Episode27-7:Remember me?
ずるずると力の抜けていく体を支えるため、キオラの手が無意識にアンリの腕にしがみついた。
アンリは、キオラの小刻みに震える頭を二、三優しく撫でてやると、一層強く抱きしめて彼女の耳元で囁いた。
「じゃあ、俺も君と同じ、怪物になるだけだ。
君の代わりに、残りの奴らは全員、俺が殺してやる」
"俺が殺してやる"
明確な殺意を匂わせる台詞に、キオラはびくりと肩を揺らして反応した。
怖ず怖ずと面を上げると、既にこちらを向いていたアンリと目が合った。
「……だめ、だよ。そんなの絶対に駄目だ。
私達のために、アンリまで人殺しにさせられない」
信じられないものでも見るような表情で、キオラは小さく首を振った。
まさかそのような返事が返ってくるとは思わなかったようで、心底予想外といった感じで戸惑う様子は、紛れも無く彼女の"素"の姿だった。
ゴーシャークのメンバーを次々と暗殺し、長年に渡って積もりに積もらせた憎しみにようやくけじめをつけた時。
これで自分の野望を果たすための第一歩だと、クリシュナは思わず笑みが零れてしまうほどの達成感に浸った。
しかし、喜びを噛み締めていられたのは束の間のことだった。
諸悪を順に潰していく度に、クリシュナは快楽と共にある感情が芽生えてしまったことに気が付いた。
それは後悔。
何人もの命を奪っても、どれほど惨い殺し方をしても。
クリシュナの胸に深く突き刺さった毒の棘は、未だ根深く彼を蝕んだまま。
レイニール、ヘンドリック、ヴァーノン、ラザフォード、そしてモーリス。
殺戮を伴う復讐は、一人殺す毎にクリシュナに確かな達成感を与え、代償に彼の生き甲斐を一つずつ奪っていった。
自らの自由と安寧を手に入れるため始めたことのはずが、気付けばなにかに迫られるように追い詰められた自分がいた。
殺せば殺すほど、奪うほどに、逆に自分の首が締まっていくようで、なにか大切なものが次々と零れ落ちていくようだった。
ゴーシャークの濁った黒い血は、いくら浴びても、決してクリシュナの渇きを潤してはくれなかった。
報復を成功させたクリシュナにこの世界が与えた報酬は、ほんの一時の達成感と、果てのない罪悪感だった。
それに気付いた時。
どうしたって自分は救われないのだという現実を、改めて目の当たりにした時。
クリシュナの胸に残ったのは、人を殺めてしまった罪の痛みと、自分はもう二度と、人前で笑うことは許されないという自覚だけだった。
そうと知っていながら、そんなものを愛する彼にまで背負わせるわけにはいかない。
毒を食らわば皿までと、一度強行させてしまったものは最後までやり通す覚悟はできている。
例え、果てに待ち構えるものが希望の光でなかったとしても、もう後には引けない。
今更尻込みをしたところで、自分はもう五人も手にかけてしまっているのだから。
だが、彼は違う。
彼は確かに魔王の血を引いているけれど、その身と心はまだ完全に毒に犯されていない。
名前も系譜も関係ない。アンリはアンリで、キオラが愛した男に違いないのだから。
嫌々と首を振って、アンリの決意を考え直させようとキオラは訴えた。
しかしアンリは、彼女が狼狽えるほど、反比例するように自分は冷静になっていくのを感じていた。
キオラの肩に優しく手を置いた姿は、すっかりいつもの調子に戻っている。
「俺はね、キオラ。許せないんだよ。
君を傷付けるこの世界も、君を守ってやれなかった俺自身も、なにもかも。
だから、もう君だけに背負わせたくないんだ。
君が一人で苦しんでいるのを、ただ黙って見ているくらいなら、俺は全部壊したっていい。誰を敵に回したっていい。
君が、一人の人間として自由に生きるために、サクリファイスが必要だというなら、俺が用意する。
君を不幸にさせるものは、全部、俺が消してやる。全部殺す。
もう二度と、君が悲しみに泣くことがないように、俺が、君の世界を変える。必ず」
混乱する気持ちより、なにより彼女を守りたいという意志が勝った。
己の中で明確な答えが出たというだけで、人間は自力でも十分立ち直ることができるらしい。
キオラを不幸にする存在は、全て自分が消す。
それは、実際に彼女を弄んでいたゴーシャークやマグパイのみならず、フェリックスの息子である自分自身のことも指していた。
キオラが望むのなら、自分は全ての悪と共に滅んだっていいと。
もう二度と、キオラに痛い思いはさせない。
彼女が辛い時には寄り添い、彼女に迫る悪い虫は、全て自分が追い払ってやる。
なにもかもを投げ捨てる覚悟で、アンリはキオラに告白した。
するとキオラは、アンリの揺るがない態度に思うところがあったのか、ふと口をつぐんで目を伏せた。
そして、ゆっくり瞼を上げた瞬間には、再びクリシュナの顔付きに戻っていた。
