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オルクス  作者: 和達譲
Side:A
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Episode27-6:Remember me?




だが、クリシュナはそう思っていなかった。

キオラがこうも物事を卑屈に考えてしまうのは、やはりアンリの曖昧な姿勢に原因があるのだと、彼は確信している。



「君に愛されているという実感があれば、キオラはそれだけで強くいられた。

どんなに辛いことがあっても、自分を待ってくれている人がいると思えば、耐えられた。

ああそうだよ。やっぱりお前のせいだ。

お前がちゃんと、キオラを支えてくれていれば、僕はこんな化け物にならずに済んだ。衝動に負けてしまうことなんてなかった。

僕があいつらを殺すのは、君が、僕を止めてくれなかったせい。キオラを、抱いていてくれなかったせい。

君のせいで、僕は、こんな。本物の、悪魔に、……っ」



今更こんなことを言っても無意味だと、悪いのはアンリではないのだと頭では理解しているのに。

長年クリシュナの中で煮え立っていた毒は、一度溢れてしまったらもう止められなかった。



洪水のように勢いよく噴き出してくる激情に、思考回路まで麻痺してしまう。

なのに、口だけがひとりでに動くようで、思ってもいない悪意に満ちた言葉が次から次へと出てくる。


止められない。違う。こんなことが言いたいんじゃない。彼を困らせたいんじゃない。傷付けたいんじゃない。

なのに、彼の呆気にとられた顔を見ていると、もっともっと自分のことで頭が一杯になればいいと、自分のことしか考えられなくなればいいと、幼稚で短絡的な支配欲がめきめきと顔を出してしまう。


嫌だ。見るな。僕を見るな。僕らを見るな。もっと見てくれ。僕の醜いところを、近くで、もっと。触ってよ。血の滲む熱い傷痕に。嫌がらないで。怖がらないでよ。僕を嫌うな。


