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オルクス  作者: 和達譲
Side:A
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Episode28-13:扉の向こうにあるもの



間もなく、名残惜しそうにゆっくり唇を離すと、アンリは静かに上体を起こしてキオラの顔を見下ろした。

アンリの両手が優しくキオラの頬を包むと、キオラは先程より少しだけ穏やかな表情になった。


その様子を確認して、シャオはゆっくりキオラから離れると、マナと共に二歩後方へ下がった。

マナ達が退いたのを見て、近くにいたジュリアンも自然とヨダカ達の側に歩み寄っていった。



一同の視線は今、ソファーの上に重なるアンリとキオラに集中している。

眠り姫と、彼女の目覚めを促す王子のような雰囲気を織り成す、絵画のような美しさと儚さを纏った二人の姿に。


時が止まったような静けさの中、最初に生唾を飲み込んだのが誰だったのか、誰もわからなかった。

ただ、ただならぬ雰囲気に圧倒されているのは全員一緒で、誰一人として迂闊に口を挟むことが、身動きをとることができなかった。



早く目を開けてくれという願いを込めて、アンリの右手の親指がそっとキオラの目尻を撫でる。

直後、キオラの長い睫毛がぴくりと反応し、涙に濡れた薄い瞼が徐々に開き始めた。


やがて、再びあらわになったヘーゼルの瞳と、アンリのエメラルドグリーンの瞳が交わった時。

やはり自分は、彼女なしには生きられないのだと、アンリは思った。



「………俺がわかるか、キオラ」



生まれたばかりの我が子に向けて、父親が初めて話し掛けるような声でアンリは囁いた。

その穏やかな声は、水面に一滴ずつ雫を垂らすように、ゆっくりとキオラの胸に染み込んでいった。


ずれていたピントを合わせるように、凍ったガラス窓を溶かしていくように、じわじわと鮮明になっていくキオラの視界にアンリの穏やかな笑顔が映り始める。


すると、ぼんやりとした空虚な瞳に少しずつ生気の光が灯っていって、青白かった頬に仄かな赤が差していった。


しばらくの沈黙の後、三度確かめるような瞬きをしてから、キオラは思い出したようにはっと息を吸った。

途端に、くしゃりと表情を歪めて更に一筋の涙を流した。



ああ、良かった。

それだけでアンリは確信した。


キオラにはまだ、感情がある。

この涙は、確かに彼女の心が溢れさせたものだと。


ちゃんと、息をしている。俺の目を、世界を見詰めている。

自分が何者であるのかを、まだ、覚えている。

キオラの心は、死んでいないと。



キオラの生き生きとした反応を見て、彼女が無事に現実の世界へ帰って来られたことをアンリは実感した。

壊れ物に触れるように優しくキオラの背中に腕を回すと、そのままそっと抱き起こしてやった。



「おかえり、キオラ」



キオラの熱い体を力強く抱きしめ、彼女の肩に顔を埋めると、アンリはキオラにだけ聞こえる声で呟いた。


その言葉にまたびくりと反応を見せたキオラは、たちまち箍が外れたように声を上げて泣き始めた。

次から次へと溢れ出すキオラの涙は、密着したアンリの肩にみるみる染みを作っていった。



いつになく体温の高い、強張ったキオラの背中。

彼女は確かにここにいるのだと、確かめるように抱くアンリの腕も心からの安堵に震えている。


だが、二度と離すものかとでも言うように、指先はキオラの服を握り締めて動かなかった。

子供のように泣きじゃくるキオラとは対照的に、アンリは嗚咽をぐっと堪えながら、声を殺して泣いた。



「よかっ、た……。よかった……!」



そんな二人の様子を見て脱力してしまったヘイズは、思わずその場に腰を抜かした。


キオラの身にもしものことがあったらと、この数分の間にも相当思い詰めていたようだ。

天井を仰ぎながら深く吐き出された溜め息は、紛れも無く安堵から出たものだった。



「しっかりしろ、ヘイズ」



うずくまって泣くヘイズの背中を、同じく安堵の表情を浮かべたヨダカが摩る。



「……ハア。一気に寿命が縮まった気分だわ」



ようやく緊張感から解放されたジャックは、力なく椅子に座り直して、背凭れにだらりと腕を垂れ下げた。

彼女と同じく椅子に崩れ落ちたジュリアンも、すっかり疲れた様子でうなだれている。


ずっと気を張っていた分、二人とも背筋を伸ばして着席するだけの気力も残っていないようだ。



