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オルクス  作者: 和達譲
Side:A
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Episode28-4:扉の向こうにあるもの




一方、ヘイズと交代するように席を立ったアンリは、キオラのすぐ傍でひざまずくと、彼女の冷たい手をそっと握ってやった。



「………アンリ」



朦朧とする意識の中でも不安そうに眉を下げるキオラが、助けを求めるような目付きでアンリの顔を見上げる。

その声は微かに震えていて、とても心細そうな様子だ。


アンリは、そんな弱々しい彼女の頬をもう一方の手で優しく撫でてやりながら、勇気付けるように力強く頷いた。



「君は一人じゃないよ、キオラ。みんな付いてる。俺が側にいる。

ずっと、こうして手を握っているからな」


「……うん」



握り締めた手にきゅっと力を入れると、キオラもそれに応えるようにアンリの手を握り返した。

キオラの冷たい掌が、アンリの体温を受け取って徐々に温かくなっていく。



「アンリ。なにが、あっても、側にいてくれる?」



キオラの目に、ふっと感情的に揺れる涙が滲んだ。

切なげに掠れた声は、一言喋るだけでも精一杯といった感じだ。



「当たり前だ。言っただろ。君がどこかへ飛んでいってしまわないように、ずっと俺が捕まえているって。

なにがあっても、俺はキオラの全部を受け止めるよ」



本当なら、もっと言いたいことが、聞きたいことがあるはずなのだ。


前もってある程度の覚悟を決めてきたアンリと違い、キオラが自身の秘密に一歩踏み込んだのは、今朝が初めてのこと。


一体自分は何者なのか。自分の過去にはなにが封じられているのか。

先の全く見えない暗闇に、想像もつかない恐怖に、彼女は今にも不安で胸が潰れてしまいそうな気持ちでいるに違いない。


故に、こんな風に素直に弱音を吐露するのは、キオラにしてはとても珍しいことであり、側にいてほしいなどというお願いも平素であれば滅多に口にしない台詞だった。

だからこそアンリは、いつになく弱気でいるキオラの姿を見て、彼女の不安が自分にも移ってしまわないようにと気丈を振る舞った。



「……そろそろ始めようかと思うんだけど、どうかな。

心の準備はできたかい?」



アンリとキオラの様子を窺っていたヘイズが、落ち着いたトーンでキオラに声をかけた。



「…はい。大丈夫です。次の指示を、お願いします」


「よし。じゃあ、装置に取り付けてあるゴーグルを目元に当てて、ゆっくり目を閉じて」



ヘイズに指示された通り、ヘルメットに取り付けてあるゴーグルを装着すると、たちまちキオラの視界に真っ暗な世界が広がった。


これは、今彼女が装着したゴーグルに遮光の塗装が施されているためである。

これを着用している間は、瞼を開いても閉じてもなにも見えない仕様になるというわけだ。


視覚という五感の一つを封じた状態でなら、より聴覚が鋭敏になって、ヘイズの声に意識を集中させやすくなる。

つまり、催眠にかかりやすい状態にするために、あえて視界を黒くする必要があるのだ。



できました、とキオラが短く返事をすると、ヘイズの方も必要な準備に取り掛かり、小型のインカムを身に付けてソファーに座り直した。



「準備できたね?装置の付け心地に違和感はないかな」


「いいえ、大丈夫です。

ドクターの声もよく聞こえます」



ヘイズがインカムのマイクを口元に寄せて話し掛けると、装置に取り付けてあるスピーカーが連動して、装置の内部にヘイズの声が響き渡った。

それはまるで、対象者のキオラの脳に直接語りかけているようだった。


今のキオラの耳には、インカムを通したヘイズの声と、すぐ側にいるアンリの声が辛うじて聞き取れるだけで、他の雑音は殆ど入ってこない。



「オーケー。機能は全て正常に働いているようだね。

じゃあ、始めます。ゆっくりと深呼吸をして、リラックスして」



これで、全ての準備が整った。


ヘイズの穏やかな声を耳にしながら、キオラは自分で自分に言い聞かせるように出来るだけゆっくりと深呼吸をした。

少しでも気を緩めると、すぐに睡魔に負けて眠ってしまいそうになるので、呼吸は鎮めながらも意識を集中させる。


"お願いします"