誰かに必要とされたい。求めてほしい。

自分が生まれた意味がほしい。

ゼロワンという器としてではなく、キオラという一人の人間として。


安心が、ほしかった。

僕らには帰る家がない。帰りを待っていてくれる人がいない。

なにも失うものがない。失って困るものがない。

だから、理性という名のリミッターが、僕らの中には存在しない。

守るべきものがあるから、人は考える。

本能を制御する術を持つから人間だ。

愛する人を悲しませたくないから、罪悪感などという不可解な概念が、確かにこの世に存在している。


でも、僕は。

どうせ誰にも必要とされていないなら。誰も僕を愛してくれないのなら。

ルールなんて真面目に守ったところで、なんの得にもならない。

自分だけ我慢をするなんて、自分だけ損をするだけだ。

やりたいからやる。

殺したいから殺す。

誰がどう思おうが知ったことか。誰にも僕を止められない。

だって、殺さないと、彼女が先に死んでしまうから。

お前らが、僕に、そうさせるんだ。

本当は、僕だって、こんなこと。



怒りと悲しみでがたがたに震えるクリシュナの指が、アンリの冷たい首に回る。

しかし、締め上げてやろうにも上手く力が入らなかった。

ただポーズを取るだけで、クリシュナはアンリの息の根を止めることができなかった。


殺そうと思えば、簡単に殺せる。

銃など使わずとも、この手が、この指が。

あとほんの僅か力を込めれば、あっという間に窒息して、彼は死ぬ。

なのに、できない。


ぜえぜえと嗚咽を漏らす喉は引き攣って、浅く呼吸を震わせる。

彼の首に深く指がかかるほど、逆に自分が息苦しくなっていく。

その切なさに、クリシュナは更に一筋涙を流した。



すると、自分の首に回された指を力づくで解いて、アンリが間髪入れずにクリシュナの腕を引いた。

とっさに反応できなかったクリシュナは、ぐいっと勢いよく引き寄せられる感覚に体勢を崩して、そのままアンリの胸板に倒れ込んだ。



「……っなに、す…っ」



密着した上体からアンリの鼓動がどくどくと伝わってきて、クリシュナははっと我に返った。

しかし、アンリの力強い腕にがっしりと抱きすくめられてしまったため、とっさに身動きすらとれなかった。


アンリは、自分の胸板にぴったりと耳が押し当たる姿勢で、クリシュナの頭を固定した。

クリシュナは、そこから伝わる鼓動と人肌の温もりに、益々不快そうに眉を寄せた。



「もういい。これ以上、自分で自分を傷付けるな」



幼子を諭すような優しい声で、アンリは囁いた。



初めてその腕に抱く、愛しい(ひと)の体。

分厚いコートの上からでもよく分かる、彼女のか弱さと頑なさ。


"こんなに、繊細で弱々しい体を、奴らは何度も好き勝手に弄んでいたのか"

