Episode28:扉の向こうにあるもの
11月12日。PM16:48。
クリシュナの奇襲ともいえる来訪から一夜が明け、シグリムの空は再び穏やかな雪模様となっていた。
しかし、先日の一過性だった初雪と違い、今度の雪は荒れることはないものの、しんしんと絶えず降り続いている。
この調子だと、降雪は明日以降も連続し、そのまま本格的な冬を迎えることになるだろう。
そして、今から数時間前の昼下がり。
昨夜クリシュナが予告していった通り、アンリの携帯にキオラから連絡があった。
"大まかな訳を聞きました"。
"詳しい話は直接会ってしたいので、そちらの都合がつく時間にベシュカレフで落ち合いましょう"。
電話ではなく、淡々と事務的なメールが一件。
それも、平素の彼女とはまるで別人のように、挨拶や他愛のない世間話は一切割愛されていた。
いつもの彼女であれば、純粋にアンリとのやり取りが嬉しい様子で、一件一件にアンリを思いやる言葉や気持ちを綴っていた。
なのに今回は、本当にただ用件を伝えるためのメッセージが送られてきた。
それは、今の彼女が切迫した状況下に置かれていることを如実に表していた。
たった一言の挨拶も忘れてしまうほど、今のキオラには精神的なゆとりがないのかもしれない。
彼女の身を案じたアンリは、出来るだけ早くにそちらへ向かうと返信をすると、速やかにメンバーを集めて行動に移した。
ヴィノクロフ州、ベシュカレフ。
キオラが生まれ育ったエリシナの隣にある、小さな街。
ヴィノクロフで最も大きなエリシナと比べるとやや活気は薄いものの、この街にはそれ以上に特筆すべき点が二つある。
一つは、弱者に優しくをモットーとしたヴィノクロフの中でも、特に社会福祉に力を入れたエリアであるということ。
街並みの全てにバリアフリーが施されているため、高齢者や障害者らにも過ごしやすい環境が整えられている。
加えてここは、現ヴィノクロフ州主席、ヨダカ・ヴィノクロフが住んでいる街でもあるのだ。
故に、エリシナと比べて劣っている点は殆どない。
強いて言うなら、前述にもある通りエリシナよりやや華やかさに欠けるということくらいだろう。
その後アンリ一行は、キオラからの連絡を受けてすぐに別荘を発つと、宿を提供してくれたエヒトに挨拶をしてからベシュカレフへ直行した。
キオラからメールで指定された待ち合わせ場所は、ベシュカレフの繁華街から少し外れた精神科の医院。ダヴェンポート診療所だった。
この診療所とアンリの間には接点がないが、キオラにとっては馴染みの場所であるらしく、ここに勤める医師や看護師らと旧知の仲であるとのことだった。
そして、目的のダヴェンポート診療所に到着したアンリ達は、キオラの携帯にその旨を連絡して、軒先で彼女からの反応を待った。
ところが、数分経って診療所の中から現れたのは、キオラではなく一人の若い男だった。
「───ああ、いらっしゃいましたね。
お待ちしていましたよ、アンリさん。それからお連れの皆さん方」
軽く手を挙げながらこちらへ歩み寄ってきた男は、清潔な白衣を身に纏っていた。
アンリは、予想外の人物に内心驚きつつ、深く頭を下げて挨拶した。
「どうも。アンリ・ハシェと申します。
ご多忙の中、無理を言って時間を作ってもらったそうで、ありがとうございます。
……それで、キオラは今どちらに?」
「彼女なら中にいますよ。先程訳を伺いましたので、人払いも既に済ませてあります。
無関係の人間は立ち入れないように配慮しましたので、安心してお入りください」
アンリからの挨拶と握手に丁寧に応え、穏やかな喋り方をする彼の名は、ヘイズ・ダヴェンポート。
ここダヴェンポート診療所を立ち上げた張本人であり、街でも評判の精神科医だ。
緩くうねった癖毛の茶髪に、色素の薄い水色の瞳。
レンズの分厚い丸眼鏡をかけ、シャツの裾をきっちりとズボンの中に仕舞ったその姿は、見るからに真面目で勤勉な好青年といった感じだった。
が、若々しい風貌の割に実年齢は36歳と、それほど若いわけではないらしい。
ジュリアンと変わらないほどの長身でありながら、やけに小ぢんまりとした印象であるのは、彼の体格が細身で酷い猫背だからである。
ヘイズは、人の良さそうな柔らかい笑みを浮かべて会釈すると、辺りに野次馬がいないかを再度確認してから、アンリ達を連れて診療所へと入った。
曰く、他ならぬキオラのためならばと、急なお願いであったにも関わらず診療所の方は臨時休業にしてくれたらしい。
なので、アンリ達の密会に途中で邪魔が入る心配はないとのこと。
せかせかと早足で診療所の中を進んで行くヘイズに、アンリ達も脇目も振らずに付いて行く。
やがて、奥にあるスタッフルームの前で足を止めたヘイズは、ここですと短く告げてアンリの方を振り返った。
ゆっくりと扉が開かれる。
先に中へ入ったヘイズが入室を促すと、アンリも少し緊張した面持ちでゆっくり足を進めた。
広々としたスタッフルームの中には既に二人の人物が待機していて、アンリが姿を見せると同時に二人は同時に顔を上げた。
「キオラ」
アンリに名前を呼ばれ、神妙な様子でソファーから立ち上がったキオラは、アンリ達にまず一礼してからヘイズにも目配せをした。
「ごめん。急に無理を言って。そっちの都合は大丈夫だったかな」
怖ず怖ずと歩み寄ってきたキオラは、覇気のない声でアンリに尋ねると、アンリの後ろから続いてきた一同のことも見遣って申し訳なさそうに俯いた。
その顔は見るからに疲弊していて、肌色と唇からは血の気が引いている。
