Episode28-6:扉の向こうにあるもの
「大丈夫?キオラさん。酷い顔色だね…。
これ、ヨダカさんが使ってくれって、貸してくれたものなんだけど…。タオル。体を拭く用と、冷やす用にって」
「ああ…。ありがとうございます、マナさん」
アンリの掌で視界は覆われているものの、マナの心配そうな声が頭上から降りてきたのに反応して、キオラは力無く返事をした。
そして、まだ起き上がることが出来ない代わりに、低く右手を挙げることで自らの無事を証明した。
しかし、気丈に振る舞っていられたのはその一瞬だけだった。
再び枕にしているクッションに頭を沈めると、キオラは辛そうに長い溜め息を吐いてうなだれた。
「悪い、マナ。ジャック。ちょっと待っててくれるか」
「うん」
「ええ」
控えているマナ達にアンリが一言断ると、マナとジャックは順に返事をしてその場に待機した。
「キオラ。結構汗をかいたようだし、早めに体を拭いた方がいい。
体勢を変えたいんだが、手、外しても大丈夫そうか?」
「…うん。おかげで、大分落ち着いてきた。ありがとう。
もう外しても大丈夫だよ」
アンリがキオラの耳元で尋ねると、キオラは深呼吸をして心拍を鎮め、アンリの手の甲に指先で触れた。
どうやら、少しずつではあるが気分が落ち着いてきたようだ。
その様子を見て、アンリはキオラの目元を押さえていた右手を慎重に退けてやった。
彼女の体を刺激してしまわないよう、小指から順に一本ずつ宙に浮かせていって、徐々に光に目を慣れさせてやる。
するとキオラは、段々と暗闇に光が差してくる感覚に一瞬眩しそうに顔を顰めた。
だが、アンリが配慮してやったこともあって、何事もなくこちらの世界に戻ってくることはできた。
恐る恐る瞼を開けると、神妙な雰囲気でこちらを見下ろす三人の顔が、同時にキオラの視界に入ってきた。
「それじゃあ、汗を拭くから体を起こすぞ。いいか?」
「そんなに、心配しなくても、大丈夫だよ。汗くらい、自分一人で…」
これ以上世話をかけたくないと思ったのか、キオラは後の始末くらい自分で出来ると言い張って申し訳なさそうに首を振った。
しかし、実際は自力で汗を拭くことも難しいほど憔悴していて、とてもじゃないが本人に任せておける状態ではなかった。
先程まで上気して赤くなっていた頬は、今度は打って変わって青ざめ始めている。
肩やふくらはぎも、緊張によりすっかり硬直してしまっている。
恐怖か疲労によるものか、指先の震えも先から治まる気配がない。
「こんなガチガチに固くなった体で無理するな。いいから、これくらいは俺にやらせてくれ。
…背中、起こすから。俺の腕に体重預けて。いくぞ、」
こんな時にまで、周りに気を遣ってばかりいて。
こんな時くらい、少しは自分を頼ってくれたらいいのにと。
キオラの痛々しい姿を見て、アンリは哀れみにも怒りにも似たもどかしい感情を覚えたが、今回ばかりは彼女の強がりを尊重してやる気を見せなかった。
平素であれば、なによりキオラの気持ちを大事にしているアンリだが、今はとにかくキオラの体調を回復させることが優先だ。
例え本人の意思を無視する形になろうとも、この状況で四の五の言っている余裕はない。
キオラの覇気のない声を遮り、いいから自分に任せろと一方的に告げると、アンリはキオラの背中に腕を回してゆっくりと上体を起こしてやった。
するとキオラは、気丈なことを言っていた割に抵抗する気力は残っていなかったようで、だらりとアンリの腕に体重をかけると、ぴくりとも動かなくなってしまった。
薄くて軽いキオラの体が、萎れた花のようにぐったりと力を失う。
その姿はまるで、全身を支えていた柱がすっかり抜けてしまったかのようだった。
「マナ。そのタオル、両方とも俺にくれ」
「ん。支えてようか?」
「ああ。頼む」
それから、ソファーの背もたれにキオラの体を預け、アンリはマナから二枚のタオルを受け取った。
