Episode27-5:Remember me?
たまらない気持ちになったアンリは、恐る恐るクリシュナの顔に触れると、垂れた前髪を梳いて涙を拭ってやった。
クリシュナは、アンリの慈しむような手つきに一瞬肩をびくつかせるも、抵抗はせずに黙って身を委ねた。
「すまない、キオラ、クリシュナ。ごめん、……本当に、ごめんな。
こんなに、近くにいたのに。俺は、なにも気付いてやらなかった」
アンリは、クリシュナの悲痛な泣き顔にキオラの面影を重ねてしまい、ぐっと息を詰まらせた。
そして、とうとう箍が外れてしまい、自らも涙を溢れさせた。
「君はずっと、一人で抱え込んで、苦しんでいたのに、俺は…、なにも……っ」
きっとキオラは、例え記憶を消されずとも黙っていただろう。
実は自分が、普通の人間ではないのだと。裏で研究員達の玩具にされていたなどとは、知られたくなかったから。
自分自身でも、その事実を現実として受け入れきれずにいたから。
でも、本人にその意思がなくとも、無言の中のSOSに気付いてやるべきだったんだ。
他の誰でもなく、俺が。
昔から、彼女が怪我の多い子供だったことを俺は知っていた。
その怪我の訳を、当の本人が全く覚えていないということも内心不審に思っていた。
なのに、完全に謎が明らかになるまで、俺は突き詰めようとしなかった。
当初は、ご両親のグレーヴィッチ夫妻が、隠れて娘のキオラに暴力を振るっているのではないかと疑ったこともあった。
実はあの傷の原因が、単なる虐待によるものではなく、例の実験によって意図的に負わされたものであったなどとは、想像もしなかったから。
何故、もっと疑わなかったのだろう。
あれほど嫌っていた父の言葉を、最後には鵜呑みにしてしまったのだろう。
持病による体調不良が原因で、しょっちゅう粗相をして不慮の怪我を負ってしまうというのなら、そうならないように周りの大人達がもっと気を配ってやればいいだけの話だ。
本当にキオラの怪我がキオラ自身の不注意によるものだったとしても、防ぐための方法なんて考えればいくらでも対策のしようがある。
なのに俺は、主治医である父の見解を妙だと思いながらも、意見をしなかった。出来なかった。
まさか俺の見立てを疑っているのかと、逆に問い詰められることを恐れて、無理矢理に納得をして飲み込んできた。
最初から、もっと注意深くキオラの様子を見てやっていれば、もっと早くに真相に近付けていたかもしれないのに。
記憶を消される前のキオラは、俺のことをどう思っていたのだろう。
自分を地獄に突き落とした張本人が、血を分けた一人息子として俺を紹介した時。
彼女は一体なにを思って、俺のことを見詰めていたのだろう。
何度記憶をリセットされても、ゴーシャークの実験は何度でも繰り返し行われる。
終わらない悪夢が繰り返される度、彼女は痛みにもがきながら俺の顔も思い起こしていたはずだ。
自分は、知らず知らず魔王の息子と親しくなっていたのかと。
許せなくて、吐きそうだ。
自分のことも、父のことも。
この世で最も愛した女性を、自分の父が汚している。
自分達のせいで、彼女の人生は酷く狂ってしまった。
今更、なんと言って詫びればいい。どうすれば償える。
彼女に対しては、どんな謝罪の言葉も白々しく聞こえてしまう気がする。
彼女が味わわされてきた地獄の日々は、きっとこの世に存在する言語では表現しきれない。
筆舌に尽くしがたい、とはまさにこのことだ。
「謝らないでよ。僕は、君に謝ってほしいんじゃない。
キオラは、君を苦しめたいなんて思ってないんだ」
アンリの他意のない涙を見て我に返ったのか、クリシュナは突然冷静な態度になって、これまでにない穏やかな表情を浮かべた。
しかしアンリは、今日までキオラと共に過ごしてきた日々を走馬灯のように思い返して、苦悶の顔になっていた。
「じゃあ、どうすればいい。俺は君に、君達に、なにをしてやればいい。
死ねというのなら、俺は死んだっていいよ。殺したいのなら、八つ裂きにしてくれていい。
それで、君達の痛みが少しでも和らぐなら、俺は君のために何度だって死んでやる」