「……う、ぅう~。よがっ、…ぅええ、よかっ、たぁ。よかっだぁ~…」



地べたにへたり込んだままでいるマナは、キオラの無事を喜んでぐすぐすと泣き出した。

そんなマナの頭を撫でているシャオも、珍しく健やかな笑みを浮かべてリラックスしている。



反応にはそれぞれ個性が出たが、こうして胸を撫で下ろす結末を迎えられたのは、最悪の展開に事態が転がらずに済んだからだった。


一歩でも間違えていれば、あとほんの僅かでもキオラの目覚めが遅れていれば、彼女はもう二度と笑うことも、悲しみに泣くこともできなくなっていたかもしれない。

ただ形としての器があるだけで、中身のない生ける屍になっていたかもしれない。


キオラをあの地獄の中から、再び現実に呼び戻すことができたのは。

アンリの全身全霊をかけた呼び声と、恐らく、内側からキオラを押し上げてくれたクリシュナの力があったからだろう。



「………し、た」


「……キオラ?」


「…だ、した。おもい、だした」



ふと、アンリの肩に顔を埋めたキオラが、独り言のようにぽつりぽつりと呟き始めた。

いつの間にか涙は止まったようで、全身の震えも治まっている。


突然大人しくなったキオラの様子に気付いて、アンリも抱きしめていた腕を解いてやった。



「思い出した、ぜんぶ。

なにもかも、全部、思い出したよ、アンリ」



悲しいでも、苦しいでもない。

一切の感情が添えられていない抑揚のない声で、ヒューヒューと掠れた吐息を漏らしながら、キオラは言った。



どうやらキオラは、二度目の退行催眠を引き金に全ての記憶を思い出したらしい。

研究員達の手によって強引に改竄されていた過去も、クリシュナが表で見ていた景色も、全て。


キオラ自身の意思に関係なく、キオラの頭の中を走馬灯のように駆けていった映像の群れ。

それこそがまさに、封じられていた本当の記憶だった。


キオラは、それがなんであるのかを最初から理解していた。

今まで自分の中で蠢いていた気配の正体は、これだったのだと。


自分の中で欠けていたピースが、一つずつはまっていく感覚。

同時に、偽りの記憶は端から決壊し始め、最後には消滅した。



知らないはずなのに、体が覚えている。

見たことも聞いたこともないはずの景色は、いつかの自分が立っていた世界だ。

説明はできない。実感も湧かない。なのに、何故か確信はある。


早く、思い出せ。早く失われた自分を取り戻せ。

どこからともなく聞こえる声に急かされて、無我夢中に走っていく内に気が付いた。

いつの間にか、自分の全身を束縛していた"嘘"が、解けてなくなっていたことに。



「全部、って…。本当に、全部なのか。錯覚とかではなく、本当に、全て」


「……向こうにいる間、アンリの声を聞いたよ。何度も呼び掛けてくれて、私を迎えに来ようとしてくれた声が」


「………。」


「私は、痛みと息苦しさに引っ張られながら、必死に、アンリのことを探した。

実験室のベッドの上と、なにもない、真っ暗な空間の中を行き来して。どうすれば、ここから抜け出せるのか、ずっとさ迷った。

でも、なかなか出口が見付からなくて。どこからアンリの声が響いてくるのか、わからなくて、苦しかった」



呼吸は大分落ち着いてきたものの、まだ完全には覚醒しきれていない様子で、途切れ途切れにキオラは語った。

あちらの世界であった出来事をどうにか思い出そうとしているのか、こめかみに当てた左手は強張っていた。



「それで、どうなったんだ?」


「……そうしたら、今度は、違う人の声が、したんだ。

それがどんな声だったのかも、なにを言っていたのかも、今は覚えてないけど。

でも、今度はその声のする方に、歩いていったら。鏡が、あった」


「鏡?」



キオラが言うには、途中からアンリの呼び声は届いていたらしい。

しかしそれは、辛うじて感じ取れるほどの微かなもので、アンリの声だけを頼りにあちらの世界から脱出することはできなかったという。


どうにかあちらの世界から抜け出そうともがいたキオラだが、追体験による激しい痛みの感覚は尽く彼女の行く手を阻んできた。

現実という名の陸に這い上がろうとする度、底無しの沼から無数の手が伸びてきて、しつこく彼女の足に絡み付いたのである。



"どこだ、ここは"

"さっきまで実験室にいたはずなのに、なにもない"

"私は今どこにいるんだ。なにをしているんだ"

"どれが、本物なんだ"