バランスを崩して倒れてしまわないよう、マナが隣に座ってキオラの肩を支えてやり、その間にアンリがキオラの汗を手早く拭っていく。
首周りと顔を中心に、キオラの肌に滲んだ冷たい汗を丁寧にタオルに染み込ませていく。
介抱をされている最中も、キオラ自身はぼんやりとした表情で一言も喋らなかった。
汗を拭き取った後、アンリがキオラの首筋に触れて再度体温を測ると、先程一気に興奮した時と比べれば幾分下がったのが確認できた。
ただ、元々平熱の低い彼女にとっては、これでもまだ熱に浮かされた状態だ。
アンリはすかさずもう一方の濡れタオルで、キオラの首を押さえてやった。
濡れタオルのひんやりとした感触が気持ち良かったのか、キオラはうっすらと目を細めると、宛がわれたタオルを自分の手で支えた。
キオラの腕の自由が利くようになったのを見て、アンリもそっと手を引っ込めた。
「それと、これ。汗かいたなら、水分をとった方がいいわ」
一息ついた頃合いを見て、じっとアンリ達の動向を見守っていたジャックがキオラの顔を覗き込んだ。
「ありがとうございます。ジャクリーンさん、マナさん。
……アンリも、ごめんね」
「俺のことは気にしなくていい。よく頑張ったな、キオラ。
ほら、零さないように。ゆっくり飲んで」
キオラは、ジャックから差し出された水を受け取ると、改めてマナとジャックにお礼を言って、ゆっくりではあるが一気に水を飲み干した。
汗をかいたことと、今まで無意識に口呼吸をしてしまっていたことで、それなりに喉が渇いていたようだ。
「キオラさん。具合はどうですか」
そこへ、なにやらヘイズと話し込んでいたヨダカがやって来て、キオラの体調を伺った。
「皆さんのおかげで、なんとか良くなってきました。
お手数おかけしてすみません、ヨダカさん」
「謝ることはないよ。けど、皆がいてくれて良かった。
大丈夫そうなら、今の内にこれを食べてください。血糖値も下がっていると思うから」
先程よりも大分表情が柔らかくなったキオラを見て、ヨダカもほっとしたような顔になった。
そして、空になったコップを回収すると、代わりにチョコレートのパッケージをキオラに差し出した。
パッケージは既に開封済みで、先にヘイズが一粒貰ったようだった。
ヨダカの背後で、相変わらずソファーに座ったまま記録付けをしているヘイズが、ふと一同の視線に気付いて顔を上げる。
一口サイズのチョコレートを指で摘まみ、キオラに向かって笑いかける姿は、お先に一つ頂きましたからと無言で言っているようだった。
それにキオラも思わず笑みを零し、素直に頂きますと言って、トレーの上からチョコレートを一粒取って口に運んだ。
ヨダカはついでにアンリやマナ達にもどうかと勧めたが、三人は遠慮した。
「それにしても…。驚かないんですね、あまり」
「え?」
「君の反応ですよ。
キオラさんのあんな姿を見れば、幼馴染みの君ならもっと狼狽えるだろうと思っていたんですが…。意外と冷静なんですね。
もしかして、彼女の記憶が一部欠落している原因や、その内容について、アンリさんは前からご存知だったんですか?」
ヨダカからの思わぬ指摘に、アンリは口をつぐんで思案した。
確かに、彼の言うことも一理ある。
この状況下でアンリが落ち着いていられるのは、事前にある程度の事情を把握していたからだ。
もし全くの無知でこの場に立ち会っていたなら、キオラの苦しむ様を見てパニックを起こしていたかもしれない。
しかし、クリシュナと面識のあるアンリと違って、ヨダカやヘイズ、マナ達は、キオラの記憶障害の原因について知らない。
キオラがなにか重要な秘密を握っているようだから、これからそれを確かめに行く必要があると。
ここを訪ねる前、訳を尋ねられたアンリはマナ達にそう説明したものの、昨夜の出来事についてはまだ話せていなかった。
