Episode28-8:扉の向こうにあるもの
「……だそうだ。どうする?ヘイズ」
キオラの腹を据えた態度を見て、ヨダカは首だけで振り返ってヘイズに尋ねた。
たった一度の退行催眠で、しかも核心には触れない狭い範囲であったにも関わらず、キオラは酷く体力を消耗してしまった。
彼女の健康面を尊重するならば、これ以上の退行催眠は控えておくべきなのかもしれない。
しかし、当の本人は続行を望んでいる。
危険を承知で、途中で窒息してしまう可能性があることを理解した上で、より深いところまで潜ろうと彼女は言う。
となると、この先は彼女の意思を汲み取ってやるべきか。それとも安全面を優先するべきか。
判断を仰がれ、ヘイズは短く思案した後、記録付け用のカルテをソファーの上に置いて、ゆっくりと腰を上げた。
無言で近付いてくるヘイズに、アンリとヨダカも無言で行く手を開ける。
ヘイズはキオラの目の前で立ち止まると、彼女の顔を覗き込んで言った。
「……今の状態で催眠を続行した場合、記憶の復元が成功する確率は上がるけれど、その分一度目の時よりリスクが高まる。
勿論、施術後のケアにも全力を尽くしますが、ひょっとしたら、しばらくの間君はこっちに戻って来られなくなるかもしれません」
「どういう、ことですか」
ヘイズの言葉の真意が理解できず、キオラは不安そうに眉を寄せた。
「退行催眠によって遡った当時に意識を置き去りにされて、催眠を終了させた後にも目を覚まさなくなる可能性がある。
あちらに行ったまま、現実には戻って来られなくなるかもしれない、ということだよ」
大切なことなので、ヘイズは敢えて厳しい口調で淡々と告げた。
あちらの世界により深く意識を突っ込んでいけば、それだけ引き上げるのも困難になる。
下手をすれば、そのまま闇に足を取られて、何日も現実に戻って来られなくなるかもしれない。
無論、これはあくまで可能性の話であり、実際にそうなってしまう確率は10パーセントにも満たない。
だが、先程のアンリ達の会話を聞いて、ヘイズは真っ先にそのことを懸念したらしい。
"地獄"
真剣な様子でアンリが訴えていたあの言葉は、恐らく彼の脚色によって誇張されたものではない。
事実、平凡な人生を送ってきた大多数の一般人と違い、キオラがこれまで生きてきた20年は実に非凡で、類を見ないほど特別だ。
だからこそ、思い出したショックで、一時的な仮死状態に陥るという最悪なケースも想定しておかなければならない、ということなのだ。
しかしキオラは、ヘイズに脅すようなことを言われても恐怖は見せなかった。
「…もしそうなった場合、私は二度と目を覚まさないのでしょうか」
「それはない。…とは言い切れない。
長くても精々2~3週間程度眠るだけと思いますが、君の場合かなり特殊なケースのようですからね。はっきり言って未知数なんです。
…さっきも言いましたが、そうならないために僕がここにいます。僕が付いている以上、最後には必ず君の笑顔を取り戻してみせます。
ただ、もし最悪の展開に転がってしまった場合、破壊された君の心を治すためには、相応の時間を要するということだけは理解しておいてほしいんです」
ヘイズとキオラの会話を聞いて、アンリも横から質問する。
「万一そうなった場合、ヘイズさんの治療でキオラが元気になるまでには、どの程度の期間を要する見立てなのでしょうか?」
ヘイズは、脇にいるアンリの方には振り向かずに、キオラの顔を見つめたまま答えた。
「……そうですね。今の安定した状態まで完全に取り戻すためには、最短でも一年はかかると覚悟してください」
ヘイズの容赦のない警告に、アンリはぐっと息を詰まらせた。
もし、退行催眠の後遺症により、再び現実に戻ってきたキオラが心を病んでしまった場合。
ヘイズがかかりきりで看病をすれば、一応治癒することはできるらしい。
ただ、心の病は一朝一夕で簡単に治せるものではなく、体の怪我と違って明確な治療方法も存在しない。
一度は壊れてしまったキオラが、また今までのように普通に笑い、普通に話ができるようになるまでには、相当な時間と根気が必要になってくる。
つまりヘイズは、一刻も早く記憶を取り戻したいと願うキオラが、そのための手段で思考する力を失ってしまっては元も子もないだろうと言いたいのだ。
