Episode29-2:ゼロワンの生生
私が研究所の外に、日の当たる地上に出ることを許されるのは、三日に一度の日光浴の時だけ。
ずっと地下に潜ったままの生活ではいずれ健康に害を及ぼす可能性があるので、定期的に太陽の光を浴びさせる必要があるからだ。
時間は毎度必ず、朝の9時から10時までの一時間。
通常であればこの時間帯は午前授業の真っ最中なのだが、日光浴がある日は特別にその間の授業が免除されるため、思う存分私は朝日と風に当たることができる。
といっても、外出の際には厳しい行動制限が設けられるので、出歩けるのはあくまで研究所の敷地内のみ。
高い壁に囲まれた芝生の上は、いっそ清々しいほどに平坦で、閑散としていて、当然辺りに人はいない。
時折壁の向こうから、微かに街人の声が聞こえてくることがあるが、姿は見えない。
研究所の職員以外の人間とは接触を禁止されているため、話し掛けることも許されない。
その上、常に三人のお目付け役が側に控えているため、間違ってもはしゃぐことなんてできないし、時間が過ぎればまた地下に戻されてしまう。
結局のところ、地上にいるか地下にいるかの違いしかなくて、どこにいてなにをしていても、私の自由は拘束されたままなのだ。
けれど、それでも私は、この時間が一番好きだった。
日の光を浴びていると、私は今ここにいるのだと実感することができるから。
済んだ空気が、どこまでも続く広い空が、私に希望を与えてくれるから。
青々とした芝生の上を裸足で駆け回っていると、本当に体に羽が生えたような気分になって、楽しかった。
話し相手がいないのは寂しかったけれど、この時ばかりは、一人でいるのも悪くないと思えた。
いつかは私も、この狭い箱の中から飛び出して、本物の世界というものを見てみたい。歩いてみたい。
世界に息づいている地上の人々と、話をしてみたい。
触れ合って、交流をしてみたい。
定期的に行われる映画上映や、読書の宿題を出された時には、まだ見ぬ世界の美しさを想像して胸を躍らされた。
毎日毎日勉強と鍛練の繰り返しで、たまに疲れることもあったけれど、僅かな楽しみがあるだけで、耐えられないほど苦に感じることはなかった。
ランチタイムも、日光浴も、映画も読書も。
全ては、私の心身に必要なことであるからで、別に私を楽しませる目的で、行われているものではないけれど。
その瞬間のために頑張っているのだと思えば、日々のハードなスケジュールも、滅多に外に出してもらえない、窮屈で閉鎖的な暮らしも。
それが私の日常だからと、受け入れることができたんだ。
20日に一度の周期でやって来る、あの実験さえなければ。
「では、始めます。
いつものように、痛みのレベルは10段階で表現すること。
それから、なにがあっても抵抗はしないこと。下手に暴れると、却って貴女の体が傷付きますからね。
さあ、ここに左腕を出して。袖を捲ってください」
原則20日置きに行われる、私の身体機能調査。
これは私の体に備わっている触覚、つまりは痛みの感覚が正常に機能しているかを確認するための実験であり、傷や病気を自己完治させるまでにどれほどの時間を要するか、その経過を調べるための調査でもある。
この調査がある時だけは、私は普段拠点としているマグパイ研究所を離れ、併設されているゴーシャーク研究所まで赴かなければならない。
そこで、ゴーシャークと呼ばれるチームの人達に体のあちこちを調べられ、意図的に負傷させられる。
刃物で皮膚を裂かれたり、鈍器で骨を叩かれたり、症状の軽い病原菌を投与されたり。
やり方は多岐に渡る。
調査の施行は原則として20日置きとされているが、前回の調査から20日が過ぎても、傷や病気が完治していなかった場合には、特例措置として更に10日以上の猶予が与えられる。
つまり、完全に傷も塞がって、私の体が健康を取り戻すまでは、次の調査は延期されるというわけだ。
私が日々の生活の中で、特に不満に感じていたのが、この調査だった。
