Episode28-5:扉の向こうにあるもの
ちなみに。本体のコンピュータが定期的に点灯させている小さな光は、催眠状態にある患者の心拍数を逐一計測して発信しているものである。
ブルーがとても落ち着いている状態で、グリーンが可もなく不可もなくの平均的な状態。
そして、今はまだ確認されていないが、イエローがやや乱れている、レッドが危険な状態を表す。
最後に、レッドの点滅が直ちに催眠を中止しなければならない、患者の健康に深刻な影響を及ぼす可能性があることを意味する。
つまり、黄色のランプが点灯し始めたら、以降はいつ催眠を中断してもいいようにセラピスト側も配慮が必要になるということだ。
アンリは、キオラが最初に思い出した記憶がなんてことはない日常のワンシーンであったことに一度は安堵したものの、彼女が今いる場所が例のゴーシャークの本拠であるということが心配でならなかった。
「じゃあ、少し時間を進めてみましょうか。
黄色のネクタイをした彼と一緒に語学の勉強をして、その後君はなにをした?」
「……部屋の中に、もう一人違う男の人が入ってきて…。
私はその人に連れられて、どこか別の場所に向かっていきました」
「君達の勉強が終わったのを見て、他の人が君を部屋まで呼びにきたんだね。
その男の人は、どんな見た目をしてる?君は彼に連れられて、どこに向かっているのかな」
今まさに男に連れられて移動している最中なのか、キオラの足が時折ぴくりと動いた。
先程まで落ち着いていた呼吸も、僅かに浅くなり始めている。
そして、ヘイズの問いにしばらく考え込んだキオラは、恐る恐るといった様子で再び口を開いた。
「……その人は、さっきの人と同じように、白衣を着ていて…。胸に、国家の紋章が刻まれた、赤いバッジを付けてます。
ブロンドの髪に、シルバーの瞳の…。眼鏡をかけた、背の高い白人男性、です。
年齢は、さっきの人より少し上、くらい。
私は、その人に手を引かれて、研究所の廊下を真っ直ぐに進んでいって……。それで、奥の突き当たりに、曲がり角が、あって…」
当日の語学の授業を済ませたキオラは、部屋まで呼びに来たというある男に連れ出され、研究所の中を黙々と歩いていった。
道中は男に手を引かれていたようで、同行を拒否するという選択肢は最初からなかったらしい。
それから、キオラが曲がり角というワードを口にした直後。
本体のコンピュータがピーと短い電子音を鳴らして、ランプをグリーンからイエローに変更させた。
キオラの精神状態が要注意の段階に入ったサインだ。
続けて、新しい数字と英単語が印刷された紙が、タイプライターからゆっくりと出てきた。
"62"
"UNEASINESS"(不安)
"COLD SWEAT"(冷や汗)
この場合、前者の不安は彼女の心境を表し、後者の冷や汗は、当時の彼女が体に冷や汗をかいていることを自覚していたという意味を示している。
ランプが要注意カラーに点灯したことといい、この先はキオラにとって穏やかでない展開が待っているようだ。
ヘイズは、たった今変更されたサインカラーと言語化された心境を横目でチェックし、キオラ自身の変化と併せて観察しながら、一先ず様子を窺うことにした。
「曲がり角の向こうには、なにがある?」
「………扉。大きな扉がある。
"CRYSTAL ZONE"、と書いてある、扉です」
いつの間にか、キオラの唇からは血の気が引いていた。
微かに汗ばんだ白い首も、音を立てて生唾を飲み込んでいる。
そこへすかさずヘイズがフォローを入れ、アンリもキオラの耳元で力強く声をかけた。
「……よし。じゃあそのまま、ゆっくり先に進んでみよう。
これ以上は無理だと思ったら、すぐに言うんだよ。いつでも中断してやれるから、心配することはない。
いいかい、君には僕達が付いてる。君は一人じゃないからね。落ち着いて」
