Episode28-2:扉の向こうにあるもの
その後、ヨダカとキオラはシャオ達にも挨拶をすると、先程まで座っていたソファーに再び腰を下ろした。
スタッフルームの中は、診療所の外観と同じく白い壁紙が張り巡らされており、部屋の中央には大きめのソファーが二つ設置されている。
奥の方には食事をとるためのスペースも設けられていて、ガラスのテーブル席には椅子が四つと、壁際に観葉植物がいくつか飾られている。
スタッフルームから更に続く二つの扉を抜ければ、社員用の仮眠室と機材室に出入りすることができる。
もし社員の誰かが体調を崩したりした場合には、すぐにその仮眠室で休ませることが可能だ。
アンリとヘイズは、キオラの向かいにあるもう一方のソファーに腰掛けた。
シャオ達は奥のテーブル席からそれぞれ椅子を持ってくると、ソファーの側に付けて着席した。
シャオとマナはアンリの側に、ジャックとジュリアンはアンリの隣に座っているヘイズの側に椅子を配置。
ヨダカは、キオラの隣で車椅子を停めて一同の動向を見守ることにした。
「じゃあ、キオラ。
昨夜、君の身になにがあったのか、何故俺達がここに呼び付けられたのか、詳しい訳を話してくれるか?」
全員が着席したのを確認してから、アンリは少し身を乗り出してキオラに尋ねた。
昨夜別荘で起きた出来事を知っているシャオは、訝しげにじっとりと目を細めて、両端にいるアンリとキオラを交互に見遣った。
シャオの隣では、マナが心配そうな顔で大人しく椅子に座っている。
ジャックは足を組んで、ジュリアンは出来るだけ幅を取らないよう体を縮めてじっとしている。
するとキオラは、おもむろに上着のポケットに手を入れると、中から一通の封筒を取り出した。
「……今朝、自室で目を覚ますと、デスクの上にこれがあった。
差出人の名前はなし。配達された記録も、住所もなにも書かれていなかったから、誰かが私の部屋に直接、これを置いていったことになる。
…昨夜まではこんなものなかったはずだし、だったら、私が眠っている間に、両親がこっそり置いていったものなのかなと思って、とりあえず中身を確認してみることにした、んだけど……」
自分でもまだ半信半疑でいるのか、キオラは躊躇いながらとつとつと語った。
「…それで、その手紙は誰からだったんだ?」
「………もう一人の自分から、だった」
アンリからの問いに、キオラは怖ず怖ずと答えた。
その驚きの回答に、既に事情を把握しているヨダカとヘイズ以外の全員が目を丸めた。
「最初は、父さんか母さんが、私を驚かせるために仕掛けた悪戯かもと、思ったんだけど…。
でも、手紙を読み進めていく内に、これは冗談じゃなくて、本当のことかもしれないって、段々不安になってきて。
…最後には、もう一人の自分っていうのが確かに存在していて、この手紙が、私じゃない方の私が、私に宛てたものなんだって、納得せざるをえなかった」
今朝、自室のベッドで目を覚ましたキオラは、ふとデスクの上に見覚えのないものが置かれてあることに気付いた。
それは、今彼女が手にしている白い封筒。謎の手紙だった。
差出人は不明。一体誰がなんの目的で、そしていつの間にこんなものを用意したのか。
キオラに思い当たる節は全くなかった。
昨夜就寝するまでは、自分の部屋のどこにもこんな封筒はなかったはず。
それも、引き出しの中など目につきにくい場所ではなく、堂々とデスクの上に放置されていたのだから、それまでは偶然見落としていただけとも思えなかった。
となると、考えられる理由は一つ。
自分が眠っている間に、同居している両親がこっそり持ち込んで置いていったものなのではないか。
部屋に出入りできる人間は限られているし、それも皆が寝静まった深夜に行われたことだというなら、やはり犯人は両親以外には有り得なかった。
あの温厚な二人が、こんな奇天烈な悪戯を仕掛けてくるとはかなり意外だが、だとすれば自分を驚かそうとしてなにかサプライズを計画しているのかもしれない。
そう思い、キオラは不思議に首を傾げながらも、とりあえず中身を確認してみることにした。
そして、手紙を開封した彼女が目にしたのは、俄かには信じられない話だった。
驚くことに、この手紙を書いた差出人はもう一人の自分だというのだ。
その人は、解釈の混乱を避けるためにクリシュナという別名を名乗り、自分はキオラから生まれたもう一人のキオラなのだと説明した。
後に枝分かれした人格のクリシュナがキオラのコピーだとするなら、たった今これを読んでいる方の女性のキオラは、言ってしまえばオリジナルの人格であると。
クリシュナ曰く、彼の性自認は男性。
オリジナルのキオラはクリシュナの存在を認知していないが、逆にクリシュナはオリジナルをよく知っていて、随分前から彼女の影の中に潜むように共存していたという。
まるで、よく出来た台本のようなクリシュナの話に、キオラは何度も否定的に思考を巡らせた。