そしてそれは、真相を知りたいと望むアンリ達にとっても大きな障害となる。
せっかく大切なことを思い出しても、キオラ自身がまともに話もできない状態に陥ってしまったら意味がない。
目の前に秘密を隠した箱があるのに、その箱を開ける鍵だけがないのと同じだ。
もしかしたら、これを最後に何年も目を覚まさなくなるかもしれない。
次にまたアンリと何気ない話ができるのは、随分先のことになってしまうかもしれない。
可能性は極めて低いと言っても、ゼロではない。
怖くない、はずがない。
それでも。
不安はあれど、足がすくむほどの恐怖はキオラにはなかった。
キオラは、ヘイズから目を逸らさずにはっきりと答えた。
「ドクターからのご忠告、よく理解しました。でも、やっぱり私は知りたいです。
万が一、私の身になにかあった場合、皆さんには大変な迷惑をかけてしまうことになると思うので…。先に、謝っておきます。ごめんなさい。
…だから私は、…私も、そうならないために全力を尽くします。
必ず、向こうで探していたものを見付け出して、みんなの元に持ち帰ります。ちゃんと、自分の足で。
……どうか、私に力を貸してください。ドクター」
助けを請うように、キオラの手がヘイズの長い指を掴む。
握る力はまだ弱々しいものだったけれど、そこからは確かに彼女の意思が感じられた。
ヘイズは、難しそうに眉を寄せ、背中をのけ反らせて短く天井を仰ぐと、溜まっていた息を吐き出して再びキオラと目を合わせた。
「わかりました。他でもないキオラさんのお願いとあれば、我々も全身全霊をかけて、お手伝いさせて頂きます。
ただし、これ以上は危険だと判断した場合には、貴女の意思を無視してでも強制的にこちらから中断させてもらいますので、悪しからず」
「……!はい。ありがとうございます、ヘイズさん」
今までのシリアスな空気を追い払うように、気持ちを切り替えたヘイズは明るい表情と声色でハキハキと告げた。
万が一キオラの身に深刻な事態が起きてしまった場合、リスクを承知の上で催眠を続行させたとして、担当医師のヘイズも責任を負うことになる。
アンリ達が病院に到着する前に、全てはキオラ自身の自己責任により行うものという旨で同意書は作成してある。
それでもヘイズには、患者の状態からドクターストップの有無を見極める義務がある。
例え本人が強く望んでいることであっても、確実に安全であるとは言えない以上、時には駄目だと要求を却下する必要もあるのだ。
当事者のキオラ自身も、そして実施する立場のヘイズも、そのことをよく理解している。
故に、本来ならば、危険性を考えてこれ以上はと中断するところなのだが、今回は友人のキオラが相手なので、ヘイズも特別に許可を出してくれたようだ。
深々と頭を下げてくるキオラに、ヘイズも困ったような笑顔で返す。
「じゃあ、今から10分の休憩を挟んだ後に、催眠を再開します。
キオラさんはその間に出来るだけ気持ちを落ち着かせて、次に備えておいてください。
仮眠を取ってもいいですが、10分後にはまた起きてもらいますからね」
「わかりました」
今から10分後に催眠を再開することを告げると、ヘイズはキオラの頭を一撫でしてから踵を返し、一人機材室に向かった。
「キオラ、今の内に少しでも寝ておけ。
10分後にすぐ起きるのも辛いだろうが、一度眠った方が頭も休まる」
「うん…。でも、起きられるかな」
「時間になったら俺が起こしてやるから、大丈夫。
ほら、ゆっくり体を倒して……、目を閉じて」
アンリは、たった10分の休憩時間でも出来るだけ体を休めた方がいいと、キオラの体をもう一度ソファーに倒してやった。
続けて、うとうとと眠そうなキオラの瞼を、優しく掌で閉じてやった。
そこへ、すかさずヨダカが新しいタオルを持ってきて、キオラの目元に乗せてやった。
とっさに気を利かせたマナも、借りたブランケットをキオラの体にかけてやった。
皆の優しさを肌で感じながら、ありがとうと声にならない声で呟いたキオラは、最後に穏やかな笑みを浮かべるとすぐに寝息を立て始めた。
よほど眠かったようで、体勢に入るなりあっという間に夢の世界へと旅立ってしまったようだ。