そして、意を決したキオラの低い声が響くと、立ち会う全員がいよいよかと身構えた。

僅かに緊迫し始めた空気の中、アンリも改めて気を引き締め直し、キオラの左手を両手でしっかりと握った。



「君の名前はキオラ。キオラ・シャムシュロヴァ・グレーヴィッチだ。

君が生まれたのは、なんていう名前の街かな?」


「…ヴィノクロフにある、エリシナという港街です」


「そうだね。

君は、エリシナのどんなところが好き?」


「……静かで、街並みが美しいところ。

あと、住んでいる人達がみんな、親切で…。争いが少ない、ところ」


「いいですね。僕もあの街が好きですよ」



まずはキオラの緊張を解すため、ヘイズはなんてことはない普通の質問から投げかけてみることにした。


すると、キオラがヘイズの質問に答えたのとほぼ同時に、二号の本体が反応してグリーンのランプを点灯させた。

それから間もなく、キーボードが弾かれる音と共に、タイプライターから一枚の紙が出てきた。

その紙には、39という数字が印刷されていた。


これは、現在のキオラの精神状態を数値化したものである。

10~30は睡眠時の無意識状態を表し、30~40は催眠状態、平たく言うと意識が沈む寸前の状態であることを意味している。


つまり今のキオラは、彼女にとって最も退行催眠に適した状態。

とても眠いがどうにか意識を保っているという、絶妙なバランスを維持した状態にあるということだ。


滑り出しは上々。二号もいつも通りスムーズに機能しているし、今のところはキオラ自身も落ち着いて受け答えができている。



ヘイズは、よりキオラと親密な対話をするため、いつもの敬語と幼子に聞かせるような砕けた口調とを混ぜた話し方で、尚も穏やかに質問を続けた。



「君はヴィノクロフのエリシナで生まれ育ち、色々な人と出会って、やがて大人になった。

今日に至るまで、君の身にはたくさんの出来事があって、たくさんの経験をしてきたね。

じゃあ、その"たくさん"が、君の心にどんな思いを残してきたのか、今から順に遡ってみようか」



ヘイズの声はちゃんと聞こえているものの、神経を研ぎ澄ませている真っ最中のキオラは、その確認の言葉には返事をしなかった。



「今から僕がカウントしたら、君は六歳の女の子になっているよ。君が生まれてから、六回目の誕生日を迎えた後のことだ。

さあ、ゆっくり息を吸って、吐いて。

いくよ、3、2、1…」



軽いストレッチを済ませて、いよいよここから本格的な退行催眠に入る。

最初に遡るのは、まずキオラが六歳だった頃の記憶だ。


集中しているキオラに悟られないよう、ヘイズは静かな動作で左手を構えると、最後のカウントを告げた瞬間にマイクに向かって指を弾いた。


直後、スピーカー越しにヘイズのフィンガースナップの音がキオラの耳に響いた。

そのパチンと弾けた音を合図に、キオラの意識は少しずつ深い記憶の海へと沈んでいった。



水中でたゆたうような、ふわふわとした感覚がキオラの全身を包む。

穏やかな波に揺られているような感じで、しかし息苦しさは感じない。

自由に呼吸ができ、熱さも冷たさも、苦痛はなにも感じない。


それはまるで、ゆりかごの上でうとうととまどろむ、赤子になったような気分でもあった。



「こんにちは、六歳のキオラちゃん。僕の名前はヘイズといいます。

今、君の目にはなにが見えるかな?」



合図をした直後のキオラの精神状態は32。ランプのカラーはブルー。

どうやら、問題なく催眠状態に入ったようだ。


ヘイズの言葉に導かれるようにして、徐々にキオラの視界に光と色が滲んでいく。


キオラの目は暗闇の中で閉ざされているので、今彼女が見ているのは眼球を通して映った景色ではない。

キオラの脳の奥深くで蓋をされていた記憶が、湯気が立ち上るようにして少しずつ蘇っているのだ。

