、なんとなく用途は想像がついた。
ペンチ、のようななにか、であることはわかる。
だが、そんなものを人体に対して使用する意図がわからない。
ラザフォードの口元を覆うマスクから、ほくそ笑むような吐息が漏れ聞こえてくる。
覗く青い瞳は弧を描いていて、どこか楽しそうにも見えた。
そして、ラザフォードがペンチを低く構えてから、数秒後。
一瞬、右手の親指が吹き飛んだかのような衝撃に襲われた。
なんだ。なにが起こった。
私の体はどうなってしまったんだ。
熱い。熱い、痛い。
指が、指の先が、固いハンマーかなにかで叩き潰されたような激しい痛みが、電気のように神経に触れてくる。
右腕に流れている血が、一目散にそこへ走っていくのがわかる。そこから血が溢れ出しているのがわかる。
どくんどくんと、強い脈拍で胸が締め付けられるような感じがする。
衝撃から一息遅れて、私は生理的に引き攣った悲鳴を上げた。
私が叫んだのは、多分私がこの世に生まれ落ちた瞬間以来だったと思う。
しかし、どくどくと痛む箇所を確認しようにも、首までしっかりとストレッチャーに固定されているために、視線がそこまで届かない。
ただ、とにかく痛い。
こんなに痛い思いをするのは、生まれて初めてだった。
「どうですか?今の痛みのレベルを表すと、10段階の内、どれくらいでしょう?」
やけに落ち着いたラザフォードの声が、酷く耳に障った。
私は、今にもくそったれと悪態をついてやりたい気持ちを抑え、腹から絞り出した声で10と答えた。
未だかつて経験したことのない痛みなので、当然感じたレベルも最高に決まっているからだ。
しかしラザフォードは、私の極まった回答を聞いても全く動揺しなかった。
ただ一言、そうですかと短く返して、続けて私の右手の小指を思い切りひきちぎった。
その瞬間、私はあのペンチのようななにかで生爪を剥がされているのだということにやっと気付いた。
先程親指の爪を剥がされた時には、あまりの衝撃に思考が追い付かなかった。
だが、二度目の小指の方は、はっきりと剥がされる感覚が全身に伝わった。
もう一度短く悲鳴を上げた私は、絶え間なく襲ってくる痛みから逃れようと、無意識に呼吸の回数が増えていった。
「今の痛みのレベルは、10段階のうち、」
「10!!!!」
先程と全く同じ内容の質問を投げ掛けられ、私は苛立ちを隠さずに食い気味に答えた。
するとラザフォードは、ニタリと一層笑みを深くして、私の額に滲んだ汗を左手の人差し指で優しく拭った。
右手に握られているペンチの先端には、私の赤い血がべっとりとこびりついていた。
そうやって一枚、また一枚と素早く剥いでいき、私はそれぞれ右手と右足の親指と小指、計四枚の生爪をラザフォードに剥がされた。
最中、無駄とはわかっていたが、私は何度も嫌だと、やめてくれと懇願した。
足の爪を剥がされた時には、あまりの痛みに生理的な涙が溢れた。
"お母さん"
"助けて"
喘ぎながら無意識に助けを求めた相手は、母親だった。
私に母親はいない。
私が出産される前までは確かにこの世に存在していたのだろうが、私はその人の姿を見たことがなければ、声を聞いたこともない。
その人がなんという名前であったのかも知らない。
ただ、物語の中に出てくる"母親"という存在は、いつだって主人公の味方をしてくれる女性だったから。
無償の愛で我が子を包み、どんな災厄からも、身を呈して守ってくれる唯一の存在だと、聞いていたから。
だから私は、まだ見ぬ我が母とやらに、救いを求めるしかなかった。
他の誰も私を守ってくれないのなら、せめて幻想でもいいからと。
思い描いた母親像に縋るように、繰り返し、何度も。
しかし、ラザフォードが私の言葉を聞き入れることは、最後までなく。
母親の愛が私を守ってくれることもなかった。
ラザフォードが自ら実験を執り行い、側に控える他の三人は、私の顔色や血の滲む患部を見て興味深げに記録を付けていた。
これ以上はやめた方がいいと、途中で制止に入ってくれる人は一人もいなかった。
私の首輪から伸びたコードの先には、心拍計が繋がっている。
それを見た研究員の一人が、これはいいデータが取れたと呟いていた。
「……お疲れ様」
そして、実験終了後。
両手両足、合計8枚の生爪を剥がされ、私の四肢はすっかり赤く染まっていた。
私の身柄を隣の医務室まで運ぶべく、床に固定していたストッパーを外し、研究員達がストレッチャーごと私を移動させ始める。
その時、マスクを外したラザフォードが、私の顔を覗き込みながら低い声で囁いた。
"お疲れ様"
当時の私は、散々泣いたせいで視界は霞んでいたし、憔悴した体は意識が朦朧としていて、辛うじて失神せずにいるような状態だった。
だが、朦朧とした意識の中でも、あの時のラザフォードの顔は鮮明に映った。
笑っていた。
あの男は、私のぐったりとした様子を見て、満足そうな笑みを浮かべていたんだ。
幼い子供にこんな酷い仕打ちをしておいて、こんなに痛々しい姿を目の当たりにして。
それでも彼は、笑っていた。
そうか。こいつは。
これが自分の仕事だからと、上から命じられて仕方なくそうしたのではない。
こいつは、こいつの意思で、私を傷付けることを良しとしていた。
私に理不尽な暴力を与えることを、楽しんでいたんだ。
あの時のラザフォードの顔と、声を聞いた瞬間に。
これは地獄の入口に過ぎないのだと、私は理解した。