「そうだキオラ。俺達が側にいるからな。大丈夫」
クリスタルゾーン。結晶部。
この時点ではまだ断言することができないが、プロジェクトの内容を把握しているアンリ達には、その扉の向こうにあるものの正体に概ね見当がついていた。
装置に隠れているため表情は見えないものの、キオラがその扉に対して恐怖を抱いていることは、徐々に浅くなっていく呼吸が如実に物語っている。
「……分かりました。先に、進みます」
アンリ達の励ましに二回頷いたキオラは、もう一度深呼吸をして気持ちを整えると、扉の先に進む決意をした。
「扉を開けて、中に入りました」
「内部の様子はどんな感じ?」
「……さっきまでと同じ、真っ白な空間が広がっていて…。長い廊下が続いてます。
廊下の左右にはいくつか部屋があって…。私と彼は、向かって右手にある、手前から二番目の部屋に入りました」
「その部屋に名前はあるかな?会議室とか、応接室とか」
「………プレ、コ…。
"PRECOCIAL ROOM"、と書いてあります」
キオラのその言葉を聞いて、アンリの肩がぴくりと揺れた。
プレコーシャルルーム。早成室。
そのキーワードに覚えのある一行は、思わず息を呑んで各々キオラの動向に目を見張った。
「部屋の中に入って、君はどうしてる?君を連れて来た男の人は、なにか言っているかい?」
「……中は結構広い、ですけど…。カーテンで仕切られたトイレくらいしか、なくて。他にはなにも見当たらないです。
……彼は私に、ここにいろ、と言ってます。後で迎えに来るから、少しの間ここで待って…、っ」
ここまで案内をした眼鏡の男に言われ、キオラは早成室という部屋の中に置き去りにされてしまったらしい。
詳しい訳は明かしてもらえなかったのか、男は一方的にまた後でと告げると、自分だけさっさと出て行ってしまったようだ。
部屋の中に一人取り残されたキオラ。
室内にはカーテンで仕切られただけのトイレが一つ設置されているだけで、他に家具や機材などは一切置かれていないという。
ただひたすらに、真っ白な空間が四角く広がっているだけだと。
ところが。
今まで抑揚なく話していたキオラが、途中ぐっと息を詰まらせて、そのまま口をつぐんでしまった。
なんだか息苦しそうな様子で、生理的に奥歯を噛み締めている。
現在の数値は76。
サインの方はまだイエローの段階で留まっているが、今のキオラの精神はかなり不安定な状態にある。
どうやら、部屋の中で予期せぬ事態が発生したようだ。
「キオラちゃん?どうした?なにがあった?」
「…っ閉じ込められました。
部屋の中の電気が消えて、なにも見えません。扉が開かない。
……いやだ。ここにいたくない。ドクター、」
「先生!」
キオラの急変を見て、焦ったアンリがヘイズの方に振り返りながら叫んだ。
しかしヘイズは尚も落ち着いた調子で、マイクに向かって冷静に話し掛けた。
「わかった。大丈夫落ち着いて。
今から僕が合図をしたら、君は目を覚ますよ。
静かに呼吸をして。いくよ。3、2、1…」
余程怖い思いをしたのか、六歳の当時と同調しているキオラは、ぐっと全身を強張らせてしきりに首を横に振った。
アンリの手を握る指も小刻みに震えていて、氷のように冷たくなっている。
アンリは、そんなキオラの様子を見て、昨日ウォレスが語ってくれた話の中のあるエピソードのことをとっさに思い出した。
早成と呼ばれる簡素な部屋。
中に一人置き去りにされるキオラ。
そのまま閉じ込められて、突然真っ暗闇に包まれる室内。
ここまで聞けば、ある程度の事情を知るアンリ達には、当時のキオラの身になにがあったのかすぐに推察できた。
恐らく、記憶の中の彼女は今、早成隊の采配による拷問を受けている。
暗闇の密室に閉じ込め、しばらくの間飲まず食わずの状態で放置するという例の実験が、今まさに開始されたというわけだ。