今更隠し事をするような仲ではないといっても、想い人の女性の正体が、実は人体実験の末に生まれた殺人鬼などとは、自分の口からはなかなか切り出すことができなかったのだ。
ただ、これほど重大なことをいつまでも自分の胸の内に秘めてもおけない。
キオラ本人がいる前で、ヨダカになんと言って説明すればいいのか、アンリは悩んだ。
「……実は、キオラの交代人格の青年と、一度会ったことがあるんです」
とりあえず質問には答えると、ヨダカとキオラは共に驚いた表情を見せた。
「そうなんですか?」
「ええ。といっても、ちゃんと顔を合わせたのは、つい先日のことなんですが」
直後、アンリの説明に割って入るように、一同の背後から音もなくシャオが現れた。
「厳密には二回、だろう。
モーリスの屋敷前で一回、そして昨夜の別荘で一回」
そう言って、ヨダカの手から二つチョコレートを取ったシャオは、飄々とした顔でその内の一つを自分の口に運んだ。
もう一つはコインを弾く要領で空中に投げてからキャッチし、再び何事もなかったかのようにアンリ達の元から去って行く。
詳細な話はまだ控えておいた方が良いかと思案していた矢先、シャオがさも当然のように核心に触れてきて、今度はアンリの方が驚いた。
「な、……。もしかして、お前ら全員知ってたのか?昨夜のこと」
さっさといなくなってしまったシャオの代わりに、アンリがマナとジャックに問い詰めると、二人は少しばつが悪そうに顔を見合わせた。
そして、マナが代表して申し訳なさそうに頭を下げた。
「…ごめん、アンリ。
盗み聞きするつもりはなかったんだけど、…なんか、大きな声が聞こえたから。気になって、一度様子を見に行ったんだ」
「…ジャックもか?」
「ええ。でも、私達が聞いたのは、アンリと誰かが喧嘩してるようなとこだけだったから、具体的に二人がどんな話をしていたのかは知らないわ。
先客にさっさと追い返されちゃったしね」
「先客?」
ジャックの意味深な言葉にアンリが眉を寄せると、再びマナが説明した。
「シャオのことだよ。
ボク達が廊下に出ると、先にシャオがアンリの部屋の前で立ってたんだ。
そこに、後からボクとジャックも加わって、その…。ちょっとだけ、様子を聞かせてもらった。
でも、ほんとにちょっとだけだから、全部は聞いてないよ?後は自分に任せてって、途中でシャオに追い払われちゃったし…」
ね?とマナが同意を求めて見上げると、ジャックは頷いてシャオの方に目をやった。
先程持っていったチョコレートのもう一つはジュリアンの分だったようで、シャオはチョコレートを片手にジュリアンのマスクを外そうと詰め寄っていた。
食べさせてやろうとしているのか、しかしジュリアンが全力でマスクを脱ぐことを拒否しているため、先程から二人は子供のように取っ組み合っている。
マナとジャックの話によると、全員昨夜の件については承知していたのだという。
クリシュナが激昂した際に大声を出したり、アンリと争った拍子にバタバタと物音が立ったせいで、部屋で眠っていたマナ達も途中で目が覚めてしまったそうだ。
そして、一体何事かと二人が廊下に出てみると、アンリの部屋の前には一足先にシャオの姿があった。
彼はクリシュナがやって来て間もない頃からその気配に気付いていたらしく、以降は中にいるアンリ達に感付かれないよう密かに様子を窺っていたのだった。
後に合流したマナやジャックもこっそりアンリ達の話を盗み聞きしたそうだが、後は自分が見張っているからとシャオに促されて、すぐにそれぞれの部屋に戻されてしまったとのこと。
相変わらずいつもの調子で飄々としているシャオだが、実はクリシュナがアンリに害を加えたりしないか、ずっと影から見守っていたのである。
そんなこととは露知らず、正直に打ち明けるべきか否か悩んでいたアンリは、シャオには最初から全て見抜かれていたと知ってうなだれた。




