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オルクス  作者: 和達譲
Side:A
189/326

Episode28-12:扉の向こうにあるもの



もう一分も一秒も猶予がない。

早く、今すぐにキオラを現実に呼び戻さないと。


最早なりふり構っていられなくなったアンリは、ヘイズからの指示を待つまでもなく自ら行動を起こした。



「起きろ!キオラ!!目を覚ませ!!」


「あ、……、ゃ、……いあ、だ、いやだ、ぁ、っ」


「キオラ!俺の声を聞け!!君が見ているのは幻だ!現実じゃない!」


「や、だ。いやだ、ぁ。やめて、たすけ、て」


「キオラ!!!」



力強くキオラの肩を揺さぶりながら、アンリは何度も何度も大きな声で呼び掛けた。

しかし、アンリの声が彼女の心にまで届くことはなかった。


しきりに嫌だ嫌だと首を振るキオラは、泣き出しそうな細い声で誰にでもなく懇願し続けている。

一見返事のようにも聞こえるそれは、あくまでキオラが生理的に発しただけのものであり、決してアンリの呼び掛けに応えているわけではない。



「ど、どうしよう…。キオラさん、どうしよう…。なにか、ボクもできること、」



側で二人の様子を見ているマナとジュリアンは、あたふたしながらアンリの周辺を右往左往した。


自分もなにか手伝いたいが、下手に手を出せば却って邪魔になってしまうかもしれない。

そう思ってなにもできずにいるのである。



「ヘイズ、この間の臨床試験ではここのコードを外してたよな?試しに外してみようか?」


「いや、そこは繋いでおいてくれ。外さない方が詳細なデータが取れるはずだから。それよりも他に……、」



ヘイズとヨダカは、二号の本体とタイプライターを改めて確認して、この最悪の状況を打破する手立てがないか必死に解決法を模索している。

ジャックも途中から手伝いに来て、逐一キオラの精神状態を二人に伝えている。


試しに二号の電源を落としてみるかとヨダカは提案したが、二号の機能とキオラの状態に直接の関係はないので、そこから突破口が開ける可能性はないだろう。



こんなことは、終ぞなかった異常事態だった。

キオラのケースが特殊すぎるのもそうだが、それにしても催眠が強く影響し過ぎている。

あれほど強く体を揺さ振られても、耳元で叫ばれても目を覚まさないなんて、通常なら有り得ないことだ。


つまり、逆を言えば、その通常が全く通用しないほど、キオラの過去には強烈な闇が内包されていたということになる。

そして、キオラの記憶の一部を削除し、意図的に改ざんしたとされる何者かが、相当の技術を以てキオラを操っていたということでもあるのだ。



「くそ…っ。キオラさん……!」



ヨダカと共に知恵を絞りながらも、ヘイズは二度の退行催眠はやめておくべきだったと自らの浅はかさを呪った。



「っ、あ。アン、リ。…アンリ……っ」


「キオラ…?俺の声が聞こえるのか?キオラ、」



すると、アンリの熱心な呼び掛けに反応してか、キオラが寝言のようにぽつりぽつりとアンリの名前を口にし始めた。

喉を震わせ、激しく胸を上下させながらも、キオラの唇は繰り返しアンリの名を紡ぎ続ける。



「たす、け、て…っ。こわい、アンリ…!アンリ…っ!」



しかし、それはアンリの呼び掛けに対した返事ではなく、キオラが無意識に呟いた言葉だった。


18歳の当時のキオラは、恐怖に全身を震わせながら、藁にも縋る思いでアンリに助けを求めていたのだ。

そんなことをしても、実際にアンリが助けに来てくれるわけではないとわかっていたけれど。

それでも、極限状態の最中で愛する人の名を呼ばずにはいられなかったようだ。

例え幻でも、辛い時にこそアンリに側にいてほしかったから。



「キオラ……っ」



こんな。こんなにも彼女は、自分のことを求めていたのに。救いを願っていたのに。


きっと、実験の直前にこうして名を呼ぶのも、一度や二度のことではなかっただろう。

怯えながら何度も俺の名を呼び、俺の名を呼ぶほどに、空虚であると絶望してきた。

なのに俺は。そんなことも知らずに、今まで、ずっと、君を。


アンリは、痛々しいキオラの姿を見て、心臓が貫かれるような痛みに苛まれた。