火で炙ると文字が浮き出るインクのように。


やがて、キオラの頭の中が白い光で一杯になると、次にある光景が彼女の中に降りてきた。

瞼の裏で朧げに映し出されるその光景に、キオラは目が回りそうになって、反射的にアンリの手を強く握り締めた。



「病院…。いや、研究、所…。白くて大きな、研究所の中に、います」


「その研究所はなんて名前かな?」


「……ゴー、シャーク。ゴーシャーク、研究所。

キングスコートに、ある、フェリックス先生が管理する、研究所です」



とつとつと答えるキオラの言葉に、アンリ一行の全員が反応する。


ゴーシャーク。

つい昨日耳にしたばかりの生々しいワードに、アンリは無意識に眉を潜めた。


FIRE BIRDプロジェクトの存在を知らないヨダカとヘイズはなんのことだか分かっていない様子だが、どうやらゴーシャークという名称は単に組織の名前ではなく、ゴーシャークが在籍する研究所そのものを表していたらしい。



「そのゴーシャーク研究所、の中で、君はなにをしているのかな?周りには他に誰かいる?」


「……います。物の少ない、狭い部屋の中に、いて…。若い男の人が、目の前に座ってる。

私は、その人に教わりながら、語学の勉強、を、しています」


「男の人はどんな見た目をしているか、答えられる範囲で説明してみてくれるかい?」


「……白人で、ブルネットの短髪に、グレーの瞳をしてます。

白衣を着ていて、小柄な体格で…。黄色のネクタイをしてる」


「なるほど。よく見えていますね。その調子です」



本人の説明によると、六歳の当時に遡っている彼女は、研究所のどこかで語学の教育を受けている真っ最中らしい。


具体的な日時は指定していないのにも関わらず、六歳の頃の自分と聞いて真っ先にその場面を思い出したということは、この日この時に体験した出来事が彼女にとって特に印象深い記憶であるということだ。

加えて、一緒にいる相手のネクタイの色まではっきりと覚えているのは、彼女の催眠効果がよく現れている証拠でもある。



すると、装置に連動した二号本体がなにやら反応を見せた。

先程タイプライターから出てきた紙が、レシートのように連続して出てきたのだ。

どうやら小さな紙にその都度印刷するのではなく、一枚の長い紙に重ねて印刷していく仕組みのようだ。


新しく印刷された文字は、変わらずキオラの精神状態を数値化した37という数字と、NERVOUSという英単語だった。

ちなみに数字の方は黒いインクで、英単語の方は深緑のインクで表記されている。



この新たに現れた英単語こそ、ヨダカくん二号の最も特筆すべき利点。

患者が現在進行形で追体験している記憶の中で、その当時最も強く感じていた感情や思考を言語化するという機能だ。


つまりこの場合、男と部屋に二人きりで語学の勉強に勤しんでいたという六歳のキオラが、その状態にあったということ。


授業の内容が難しかったのか、それとも大人の男性と密室に二人きりというシチュエーションが苦手だったのか。

詳しい背景はわからないが、当時の彼女はとにかく緊張していたということだ。



本人が口で説明するまでもなく、脳波から直接信号をキャッチして言語化したものなので、誤った情報はほぼゼロといっていい。


先程のヘイズの説明にもあった記憶の混濁を防ぐというメリットは、患者自身が追体験によって得た経験を、自分の頭で考えて説明する必要がないことに起因する。

受け答えの際に順序よく話をしようとすると却って脳に混乱を招く可能性があるため、本能で感じたことをストレートに表現してもらった方が確実というわけだ。


現在はまだ試作品の段階なので、精々短い英単語を並べる程度の表現力しか備えていないものの、二号の実力が優れているのは確かである。



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