Episode28-9:扉の向こうにあるもの
キオラの寝顔を側で眺めながら、アンリもようやく一息ついた。
しかし、ほっとしたのも束の間、すぐにヘイズに声をかけられてしまった。
「アンリさん!ちょっと」
キオラの眠りを妨げないよう、ヘイズは声を潜めておいでおいでと手招きをした。
一体なんだと、落ち着けようとした腰をもう一度浮かせて、アンリは立ち上がってヘイズのもとに向かった。
すると、アンリが機材室に入るやいなや、ヘイズは顔を近付けてきて更に小さい声で言った。
「すみません。確認のためにお聞きしておきたいことがありまして…」
「なんです?」
「…キオラさんの記憶についてです。
先程のお話によりますと、アンリさんはキオラさんが失くしてしまった記憶の内容を、大方は把握してらっしゃるんですよね?
でしたら、判明している範囲で構わないので、僕にも要点を教えて頂けないでしょうか?」
こそこそと身を寄せ合って内緒話をするアンリとヘイズ。
たくさんの医療機器に囲まれ、スタッフルームよりも僅かに肌寒く感じる機材室に、二人の小声が反響する。
ヘイズは、いざという時の対処を誤ってしまうことのないよう、予めキオラについて出来るだけのことを把握しておきたいようだった。
それで、特に詳しい事情を知っていそうなアンリに事情を尋ねてきたのだ。
少し考えたアンリは、どうせ後で全て明らかになることなのだからと、ヘイズには正直に打ち明けることにした。
「……貴方のことを信用しているので、お話しますが。
事情を知っても、我々がいいと言うまで、決して他言しないと約束してくれますか」
アンリの含みのある物言いに、ヘイズは不思議そうに眉を下げた。
「…?守秘義務がありますので、当然ここだけの話にしますが…。
いいと言うまで、というのはどういう意味でしょうか?」
「今からお話することは、近い内に必ず世間にも公表されるはずの機密です。
なので、その時が来るまでは、なにを聞いてなにを知っていても、ヘイズさんには知らぬ存ぜぬを通してほしいということです」
「…つまり、アンリさんから許可が出るまで、僕は一切知らんぷりをしていればいいということですね?」
「そういうことです。キオラの施術が済めば、ここで話したことは一度忘れてください。
……約束、して頂けますか?」
アンリの意味深な発言を一度は訝ったものの、端から今日のことを他言する気はなかったので、ヘイズはすぐにわかりましたと了承した。
「…実は、昨夜キオラの交代人格の、クリシュナと名乗る青年から聞いたことなのですが……」
アンリは、今一度昨夜の出来事を思い出して、クリシュナとの会話の内容をかい摘まんでヘイズに説明した。
キオラが残虐な人体実験の被害者であること。
そしてその実験を指揮していたのが、自分の父、フェリックスであったこと。
当時の記憶を取り戻せば、キオラの気が触れてしまう可能性が極めて高いこと。
FIRE BIRDプロジェクトの実態や、重要人物ウォレス・フレイレの存在など、核心的な部分はかなり省いたが、その辺の情報はヘイズには必要のないことだ。
今の彼に伝えなければならないのは、キオラが経験してきた苦痛と絶望の記憶が、自分達の想像を絶するものであるということだけ。
すると、プロジェクトの実験内容について話していくうちに、ヘイズの顔色はみるみる青ざめていった。
アンリの短い説明を聞いただけでも、キオラが今まで壮絶な体験をしてきたようだということは伝わったらしい。
やがてアンリが一通り話し終えた頃には、信じられないといった様子で絶句してしまった。
キオラの過去についても勿論そうだが、フェリックスが生きた人間を使って実験を繰り返していたという事実も、フェリックスを尊敬していたヘイズにとっては相当なショックだったようだ。
「……正直、俄かには信じられませんが…。
完璧主義のフェリックス氏が、万能薬を実現させるためにあの手この手を使っていた、ということなら……。
ご子息を前に言うのは忍びないですが、有り得ない話でもないですね」
「ええ。彼女は父の理想のために生け贄にされたんです。
人体の仕組みをより深く理解すれば、そこから取っ掛かりが見えてくるだろうと思ったのかもしれません」
口元を掌で覆い、独り言のようにぼそぼそと呟くヘイズに、アンリは淡々と返した。
どうやらヘイズは、今の話を聞いて、キオラは単純に実験用モルモットとして利用されていたに過ぎない不憫な一般人と解釈したようだった。