悔しさに噛み締めた奥歯からはギリリと軋む音が立に、微かな苦味と痺れをアンリの舌に残していく。



そして、アンリがもう一度キオラに呼び掛けようとした時だった。


最後に、あ、と短く引き攣った声を上げて、キオラがぴくりとも動かなくなってしまった。

全身の震えも止まり、同時に呼吸まで止まってしまっている。


息絶えたように突然、ぱったりと。



「………キオラ?」



あまりに急なことに、アンリはとっさに停止して恐る恐るキオラの名を呼んだ。


それからしばらくの間を置いた後、二号本体からけたたましい警告音が鳴り響いた。


先程サインカラーがレッドに変更された時よりも、更に大きな音。

思わず耳を塞ぎたくなるような激しい音が、繰り返しスタッフルーム中に響く。


レッドサインよりも更に上の反応。

瀬戸際さえ飛び越えた極限領域。

ということは、つまり。



「…ッあ"あ"あ"あ"あ"あああああああ!!!!!」



警告音が鳴り始めて間もなく、呼吸の止まっていたキオラは思い出したように一気に息を吸った。

続けて、喉が張り裂けてしまいそうなほどの大音量で絶叫した。


背中を弓なりにのけ反らせ、腹の底から鋭く叫ぶ姿は今にもへし折れてしまいそうだが、やはり手足は思うように動かせないでいる。

まだ拘束されている感覚が続いているのか、変に力んでしまっている状態で、のけ反った首筋には太い血管が浮かび始める。



「キオラ!!!」


「あ"が、っあ、し、ッあ"し、ッがあ、あああ"あ"あ"ああ!!!!」


「キオラ!目を覚ませ!!!キオラ!!!」


「いやだ、あ"、いや、いやだあ、あ"!いだ、い、、いたい、いやだ、ぁ、やめて、、っやめ、や、ッあ"、あ"あああぁぁぁあ!!!!」



アンリの必死な呼び掛けも虚しく、キオラは息も絶え絶えに叫び続けた。


時折右足が空中を蹴るように痙攣しているので、恐らく機械に潰されているのは右足だろう。

これほど激しい反応を見せているということは、実際に経験した当時とほぼ同じだけの痛みが今のキオラを襲っている。


無論、これは再現された世界であるので、彼女が感じている痛みは現実のものではない。全てはただの幻だ。

だが、記憶の中の自分と今の自分とが一体となってしまっているために、脳が錯覚を起こして、触覚までもが鮮明に再現されているようだ。



少しでも痛みから逃れようと、キオラが激しく首を振り回す。

顎が外れそうなほど大きく開けられた口からは、引っ切り無しの絶叫と共に生理的な唾液が垂れている。


"PAINFUL"(痛い)

"PAINFUL"(痛い)

"PAINFUL"(痛い)

"PAINFUL"(痛い)

"PAINFUL"(痛い)……。


壊れたように何度も何度も繰り返し出てくるキーワード。

同じキーワードが延々と繰り返されているということは、その表記が途切れるまでキオラが感じている痛みも継続されているということになる。


現在の数値は118。

通常は100までが限界なので、最早限界すら振り切ってしまっている状態だ。

このままでは、キオラの人としての自意識が崩壊してしまう危険がある。



「……ッン"、っああ"、あ"ぁぁあ、アが、」



右足以外の四肢はソファーに縫い付けられたように動かせず。

酸素を求めて開いた口からは、呼吸よりも先に叫びが出入りする。

ほぼ窒息しかけているキオラは、陸に上げられた魚のように上体をくねらせ、やがてバタバタと暴れ始めた。


そこへ、少し離れた所から様子を窺っていたシャオが痺れを切らして駆け寄ってきた。

狼狽するマナをそっと押し退けたシャオは、暴れるキオラの脛を手で押さえ付けて、動かないように固定した。

どうやら、これはアンリ一人の手に負えないだろうと思って手伝いに来たようだ。


アンリは、フォローに来てくれたシャオに一度目配せをすると、自分はキオラの上に馬乗りになって、暴れるキオラの肩を真上から押さえ込んだ。



「キオラ、飲まれるな。君の脚は無事だ。形も変わっていないし痛みもない。これは現実じゃないんだ」


「ああ、あぁあ、っぅぐ、ぅうう、う。いた、ぁ、やめ、て、だれか、あ、アンリ、」


「俺はここにいる!キオラ!!

