Episode29:ゼロワンの生生
「───ああ、素晴らしいよ。
君こそ、我々が長年追い求めてきた理想そのもの。最初にして最高傑作だ。
所詮、凡人の延長線上にいる我々とは格が違う。
君は神に選ばれた娘。神の寵愛を一身に受けた、この世で最も神に近い存在だ」
ある者は、私を神様の子供だと言った。
人という器の中に、天に召します我等の父が自ら息を吹き込んだとされる、運命の寵児であると。
そしてまたある者は、私を永遠の命を持つ鳥だと言った。
いつの日かその背中には大きな翼が生え、炎の中で身も心も焼き尽くされた果てに、再び生まれ変わる無限の存在だと。
人によって、私のことを見る目は異なる。
呼び名も、扱い方も、人によって私は様々な姿をとっている。
だが、誰一人として、私を人間と呼ぶ者はなかった。
それだけは昔から一貫して変わることがなく、誰も私を同じ人間として接してはくれなかった。
私は、私がこの世に生を受けた理由を知らない。
なんのために私は生まれて、なんのために私はこの世界に在り続けるのか。
なにも知らない。なにもわからない。
尋ねても答えてくれる相手はいないし、自分で答えを見つけようにも、全然時間が足りない。じっくり考える余裕もない。
唯一理解できたのは、ただ目の前にある現実から、私は逃れることができないのだということ。
私の運命を自由にできるのは、私ではないということだけだった。
私は、篭の中の鳥だ。
いつの日か、真っさらな大空を羽ばたいてゆく瞬間を夢見ながら、人間達の強引な手に捕まえられて、冷たい檻の中に閉じ込められている。
燃えるような熱に全身を包まれ、一度は途切れた意識が再び浮上した時。
ふと開いた瞼の向こうにあるのは、いつだって見慣れた白い天井だけだった。
どんなに遠く手を伸ばしても、私の痩せた細い指が彼方の雲まで届くことはないと、私は知っていた。
「───では、午前の授業はここまでとしましょう。
英語とロシア語は既にマスター済みと判断しましたので、明日からはドイツ語を中心としたカリキュラムを構成しておきます。
ドイツ語の語学授業が修了すれば、次は日本語か中国語を予定していますので、そのつもりでいてください」
「───はい、よろしいです。
相対音感は既に身に付いているようですので、絶対音感を習得するまでにはあともう一歩というところでしょう。
この後は確か、味覚の確認テストがあるんでしたか?では、私の方から担当のレオナルドに話を通しておきましょう。
今日のメニューはメキシコ料理だったはずなので、カロリー計算を忘れないよう気を付けてください」
「───だいぶ動きが良くなってきたな。いい調子だ。
反射神経は文句なしなんだが、相手に攻撃を仕掛ける時に、まだ微かに躊躇いが見られる。次の授業はメンタル面の克服も課題にしよう。
10分休憩を挟んだら射撃訓練に移るから、今の内に水分をとっておくように」
私の住んでいる世界は、フィグリムニクスという国家の、地下深くに広がっている。
通称ゴーシャーク研究所と、マグパイ研究所と呼ばれる秘密の地下施設。
首都キングスコートの地下に隠れているのが前者のゴーシャーク研究所。
そして、キングスコートと隣接するラムジーク州の地下にあるのが、後者のマグパイ研究所だ。
両者二つの研究所は表向きには存在を秘匿にされているため、研究所の場所を把握しているのは極一部の限られた人間のみと言われている。
加えて両者は、キングスコートとラムジークの州境を跨いで併設しているため、地下から互いを行き来することが可能である。
ゴーシャーク研究所からマグパイ研究所へ、マグパイ研究所からゴーシャーク研究所へ。
わざわざ地上に出て秘密の入口を探さずとも、一度地下に潜ってしまえば、繋がっている両者をいつでも直接移動することができるわけだ。
私が自由に行動できるのは、この二つの研究所の中だけだった。
真っ白で広大な研究所の内部には、塵一つ染み一つとしてなく、常に清潔が維持されていた。
室内の温度も常時一定に保たれていて、特に寒いと感じることも、逆に暑いと感じることもない。
雨も降らない。風も、雪も降らない。突然の自然災害に見舞われる心配もない。
だが、逆を言えば、暖かい日差しの恩恵を授かることもない。
不気味なほどに穏やかで、代わり映えのない空虚な箱の中。
白衣を纏った老若男女。研究所の職員達に囲まれて、私はただ呼吸をしていた。
それが、私の生まれた場所で、私の生きる世界だった。
幼少期から英才教育を施されてきた私は、日夜勉強と鍛練に明け暮れていた。
地上にいる普通の子供達と同様に、普通の学び舎で教わるような基本的な知識に加え。
語学、医学、量子力学、日常的な雑学。家事、スポーツ、武術や射撃などの実施訓練、その他。
他にも、五感が正常に機能しているかどうかをテストしたり、定期的に有名な映画の鑑賞、または読書をさせて、私の思想や感性が一般と比べてどの程度差があるかを経過観察したりなど。
課題は常に山積みだった。
一つ課題をクリアすれば、また新しい課題を出されて。延々と、その繰り返し。
ただ、周りの大人達がやれと差し出してきたものに、私は応え続けた。
私自身の意思は一切反映されない。拒否するなどという選択肢は最初からない。
眠ることも、食べることも。呼吸をすることさえ、私は私の意思では行えない。
徹底的に管理されたカリキュラムを、黙々とこなすだけの日々。
時に、自分の身一つでは賄いきれないと弱音を零したくもなったが、当時はあまりの多忙にうなだれることも、同じことの繰り返しに飽きを感じる暇もなかった。
だって、それが私の日常だったから。
"普通"の人達が、明るい地上でいつもどんな暮らしをしているのかなんて、私には知る由もなかったから。