苦痛を伴う人体実験は、人体の機能と反応を調べるために行っていたもので、そのデータを万能薬の開発に役立てていたのだろうと。
しかし、実際のところは少し違う。
元々一般人だったキオラに白羽の矢が立ったのではなく、彼女は被験体として利用されるために生まれてきた存在だ。
実験の目的も、単に人体の神秘を解明するためではなく、そもそも特別であった彼女をより優れた人材へと導くために行っていたこと。
故に、それらの実験データが万能薬開発のための足掛かりにされていた、というヘイズの見解は半分正解だが、半分は間違い。
万能薬開発のためにキオラが利用されていたのではなく、キオラを中心にこの計画は成り立っていたのだから。
だがアンリは、ヘイズが誤解をしているなら今はそういうことにしておいた方がいいと判断し、敢えて彼の推測に訂正を入れなかった。
フェリックスは、表向きには神のように持て囃されていた人物だ。
優秀であったのは本当のことだし、医学の道を志す学生の中には、今でもフェリックスを最終目標としている者も多いと聞く。
畑は違えども、同じ医師として学者として、ヘイズもまたフェリックスに憧憬を抱いていた。
だからこそ、自分の尊敬していた相手がそんな人間であったとは信じられなくて、ヘイズはやや半信半疑になってしまっているのだ。
ストイック過ぎるあの方だからこそ、研究に没頭するあまり気が変になってしまったのかもしれない。
物分かりがいい分、やや自分の都合のいいようにヘイズは飲み込もうとしている。
フェリックスが悪の道に墜ちてしまったのは突然変異によるものだからと、自分の中の美しいフェリックスのイメージが損なわれてしまわないように。
現実は、フェリックスが残虐性を秘めた人間であったのは元々で、本人がそれをうまく覆い隠していたに過ぎないのだが。
「…とにかく、キオラさんが引き続き退行催眠を行った場合、リスクが跳ね上がるということは理解しました。
先程アンリさんが反対されていたのは、これが理由だったんですね」
「ええ。……プレッシャーをかけるような言い方になってしまいますが、この先はヘイズさんの直感にかかっているといっても過言じゃありません。
キオラの許容範囲ギリギリのところを見極めるのはとても難しいことだと思うので、これ以上はまずいと少しでも感じたら、即刻催眠を中断してください。
なにより、彼女の身の安全が再優先ですから」
「それは勿論です。患者さんの心の健康を取り戻すのが僕の仕事ですから、却って悪化させてしまうなんてことは絶対にあってはいけない」
ヘイズは、まだ少し腑に落ちない顔であるものの、とにかく今の自分に必要なことは理解したようだった。
キオラの退行催眠を無事に成功させるためには、やはり担当医の自分の手腕にかかっているのだと。
「…少し立ち話が過ぎましたね。もう直10分になります」
ふと右手の腕時計に目線を落としたヘイズは、あと少しで予定の10分が経過することを確認した。
アンリは、じゃあそろそろ起こした方が良さそうですねと呟いて、スタッフルームの方を覗いてキオラの様子を見た。
「最後に、アンリさん」
直後、ヘイズがアンリの肩に手を置いて、もう一度自分の方に振り向かせた。
アンリは、とっさにシャオ達に返事をする時のような素の反応をしてしまった。
「…?はい」
「……何度も言いますが、僕は全力を尽くします。ただ、いざという時には、貴方の力も必要になってくる」
「俺ですか?」
ヘイズの真剣な瞳に見詰められて、アンリは思わず自分のことを俺と言ってしまった。
「万が一、キオラさんがあちらの世界に飲み込まれて、なかなか現実に浮上できないという時には、アンリさんの方から声をかけてあげてください。
担当医は私ですが、やはりキオラさんにとって馴染みのある声で導いてやる方が届きやすいと思うので」
「……具体的に、俺はどうすれば?」
「話し掛け続けるんです。何度も、根気よく。キオラさんが貴方の声に反応するまで。
どんな内容でもいいです。ただ、キオラさんが本来いるべき世界はそちらではないということを、キオラさんに教えてあげてください」
ヘイズがそう言い終えるのと同時に、ヘイズの腕時計からジジジジと発条が回るような音が鳴り始めた。
あれからきっかり10分が経過したことを知らせるアラーム音だ。
休憩はこれで終わり。
この先成功しても失敗しても、どちらに転んでもキオラが苦しむ時間がやって来た。
アンリはもう一度キオラの方を一瞥し、それからまたヘイズの顔を見ると、わかりましたと答えて力強く頷いた。