そっちは君のいるべき世界じゃない!!気を確かに持て!!」


「ぁあ、あああぁぁああ、あ"あ"あ"あああああ!!!」


「キオラ!!!」



装置越しにではあるが、キオラの顔に自分の顔を限界まで近付けてアンリは叫んだ。

暴れるキオラの体を、無理矢理力で押さえ込みながら。


すると、キオラは首を振り回すのをやめて、どこか観念したようにしくしくと泣き始めた。

いくら助けを呼んでも、やめてくれと懇願しても、なにも変わることのなかった当時と同じように。



"BLOOD"(血)

"BLOOD"(血)

"BLOOD"(血)

"PAINFUL"(痛い)

"HOT"(熱い)

"PAINFUL"(痛い)

"BLOOD"(血)

"RED"(赤)

"DEEP RED"(深紅)

"DEEP RED"(深紅)

"OVERFLOW"(溢れる)

"PAINFUL"(痛い)

"COLD"(寒い)……。


恐ろしいスピードで次から次へと出てくるキーワード。鳴り止まない警告音。

サインカラーのまばゆい赤に照らされ、スタッフルームがまるで血の海に覆われたように暗くなる。



既に、限界など超えてしまっている。

これ以上先がないというのなら、装置ももう必要ない。


アンリは、憔悴して大人しくなり始めたキオラから装置を取り外し、電源を落とすと、キオラの頬を両手で包んでそっと持ち上げた。


装置の電源を落としたことで、連動する二号の本体も途端に機能を停止させる。

まず警告音が止み、続いてサインカラーが消えて、真っ赤に染まっていた室内は明るい白を取り戻した。



「戻ってこい!!キオラ!!!俺はここだ!!!」


「ああ、あ、ぁ、あぁ、っあ」


「頼むから、目を開けてくれ!このままでは本当に壊れてしまう…!

これ以上奴らの好きにさせるな!自分を見失っちゃ駄目だ、キオラ!!」


「ああああ"あ"、あああ」



死に物狂いで叫ぶアンリの姿に、全員の目が釘付けになる。

あのシャオですら、見たことのないアンリの気迫に圧倒されている。



「キオラ……!」


「ぁああ、ぁ、……っぁ"、」



しかし、最早言葉すら失ったキオラは、掠れた声でひたすら泣き続けるだけだった。

アンリが何度呼び掛けても、キオラの固く閉ざされた瞼からは洪水のような涙が溢れてくるだけで、決して目は開かない。


その虚しさと、己に対するふがいなさから、アンリもとうとう堪えきれずに涙を零した。



「……っお願いだ!!!クリシュナ!!!!

キオラを助けてくれ!!!!!」



どうしたらいい。どうすれば彼女を呼び戻せる。

アンリは、神頼みをするような気持ちで、とっさにクリシュナの名を叫んだ。


彼は言っていた。

自分はいつも、キオラの中から世界を見ていると。

表に出ていない時でも、密かにキオラの中からキオラのことを見守っていたと。


ならば。

今もそこで、彼女の中にいるというのなら。


助けてくれ。頼むから。力を貸してくれ。

キオラをこちらの世界へ引き上げるのを、どうか手伝ってくれ。

血みどろのような重い記憶の海の底で、彼女が完全に窒息してしまう前に。



アンリの目から零れた涙が、キオラの閉ざされた瞼の上に落ちる。


すると、今まで引っ切り無しに喘ぎ続けていたキオラが、急にぴたりと動きを止めた。

全身からぐったりと力が抜け、同時に呼吸と涙も止まる。


クリシュナという名前に反応したのか、それとも、今度こそ本当にキオラの心が壊れてしまったのか。

突然全ての音が消えて、室内は妙な静けさに包まれた。



アンリは、一同が固唾を呑んで見守る中、静かに上体を屈めると、キオラの唇に一つキスを落とした。

続けて、呼吸の止まってしまった彼女に再び命を与えるように、触れ合った唇から優しく息を吹き込んでやった。


"君に愛されているという実感があれば、キオラはそれだけで強くいられた"

"どんなに辛いことがあっても、自分を待ってくれている人がいると思えば、耐えられた"


キオラの半身が言っていた言葉を信じて。

自分は心から君を愛しているのだということが、少しでも伝わるようにと。



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