無論、文句を言ってやりたいことは他にもいくつかあったけれど。やっぱり、これが一番嫌だった。
どうして私ばかりがこんな痛い思いをしなければならないのか。
こんなことを繰り返して、彼等に一体なんのメリットがあるというのか。自らを差し出すことで、私が得られるものはあるのか。
どんなに厳しい訓練にも、難しい課題にも、いつだって私は真面目に応えてきた。
一度だって、彼ら職員達に、研究員達の言うことに、盾突いたことはなかった。
だけど、こればかりはどうしても。
君にとって必要なことなのだと、いずれは我々の行いが、世界に幸福を齎してくれるのだと。
言い聞かせてくる彼らの言葉を、納得はできなかった。
人の子として生まれた以上は、誰しも必ず経験しなければならない通過儀礼のようなものだというなら、仕方ないと、甘んじて受け入れることもできただろう。
しかし、どの書物にも、映画にも、それらしい描写は全く出てこない。
物語の中に出てくる普通の子供達は、いつも"家族"という親しい存在に囲まれていて、"家"という暖かい場所で穏やかに暮らしている。
私のように、日夜勉学と鍛練に明け暮れ、ましてや無理に痛め付けられることを甘受している子供なんて、一人もいない。
調査を重ねていく毎に、私の中のストレスは次第に蓄積されていき、やがて私は、自分という存在に疑問を抱くようになった。
どうして、私には"家族"がいないんだろう。"友達"がいないんだろう。
周りにいるのは白衣を纏った職員達だけで、彼らと私の間に血の繋がりはないし、友達という関係にも当て嵌まらないと思う。
私にとっての"家"は、一応はこの二つの研究所が該当するのかもしれないが、なんだかそれも違うような気がする。
"普通"の家はまず地下に建っていないし、この殺風景で真っ白な空間は、家というよりむしろ牢獄だ。
暖かみどころか、時に冷たさすら感じる。
それから、私自身の外見。
職員達と違って、私は毎日同じ服に袖を通す。
下着の上にアイボリーのチュニックワンピースと、同色のボレロを羽織っただけの格好で、首には計測器が内蔵された首輪が付けられている。
下着と服は毎日清潔なものに取り替えられるが、それは単に同じデザインのストックに着替えるというだけで、見掛けはなにも変わらない。
首輪は常時私の体温と血圧を計測するためのもので、首輪のうなじ部分から膝の裏にかけて伸びている、長い尻尾のようなものは、首輪を専用の機器と接続するためのコードだ。
これは、視覚や聴覚、前述の身体機能調査の時など、五感のテストを行う際に使用される。
傍から見ると、動物の尻尾や魚の背鰭、もしくは鳥の尾が生えているように見えるだろう。
全ては合理性。
必要なものだけを残し、不必要なものは速やかに排除する。
それが私の生きていた世界で、目に見える現実だ。
だが、合理性のみを重視した私の世界には、情緒という概念が存在しなかった。
無駄なお喋りに時間を割いたり、些細なことで人と喧嘩をしたり。
誰かを、心から好きだと想ったり。
彼らの基準で言えば、そういった感情の起伏も"不必要なもの"の部類に入るので、日々のスケジュールに直接関与しない感情は、無駄だと一蹴されてまともに取り合ってもらえない。
そうして、少しずつ綻びが生じて、歪みが広がっていって。
今までは特にどうとも思わず、ただ従っていただけのやり取りに、私は意味を求めるようになり。
一度芽吹いた"心"という名の種は、長らく私の中で息づいていて、表に顔を出す瞬間を待ち侘びていた。
人間らしい暮らし。人間らしい生き方。
世界というものを学ぶほどに、自分の生きているテリトリーがいかに狭く、脆弱であるかを実感する。
そして、人間という存在に対する憧れが強くなっていくほどに、私は人間ではないのだという自覚がはっきりと形を持ち始めて。
肉体が成長するに伴って、私は、私がわからなくなっていった。