昨夜アンリと別れてからなにがあったのかは不明だが、この僅か半日の間に彼女にとって相当に驚愕な出来事が起きたのは間違いなさそうだ。
「ああ。俺達なら大丈夫。気にするな。
それで、彼が同席している理由は……」
「ああ、うん。驚かせてごめんね。
実は、ヘイズさんを私に紹介してくれたのは彼なんだ。随分前の話だけどね。
……それで、今朝訳を話したら、自分にもなにか協力させてほしいって、今回の機会をセッティングしてくれたんだよ」
キオラの弱った姿を見て、アンリは思わず彼女を抱きしめてやりたくなる衝動に駆られたが、それをぐっと堪えて彼女の肩を撫でてやった。
そして、一行の視界に映るもう一人の同席者に注意を向けた。
機械仕掛けのような車椅子に座ったその男は、アンリの視線に気付くと、操作用のレバーを使っておもむろに一行に近付いていった。
アンリが訳を尋ねると、キオラは男がここにいる理由を簡潔に述べて、男に向かって目配せをした。
男は、キオラの隣に並んで車輪を止めると、アンリに向かってにこやかに挨拶した。
「やあ、久しぶりだね。アンリさん。
こうして会うのは二年ぶりになるかな?また一層ご立派になられた」
男の名は、ヨダカ・ヴィノクロフ。
ヴィノクロフ州初代主席、ボリス・ヴィノクロフの一人息子にして、現二代目主席に就任しているこの街の長。
フィグリムニクスという国家を統治する、14人のリーダーの内の一人である。
年齢は現在35歳。
やや襟足の長いグレーの短髪に、髪色より暗めのブルーグレーの瞳を持つ。
上はシンプルなマオシャツで、下は黒のスラックスと簡素な出で立ちではあるが、温厚な佇まいの中に確かなリーダーシップを感じさせる風格のある人物だ。
色白で血管の浮き出た腕は常に車椅子の操作レバーに添えられており、指先だけで自在に車輪を操っている。
というのも、実は彼には左足がないのだ。
生来左半身に酷い麻痺があるらしく、自由に動かせるのは右手と右足のみだという。
左手の方は辛うじて指を曲げられる程度で力が入らず、左足に至っては最初から欠損した状態で出産されたために、膝から下が丸ごと失われていた。
義足を着用して普通に歩くことも可能なので、日常生活を送るに当たって特に不便はないとのことだが、今のように室内にいる間は体調面も考慮して車椅子を使用する場合が多いらしい。
そもそも、ヴィノクロフがバリアフリーに特化した州となったのも、障害を持つ彼のためにと父ボリスが環境に徹底配慮した結果と言われている。
八年前、老体となったボリスと交代し、この街の新たな主席となったヨダカは、自らの経験を活かして同じ悩み苦しみを抱える者達に寄り添ってきた。
そのおかげで、今やプリムローズと肩を並べるほどヴィノクロフは住人達の結束が堅い街となったのだ。
ちなみに。アンリとヨダカが初めて顔を合わせたのは、アンリが高校進学のためグレーヴィッチ家でホームステイをすることが決まった時だった。
キングスコートの子息としては勿論のこと、アンリ・ハシェという一人の少年としても温かく迎え入れてくれた当時のヨダカに、アンリはすぐに好印象を持った。
その後は、アンリの両親であるフェリックスとイルマの葬式に参列した際に顔を合わせている。
ヨダカもまた当時のことを覚えていたようで、抜け殻のようだった少年期のアンリを知っているからこそ、今こうして対等に話せることを心から喜んでいた。
「お久しぶりです、ヨダカさん。またお会いできて嬉しいです。
体調の程はいかがですか?」
「ありがとう。僕なら大丈夫です。
お連れの皆さんも、今日はここに我々しか近付けないよう配慮しましたから、安心してください」
アンリがヨダカのために少し腰を屈めると、二人はしっかりと右手で握手を交わした。
「ありがとうございます。
今回の機会をセッティングしてくれたのはヨダカさんだとお聞きしましたが……。
突然のことなので、診療所の関係者からは不服の声も出たのではありませんか?」
軽くキオラの方を一瞥し、アンリが現在に至るまでの経緯を尋ねると、ヨダカはヘイズと一度目を合わせてから答えた。
「それなら大丈夫。彼は優秀なお医者さんだから、彼を頼りにしている患者さんは沢山いるけど……。
急な臨時休業でも混乱が起きないように、僕が予め方々に連絡をしておきましたから。
少なくとも向こう二日は、他の施設が代わりに急病人を受け入れてくれるはずです」
「そうでしたか……。重ね重ね、お手数をおかけしました。ご配慮に感謝します」
日頃ダヴェンポート診療所にかかっている患者達は、今日明日の二日間は特別に別の医院で面倒を見てもらう手筈になったらしい。
なので、こちらが急な臨時休業となっても混乱は避けられるはずだと。
これは、事前にヨダカがベシュカレフ中の医療施設と連携を取っていたためであり、ヨダカの指示であればと、患者達もそれに従って一時的に余所へ移ることを了承したそうだ。
"そちらの都合が合う時で構わないので、ヘイズ先生を少しの間お借りして構いませんか"。
というキオラからの申し出に、ヨダカとヘイズが協力して色々と世話を焼いた結果が現状である。
そしてこれは余談だが、ヨダカとヘイズの関係は学生時代からの幼馴染みである。
二人がキオラと知り合った経緯は、まずヨダカがグレーヴィッチ家と交流があったから。
その後、心身共に繊細なキオラのため、ヨダカがキオラにヘイズを紹介したのがきっかけで、三人は親戚のような間柄になったという訳だ。