「わかった。教えるよ、全部」
シーツの波に沈んだアンリの拳に、そっとクリシュナの掌が重なる。
「君の父親が何者だったのか、どうして僕らは生まれたのか。
僕らが見てきた世界はどんな色をしていたのか、全て話す」
なにかを決意したように吹っ切れた顔でそう言うと、クリシュナは静かに起き上がってベッドから降りた。
アンリに支えてもらってやっと伸ばしていた背筋は、今は自分一人の力でぴんと立っている。
コートの裾を風にはためかせながら、クリシュナがアンリに背を向ける。
アンリはとっさに手を伸ばしたが、宙をさまよう指先が彼の背中に届くことはなかった。
「………どこへ行く?」
「向こうの世界だよ。夜明けと共に、僕はキオラの中へ帰る。
けど、僕はこれで消えるわけじゃない。少しの間、彼女の影の中で眠るだけだ」
ベッドの端で放置されていたウィッグを拾うと、クリシュナはそれをポケットの中に仕舞ってアンリの方に振り向いた。
当初と同じ不敵な笑みを浮かべたその顔に、先程までちらついていたキオラの面影はなかった。
「明日の午後。君の携帯に、キオラの番号から連絡がいくはずだ」
「それは、君からのコールか?それとも、キオラの?」
「後者だよ。僕じゃなくて、キオラが君にコールする。
そうなるように、僕が仕向ける」
「俺はどうすればいい?」
「どうもしなくていい。ただ、キオラの言葉を信じて。彼女の指示に従って。
……前もって準備できることがあるとすれば、それは覚悟かな。
明日、君は真実を知ることになるから。怖いのなら、今のうちに仲間に励ましてもらうといい」
具体的なプランはまだ不明だが、クリシュナは明日、アンリ達に全てを明かすつもりでいるらしい。
本当に、全ての真実を包み隠さず。
曰く、クリシュナにけしかけられたキオラが、明日の正午にアンリの携帯に連絡をするはずだという。
つまりクリシュナは、ただアンリに訳を話すだけでなく、キオラ本人にも忘れてしまった記憶を取り戻させる気でいるということだ。
誰よりキオラの身を案じているクリシュナならば、彼女を陥れるような真似は絶対にしないだろう。
だが、失われた記憶を呼び戻すということは、キオラに地獄の日々を反芻させるということでもある。
果たしてその判断は危険ではないのか、そもそもどうやって失われた記憶を再生させるのか。
詳しい意図は、全てを知るクリシュナだけが把握している。
「それから、一つ約束をして」
静かに歩き出したクリシュナは、開けっぱなしだった窓の縁に足をかけると、外の景色に目をやったまま背後に向かって声をかけた。
「この先なにがあっても、キオラを一人ぼっちにしないって」
アンリの視界にはクリシュナの後ろ姿が映っているため、彼の顔は見えなかった。
だが、彼が今どんな表情を浮かべてそう言っているのか、アンリには手に取るようにわかっていた。
「約束するよ。絶対に、彼女を孤独にはさせない。君のこともね」
アンリは少し考えてからそう答えた。
クリシュナは一瞬ぴくりと肩を揺らすと、首だけでもう一度振り返ってアンリと目を合わせた。
その顔は、心底安堵したような、嬉しそうな表情で、年頃らしい穏やかな笑顔だった。
風に身を委ねるように、クリシュナが勢いをつけて窓から飛び降りる。
やがて、地面に着地した音に続いて、素早く遠ざかっていく足音が辺りに響き渡る。
再び訪れた静寂。
今までの出来事は幻だったんじゃないかというほど、部屋の中も外も、閑散とした冷気に包まれている。
アンリは、最後に自分に触れたキオラの指が、先程首を絞められそうになった時よりも仄かに温かくなっていたことを思い出した。
右手で左手の甲を撫でると、まだ微かに彼女の感触が残っている気がした。
嵐のように突然やって来て、風のように去って行ったクリシュナ。
彼と向き合っていた時間は、永遠のように長く、そして光のように一瞬だったとアンリは思った。
すると、クリシュナがいなくなった途端、急に疲労感に襲われて、アンリはぐったりした様子でベッドの上に倒れこんだ。
仰向けになった視界に広がるのは、相変わらず暗い天井。
だが、今にも泣き出しそうな顔で、自分を押し倒していたクリシュナの姿が、なにもないはずの天井に透けて見える気がした。
頭の中で何度も繰り返される、彼の悲痛に歪んだ顔と震える声に、思わず目眩を起こしてしまいそうになる。
「………キオラ」
ぽつりと呟いた声は、あっという間に闇に溶けていった。
アンリは、たまらず重い息を吐き出して、右腕で自分の目元を覆った。
その一部始終を途中からシャオが部屋の外で窺っていたことなど、今のアンリには知る由もないことだった。
『What do you want?』
『All I want is you. 』