キオラ自身はその事態をすぐには飲み込めなかったようだが、自分が今ただならぬ状況に置かれていることだけは瞬時に理解したらしい。
だが、キオラが部屋から出してもらえるのは、結果として実験が終了した後のことだ。
彼女が精神的に追い込まれるまで、この状況は決して覆らない。
間もなく、サインカラーがイエローからレッドに変更され、先程よりも大きな電子音がビーッと周囲に響き渡った。
現在の数値は80。危険な状態だ。
"DARKNESS"(暗闇)
"SCARED"(怖い)
"HELP"(助けて)
キオラの切羽詰まった心境が、雪崩のように連続して吐き出される。
レッドサイン、つまりは精神的危険領域に突入すると、印刷されるキーワードも赤いインクに自動変更される仕様になっているので、数値も英単語も全て赤文字で表記されている。
それが一層アンリの不安を煽り、無意識にキオラの手を握る指に力が入った。
ヘイズは、狼狽えるキオラとアンリを優しく宥めると、先程と同じようにカウントを告げて、再びマイクに向かって指を弾いた。
今度は催眠状態に誘導するためではなく、逆に意識を浮上させるために合図したのだが、ヘイズのフィンガースナップの音が響いた直後に、キオラははっと目を覚ました。
覚醒と同時に勢いよく空気を吐き出した彼女は、手足をびくりと麻痺させると、ぜえぜえと胸を上下させた。
「大丈夫かい、キオラちゃん。僕の声はちゃんと聞こえるかな」
朦朧とする意識の中、まるで水中から耳を傾けるように、キオラにはヘイズの声がくぐもって聞こえていた。
荒い呼吸を繰り返しながら、キオラがか細い声で大丈夫ですと答えると、それをアンリが代わってヘイズに伝えた。
「……じゃあ、少し休憩しようか。
電源はつけたままで大丈夫だから、焦らずにゆっくり、装置を脱いでごらん。
それと、アンリさん。突然刺激を受けると体がびっくりしてしまうから、装置を外す時、少しの間キオラさんの目を覆ってやってくれますか。視覚が光に慣れるまで」
「わかりました」
アンリとキオラに指示を出すと、ヘイズは一度インカムを取り外して、これまでの経過をカルテに書き始めた。
難しい顔をしながら、すらすらと紙にペンを走らせている。
「……いいか?キオラ。脱がせるよ」
「うん………」
キオラとアンリは二人がかりで、キオラの体勢を横にしたまま装置を取り外していった。
ゴーグルが外れる瞬間には、アンリが右手でキオラの目元を覆ってやった。
おかげで、キオラが眩しさに顔を歪めることもなかった。
アンリの大きな掌に、自分の両目が優しく包まれる感触。
その心地好い感覚にキオラはほっと安堵の溜め息を吐き、アンリもキオラの無事な姿を見て胸を撫で下ろした。
微かに汗ばんだ首筋。
先程よりも上昇した体温と、赤らんだ頬。荒い吐息。
今のキオラの状態は、風邪を引いて発熱した時と似た感じだった。
どうやら、たった一度の退行催眠でも酷く体力を消耗したようだ。
催眠にかかっていたのは精々15分程度の短い時間だったのだが、辛い記憶の追体験というのはそれほどに当事者の体に負担をかけるものらしい。
「……平熱よりは少し高い、かな」
アンリは、汗で額に張り付いたキオラの前髪を、左手の指先で梳いてやるついでに体温を測った。
厳密な数値は割り出せないが、アンリの体感では平熱の彼女よりやや火照っているように感じられた。
「邪魔してごめん。ちょっといいかな」
すると、二人の側におもむろにマナとジャックが近付いてきた。
マナ達の腕に抱えられているのは、冷水に浸したタオルとそうでない渇いたタオル、それからコップ一杯の常温の水だった。
これは、催眠中断の頃合いを見計らっていたヨダカが一足先に準備していたものだった。
マナとジャックにキオラの世話を頼んだヨダカは、代わりにヘイズへホットのコーヒーを差し入れてやっている。