そう思うと、悔しくて許せなくて、アンリはギリリと奥歯を噛んだ。



人一人手にかけるのだって、キオラの細腕では相当な骨だったはずだ。

疲れて、途中でやめてしまおうかと思ったこともあったかもしれない。


だが、彼は最後までやり切った。

キオラの苦しみを、本人に成り代わって訴える代行者として、クリシュナは全身全霊をかけて報復に心血を注いできたのだ。

全ては、キオラを傷付ける者を排除するため。キオラを、守るために。



「……ッまた、知った風なことを…っ」



クリシュナは、アンリの甘ったるい一言に一瞬怯んだものの、先程よりも強い力で目一杯アンリの胸板を押し退けた。

ようやく体を離すと、素早く起き上がってシーツの上を後ずさった。

どうやら、一気に距離をとってこの場から逃げ出すつもりらしい。


しかし、アンリもすぐに起き上がって、ベッドから下りようとするクリシュナの手首を掴んだ。

抵抗するクリシュナの体をもう一度引き寄せると、きつく抱きしめ直して彼の肩に顔を埋めた。



「一瞬に死のうか、キオラ」



ふと耳元で囁かれた切実な声に、クリシュナの動きがぴたりと止まる。


抜け出せないのならもう一度突き飛ばしてやろうと、アンリの肩をきつく握り締めていた手は、電源が切れたように急に力を失ってがくんとシーツの上に落ちた。



一緒に死のうか、と。

愛する彼と一緒ならば、それもいいかもしれない。

死ねば、もうなにも苦しむことはないし、真っ暗な明日を迎えずに済む。

夜が明けて、また新しい一日が始まるのかと、絶望しなくて済む。

生きていても、死んでも、どちらにせよ自分を取り囲む世界は地獄なのだから、今更死後の世界に恐れを抱くこともない。

そうだ。今ここで死んでしまえば、全て終わりにできるんだ。


アンリが自分にしているように、クリシュナもアンリの肩にそっと頭を預けた。

そして、強張っていた全身の力を抜いて、息苦しいほどの抱擁に身を委ねた。



「………むりだよ。

私には、貴方を殺せない」



感情的につい溢れさせてしまった今までの涙とは違い、クリシュナは人が変わったように穏やかに泣き始めた。


歪んだ双眸から、透明な雫がはらはらと滴ってゆく。

だらりと垂れ下がったクリシュナの掌に狙うように落ちていったその雫は、氷のように冷たかった。



「君が死んだら、キオラが悲しむ。

もう、キオラが泣いているところを、僕は見たくないんだ」


「愛しているんだね。君は、キオラのことを」


「そうだよ。キオラを愛してる。愛してるんだ。

彼女がいなければ、僕は生きている意味がない」



キオラがいなければ、クリシュナはこの世に存在することができない。

それは、肉体の持ち主であるキオラが死ねば、当然同じ体を共有するクリシュナも共に消滅するということだが、今の言葉はそういう意味ではない。


クリシュナは、キオラを愛している。

一個の命を分け合う片割れとしても、純粋に一人の女性としても。

激しく惹かれ、愛してしまったのだ。


彼の想いは、アンリがキオラに対して抱いているものとほぼ同じ。

愛する人を失えば、己の生きる意味も失ってしまう。


だから、クリシュナにはアンリを殺せない。

アンリが死ねば、アンリを愛するキオラの心が死に、キオラの心が死ねば、キオラを愛するクリシュナの存在意義が失くなるから。


最初から、クリシュナにアンリを殺す気など更々なかったのだ。

キオラにとってもクリシュナにとっても、アンリは唯一無二の欠かせない人であるのだから。



「俺も、愛しているよ。

君が、キオラから生まれた影だというなら、その影ごと、全部引っくるめて愛してる」


「……僕らは化け物だ」


「化け物だろうが、関係ない」


「人を殺した。罪人だ」


「そんなもの知るか。君の正体がなんであろうと、俺の気持ちは変わらない」



自分自身を蔑むように、クリシュナは恐る恐る喋った。

アンリは、すっかり大人しくなってしまったクリシュナの体を支えながら、はきはきとした声で答えた。


そして、ゆっくり体を離すと、クリシュナの柔らかい銀髪に指を絡めて、丁寧に横へ滑らせていった。


変装用のウィッグであるそれが取り外されると、中からヘーゼル色の長い髪が現れた。

はらはらと細かく舞い上がってから落ちていくそれは、霧雨のようにしなやかで美しかった。


今、アンリの目の前にいるのは、ただのキオラだ。

否、髪型を変えていただけで、最初からここにいたのはキオラだったのかもしれない。



アンリは、脱がせたウィッグをシーツの上に置くと、キオラの地毛の前髪を指で分けて、あらわになった白い額にそっと口付けた。


キオラは一瞬びくりと肩を硬直させると、反射的に目を閉じてから恐る恐る瞼を上げた。

再び開いた視界に真っ先に飛び込んできたのは、彼女が愛してやまない、優しい笑みを浮かべたアンリの顔だった。



「………っ、もう、遅いよ……っ!」



くしゃりと表情を歪め、ボロボロと滝のような涙を溢れさせたキオラは、子供のように大きく泣き始めた。

しかし、声だけは頑なに上げようとせず、ぐっと堪える吐息だけが辺りに響いた。


アンリは、キオラの後頭部をゆっくり引き寄せると、もう一度自分の肩にもたせ掛けてやった。

これなら、もう誰にも泣き顔を見られないから、とでも言うように。



「私、人を殺してしまった…!人として、一番やってはならないことを犯してしまった……っ!

こんなんじゃ、もう…。アンリと一緒にいられない…!」



今泣いているのがキオラなのか、それともクリシュナなのか。アンリには全く見分けがつかなかった。

だが、どちらにせよ、目の前にいるこの人の痛みを和らげてやりたいと、心の底から思った。



生まれた時から、押し潰されそうなほどの憎悪に支配されていたクリシュナ。

自分とキオラを苦しめるゴーシャークを憎むことこそが、彼の原動力であり、自我を保つための安定剤だった。


しかし、四六時中誰かを憎み続けるということは、常人の想像を絶するエネルギーを要する。

楽しいとも嬉しいとも感じることのできないクリシュナは、当然娯楽で気分をリフレッシュさせることもできず、人に相談をして気持ちに整理をつけることもできなかった。


どこでなにをしていても、頭の中には常に奴らの顔があった。

奪いたい殺したい、奴らの苦悶に歪む顔が見たいと、どこからともなく訴えてくる声に眠ることすら妨げられてきた。



なにも考えられない。なにも手に付かない。

あるのは燻る殺意だけ。たまらず零れた涙だけ。


誰かを憎んで生きるのって、とても辛いことだ。

いっそ全て忘れてしまった方が、楽になれたかもしれない。

だが、自らが経験した痛みが、記憶が、絶対に許すなと揺さぶってくるのだ。



かつては自分も両親を怨んでいた身として、アンリはクリシュナの気持ちが痛いほどに想像できた。


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