だから、これは当たり前にやるべきことなのだと言い聞かせてくる研究員達の言葉を、最早疑う気にもならなかった。
「───他と比較する必要はない。君は唯一無二の絶対的な存在なのだから、周りのことなど気にしなくていい。常に、自分のことだけを一番に考えていればいいんだ。
私達の言うことを聞いてさえいれば、君はなにも心配することはない。
誰より君を理解しているのは、この私だ。故に、私には君を幸福にすることも、不幸にすることもできるのだということを、常に頭の隅に置いておきなさい」
マグパイ研究所内部に設けられた私専用の自室は、7坪程の広さのワンルームだった。
トイレとバスルームは備え付けで、家具はベッドとデスクと大きめの本棚が二つ。
全てが白で統一されていて、天井に換気孔は付いているが、地下であるため窓はない。
扉はバスルームへ続くものと、自室から研究所へと直通しているものとで二つ設置されてある。
ただ、後者の扉は内側からは開閉不可の仕様になっていた。
常に外から頑丈な鍵がかけられていたため、一度自室に入ってしまえば、私はもう自分の意思で自室から出ることが出来なかった。
言ってしまえば、牢獄の中に閉じ込められている囚人とほぼ同じ扱いで、私が自室から出ることを許されるのは、研究所の職員がそれを必要とした時だけだった。
私専用の自室、と聞こえは良いが、実際はただ入浴と睡眠、それからたまに出される宿題を片付けるための部屋に過ぎず、自由なんてものは全くなかった。
少しでも規則を破るような行動を取れば、天井の四隅に仕掛けられた監視カメラですぐに見付かってしまう。
常に誰かに見張られているという緊張感に苛まれ、私は生まれてこのかた、あの部屋で熟睡というものをしたことがなかった。
毎朝決まって5時ジャストに起床し、目覚めてすぐに体を解すためのストレッチを行う。
それからベッドを綺麗に整え、顔を洗うなり着替えるなりの身支度をしてしばらく待つと、職員が私の自室まで朝食を運びにやって来る。
綿密にカロリー計算された、栄養バランスのみを重視した私専用の朝食。
品数は多いがどれも薄味で、正直言ってここで出される食事を美味しいと感じたことは一度もない。
だが、少しでも残すと規則違反と見なされるので、例え苦手なものであっても無理矢理に完食する。
朝食をとり終えると、監視カメラで様子を見ていた職員が間もなく器を下げにくる。
そこで扉の鍵は開けられ、私はようやく自室から研究所に出ることを許されるのである。
朝食後は、午後までみっちりデスクワーク。
朝の6時30分から昼の12時まで、間に挟む三度の10分休憩を除いて、休む間もなく勉強に勤しむ。
授業内容は日によってランダムに組み込まれているが、午前授業はデスクワーク、午後授業はフィジカル面を鍛える実施訓練に別れている。
午前のデスクワークを終えた後は、五日置きの血液検査を行い、それがない日は、授業後すぐに研究所のカフェテリアスペースへと移動して、昼食をとる。
朝食と夜食はいつも健康面を考慮した料理を出されるが、昼食だけは私の味覚を確かめる検査も兼ねているので、研究所の職員達とほぼ変わらない普通の料理が食べられる。
時には辛いものであったり、甘いものであったり、あえて味付けを濃くしたものであったり。
メニューは必ず日替わりで、職員達と違って私には食べたい物を選択することができないが、その代わり世界各国の様々な民族料理を味わうことが出来る。
幼い頃の私にとって数少ない楽しみが、このランチタイムだった。
その後、昼食を終えて14時を回ると同時に、午後の実施訓練が開始される。
スポーツや家事、礼儀作法などもこの実施訓練に含まれるが、大抵は武術と心身の鍛練がメインだ。
軍属経験のある者や、師範の免許を持つ現役の武道家など。
毎度その道のプロを招いて、私は本職の兵士と遜色ないメニューをこなさなければない。
なんのために強くなる必要があるのか、たまに疑問に思うこともあったが、だからといってこんなことはやりたくないと拒否はできない。
私はただいつも通りに、やれと言われたことをやるだけ。
意味も理由も必要ない。私は、私という人間をより優れた存在へと高めるため、そのためだけに生きている。
それがお前の生まれた意味、生きる理由なのだと、ずっと教育されてきたのだから。
そして限界まで己の肉体をいじめ抜き、夜の18時を過ぎてやっと、私の長い一日は終了する。
血圧と体温の計測をしてから再び自室に戻り、味気のない夜食を食べる。
宿題が出されている時はそれを片付けてから入浴、寝支度を済ませて、床に入る。
自室の消灯時間は決まって22時。
なにかやむを得ない事情がある場合には、自室と研究所の管制室とを繋いでいる電話を使って申し出ることも出来るが、滅多なことではスケジュールは変更されない。
それが規則。
規則を破っても特に折檻されるわけではないが、スケジュールがずれていくに伴い、授業メニューがどんどん蓄積されていってしまうので、素直に従っていた方が体力的には楽だ。
「私って、誰なんですか」
こんな毎日が、この先何年続いていくのかわからない。
ただ、ふと何気なく自分の過去を振り返ってみて、今までの日々はなんだったのだろうと、急な虚しさに襲われることがあった。
やがて時を重ねていった果てに、自分がどんな大人になるのかなんて、想像したこともなかった。
自分は一体なにになりたいのか。どうして生きていきたいのか。
ここに立って、歩いて息をしている意味も、なんのためなのかわからない。
自室のベッドに横になりながら、白い天井に向かってそんなことを呟いてみても。
やっぱり、誰も返事をしてくれなかった。