だって、同じ体を共有して、もう一人の自分が自分宛てに手紙を残すだなんて。
そんなファンタジーのようなことが、実際に現実でも起こりうるのだろうかと。
やはり信じられなかったし、認めてしまうのには抵抗もあった。
そんな馬鹿なと、下手な芝居でも観劇している気分で、どうしても人事のような気がして真摯に受け止められなかった。
しかし、クリシュナが自らの存在を証明するために、いくつか関連のエピソードを明かしてきたため、キオラの疑念も徐々に打ち砕かれていった。
キオラがいつも、朝起きて一番に、気持ちを落ち着かせるために三度深呼吸をしていること。
先日仕事関係で伺った家で、近々二人目の赤ちゃんが生まれる予定なのだと世間話を聞いたこと。
アルバイト先の花屋で、客に花束のアレンジを頼まれた時、どの花をどの順番に加工して、何故その花を選ぼうと思い立ったのか。
昼時に何気なく立ち寄ったパン屋で、最初はアップルパイを食べようかと考えていたのに、最後には野菜のキッシュを買って行ったのは何故か。
それらは全て、まさしくキオラ自身が今までに経験してきた出来事だった。
他人には決して読み取ることのできない、その時々に感じていた気持ちや思考までもが丁寧に表現されていたのだ。
本当に彼は、自分のことをなにもかも知っている。
あの日あの時の自分がどこでなにをしていたのか、なにを考えていたのか、余すところなく全て。
手紙を読み進めていく内に、まるで自分が書き残した手記でも見ているような気分になって、でも自分にこれを書いた記憶はなくて。
キオラは自分で自分が信じられなかった。
だが、言い知れぬ恐ろしさを感じると共に、漠然と理解もした。
恐らく彼、クリシュナの言っていることは全て事実で、自分の中にはもう一つ別の人格が確立しているのだと。
ここで初めて、キオラは自分が解離性同一性障害、所謂多重人格者であることを自覚し、これまで度々見舞われてきた記憶の欠落症状が、この人格交代による影響であることを知ったのである。
キオラから手渡された手紙の封を開け、アンリも中身を確認すると、側にいたシャオも椅子を寄せて覗き込んできた。
"もう一人のキオラへ"
冗談のような書き出しから始まったその手紙は、キオラによく似た筆跡で、しかしキオラとは違った文体で綴られていた。
興味深そうに唸るシャオの横で、アンリは手紙に目を通しながら昨夜の出来事を思い出した。
当時は、クリシュナが去り際に残していった言葉の真意がよくわからなかったが、今なら彼がなにを考えていたのか推察できる。
クリシュナは、翌朝自分からのメッセージを受けたキオラが、必ずアンリにSOSを求めるはずだと確信していた。
だからあんな言い方をしたのだ。
ただ、彼女の言葉を信じればいいと。
クリシュナにけしかけられたキオラが、自分の意思で次にどう行動するのか。
キオラの性格をよく知るクリシュナだからこそ、それが手に取るようにわかっていたのである。
「それで、手紙の最後に、全ての真実が知りたいのなら、ヘイズ先生に会いに行くようにって、書いてあって…。
その時は、アンリにも立ち会ってもらうといいって、指示されたんだ。さっき言った彼に」
「……なるほど。だから集合場所がダヴェンポート診療所だったのか」
クリシュナからの手紙に最後まで目を通したアンリは、便箋を封に納めてキオラに返した。
手紙を返されたキオラは、先程と同じように上着のポケットに仕舞うと、気持ちを落ち着かせるように一つ溜め息を吐いた。
クリシュナが、真実を知るためにはヘイズ・ダヴェンポートと接触するようにと、キオラに指示を出した理由。
それは、ヘイズが優秀な精神科医であることに他ならない。
同時に退行催眠のセラピストでもあるヘイズならば、キオラの心と頭の奥底にある、意図的に封じられた記憶も引き出すことができるというわけだ。
もっとも、過去の出来事を追体験するということは、恐らくこれまでの地獄の日々をキオラに反芻させるということでもある。
下手をすれば、急に記憶が戻ることで、キオラの心は今度こそ修復不可能なほどに壊れてしまうかもしれない。
キオラの身を案じるならば、はっきり言ってあまり安全とは言えない手段だ。
しかし、クリシュナはその全てを踏まえた上で、リスクを承知でこの手段に賭けることにしたのだ。
ただ手紙に経緯を書き記すだけでは、キオラの感情までもを取り戻すことはできないから。
オリジナルのキオラが自分の中の欠けたものを思い出すためには、本当の自分と向き合うためには、やはり失った記憶を復元する他にないから。
すると、アンリとキオラの様子を窺いながら、ヘイズがタイミングを見て席を立った。
無言のまま奥の機材室の方へと消えていくと、中でなにかを物色するような物音を響かせた。
しばらくして再びスタッフルームに戻ってきた彼は、なにやら大きな機械を乗せた台車を押して、アンリの座るソファーの横に付けた。