あちらの世界で、真っ二つに別れてしまったキオラの意識は、二つの場所を瞬間移動するように行き交った。


ついさっきまでゴーシャークの実験室にいたはずなのに、気付けばなにもない暗闇の中にいる。

そしてまた気付いた時には、再び実験室に引き戻されて、ベッドの上でのたうちまわっている。

延々と、その繰り返し。


二つの世界に、同時に存在している一人の自分。

瞬きをした瞬間に世界が変わり、次々と移りゆく光景はどれも幻のようだった。


自分が今、どこでなにをしているのかわからない。

暗闇と実験室とをひたすら行き来している内に、次第に考える力も衰えていって。

ただ、どこにいても、足が押し潰される痛みだけは追い縋ってきて、逃れられなかった。



そんな時だった。

ふと闇の中で、アンリ以外のもう一人の声が響き渡った。


その声の主が一体誰なのか。

あの人はあの時、自分になにを訴えていたのか。

今となってはもう覚えていないけれど、当時のキオラは藁にも縋る思いで、その声のする方へと足を延ばした。


すると、振り向いた先にあったのは、一つの大きな姿見だった。

無限に広がる真っ暗な空間にぽつりと佇むその姿見から、謎の声は聞こえてきた。


再び実験室の方に意識が持っていかれそうになるのを堪え、痛む足に鞭打って、キオラは姿見に向かって手を伸ばした。



そして、姿見に指先が触れた瞬間。

中から何者かの白い手が伸びてきて、キオラの腕を捕まえた。

そのまま、勢いよく引っ張って姿見の中に引きずり込んだ。



姿見の中に入ると、途端にキオラの周りは強い光で一杯になった。

キオラはそのまぶしさから、反射的に目をつむった。

あちらの世界にいたキオラが、最後に見た景色がそれだった。


最後に耳にしたのは、あの謎の声。

自分の耳元で、なにかを囁いた一言だけ。


再びキオラが目を開けた時には、もうあの光の空間はなくなっていて、代わりにアンリの顔が映った。

足の痛みも、自然と消えていた。


いつの間にか、キオラは現実に戻ってきていた。

あの姿見こそが、記憶の世界から脱出するための唯一の出口。

あの謎の声は、キオラをアンリの元へと導いてくれたのだ。



アンリは、その話を聞いてすぐに理解した。


キオラの言う真っ暗な空間というのは、恐らくあちらとこちらの狭間。

キオラの記憶の中の世界と、現実の世界との中間にある世界だと。


アンリの呼び掛けによって、キオラはなんとかその狭間にまでは浮上することができた。

だが、呼び掛けが途切れ途切れにしか届かなかったせいで、アンリの声が薄れる度にキオラは再び記憶の世界へと落ちていった。

いつぞやの実験室とを行ったり来たりしていたのは、それが原因だろう。


そして、姿見の中から聞こえてきたという謎の声の正体は、きっとクリシュナだ。

アンリがキオラを狭間まで導き、クリシュナが、狭間から現実の世界へと完全に呼び戻した。


アンリのおかげで、あと少しで目が覚めるというところまで来ていたというのに、どうしても出口だけが見付からずさ迷っていたキオラを、クリシュナが案内して助けてやった。


アンリとクリシュナ、二人の力がなければ、キオラは今も記憶の世界に取り残されていたかもしれない。



「……きっと、君を俺達の元まで導いてくれたのは、クリシュナだ」


「……わかるの?」



アンリの口からクリシュナの名前が出ると、キオラは怖ず怖ずと顔を上げた。



「わからない。ただ、そんな気がするんだ。

君に呼び掛けている間、俺はとっさに彼に助けを求めた。キオラを引っ張り上げるのを手伝ってくれとね。

…彼が、俺の頼みを聞いてくれたのか、それとも自発的に君を助けようとしたのかはわからない。

けど、君を助けてくれたのは、きっとクリシュナだよ」



まだ確信を持つには至らないが、アンリのその言葉を聞くと、本当にそんな気がしてくるとキオラは思った。


そして、あの謎の声の正体が、本当に彼であったのなら。

せめて助けてくれた礼を伝えたかったと、キオラは切なそうに目を伏せた。



「私が、無事に戻って、来られたのは、みんなのおかげ。アンリのおかげだよ。

みんながいて、くれなかったら、私は、永遠に、向こうに取り残されたままだった」


「……本当に、よく帰ってきてくれた、キオラ。よく頑張ったな。

苦しい思いをさせて、すまない」



本当はこの場に立ち会ってくれた全員に、側にいてくれた全員に感謝のハグをしたいほどの気持ちだった。

が、憔悴した体は思うように動かず、キオラはただ短く礼を告げることしかできなかった。


そんなキオラの気持ちに、ヘイズもヨダカも、シャオ達も気付いていた。

アンリが代表してもう一度キオラを抱きしめると、キオラは今度こそ悲しみではない涙を流した。



「これで、やっと。私は、本当の私を取り戻すことができた。

やっと、空いていた胸の穴が、埋まったよ」



アンリの耳元で、キオラの掠れた声が木霊する。

呼吸は浅いが、それは吹っ切れたように張りのある声で、同時に諦めのような、悲哀の色も内包していた。



「だから、もう私は、あなたとは一緒にいられない」



小さいが、明確な意思のある声と言葉を聞いて、アンリはぴくりと肩を揺らした。

恐る恐る体を離すと、キオラは不気味な微笑みを携えていた。



「全部、教えるよ。アンリが知りたいと思っていること、全部」


「キオラ」


「だから、それが済んだら、全部、終わり。

あなたに真実を伝えたら、私達はさよならだ。アンリ」






"私はもう、あなたを愛せない"


信じられないものでも見るような顔をしているアンリとは対照的に、キオラは酷く冷静だった。

まるで、最初からこうなることを覚悟していたように。



キオラは知ってしまった。失われた自分の過去を。

キオラ・シャムシュロヴァ・グレーヴィッチという人間が、本当は何者であるのかも。


知ってしまった。自分は怪物であることを。

思い出してしまったらもう、二度と元には戻れない。

普通の人間のフリをして、偽りの平穏に浸っていたあの頃には、二度と。



醜い怪物の一途な恋は、これにておしまい。


ごめんね、アンリ。

私はもう、あなたに触れられない。


全てを明らかにしたら、私達はお別れだ。







『You finally came for me?』


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