彼女がいつも、あの美しい笑顔の裏で、何気ない言動の奥底で、今にも噴き出してしまいそうなほどの重い闇を抱えていたのかと思うと。
衝動的に死にたくなるほどの罪悪感で、アンリは胸が張り裂けてしまいそうだった。
クリシュナの頬に触れていたアンリの手が、力無く滑り落ちてシーツの海に沈む。
するとクリシュナは、胸倉を掴んでいた手を離すと、今度はアンリの首にそっと指を這わせて、怪しく微笑んだ。
「じゃあ、愛してると言って」
うっそりと目を細めて笑むクリシュナの顔には、不気味さと妖艶さが内包されていた。
主人格のキオラと差別するためか、これまで意識して低いトーンで喋っていたのが、ここにきて急に女性らしい声に変わった。
落ち着いた口調で、低すぎず高すぎない透き通った声は、まさしくアンリが愛したキオラそのものだった。
時折、窓から入り込む夜風がクリシュナの髪を撫でていく。
その度にふわふわと舞い上げる銀髪は、羽毛のようで霧のようでもある。
アンリは、ぞくぞくと背筋が粟立つ感じを覚えながらも、緊張に声が上擦ってしまわないよう気を付けて口を開いた。
「きみ、は………。
キオラが愛してるのは、ヴィクトールじゃ、ないのか」
搾り出すような声でアンリが尋ねると、クリシュナは悲しげに眉を下げた。
友人の少ないキオラにとって、もう一人の幼馴染みであり、アンリよりも長く時間を共にしてきたというヴィクトール。
二人はアンリが出会う以前から親しかった様子で、キオラはヴィクトールのことを兄のように慕い、ヴィクトールもキオラのことをとても可愛がっていた。
二人の絆は第三者の目から見ても一目瞭然だったし、アンリもずっとヴィクトールとキオラは相思相愛なのだと思っていた。
だからこそ、ヴィクトールにだけは渡したくないと密かに闘志を燃やしても、キオラ自身が彼と結ばれることを望んだなら、自分はいつでも身を引いてやるつもりでいたのだ。
「……やっぱり、気付いていなかったんだね。彼女の気持ちに」
「……違うのか?」
「確かに、キオラはヴィクトールのことも好いていたよ。彼は僕らにとって恩人で、唯一の理解者だったから。
今でもキオラは、ヴィクトールのことを本当の兄のように思ってる」
"だけど、いつもキオラの心の中にいたのは、ヴィクトールじゃなかった"
至極残念そうに、同時になにもかも知っているような口ぶりで呟くクリシュナに、アンリの心臓がどくりと跳ねた。
大多数の研究員達と違い、たった一人キオラを対等な人間として扱った人物。
それがヴィクトールだった。
ヴィクトールは、孤独なキオラとクリシュナにとって生まれて初めて出来た理解者で、ようやく巡り会えた自分以外の味方だった。
血の赤で塗りたくられた二人の世界に、鮮やかな青を引き連れて現れた彼だけが、二人にとって唯一の癒しであり、救いだった。
キオラ達とヴィクトールが最初にどんな出会い方をして、どんな風に共に過ごしてきたのか、アンリは知らない。
だが、怒りと憎悪で極端に狭まったクリシュナの目にも、ヴィクトールはかけがえのない恩人として美しく存在し続けていた。
故にヴィクトールは、少なくともキオラ達の前でだけは、まともな人間であったということだろう。
あれほどの極限状態の中では、親身に寄り添ってくれるヴィクトールに傾倒してしまうのも、仕方のないことだったのかもしれない。
ただ、キオラはヴィクトールに対して揺るがない信頼を向けていても、彼を絶対的な存在として崇拝していたわけではなかった。
ヴィクトールはあくまで親愛や友愛の対象で、言ってしまえばほぼ家族のようなものだった。
愛し愛され、隣にいるのが当たり前で、ふと顔を上げれば自然と目が合うようなバランスのとれた関係だった。
とどのつまり、キオラが本当に愛してほしいと願っていたのは。
振り向いて欲しくて、いつも遠くから見詰めていた背中の相手は、ヴィクトールではなかったのだ。
「キオラはいつも、君のことだけ考えてた。君だけを見詰めていた。
キオラが心から愛していたのは、愛してほしいと望んでいたのは、ヴィクトールじゃなくて、君だったんだよ。アンリ」
キオラはアンリを愛していた。
そしてその想いが、決して本人には届かないだろうことも理解していた。
本当は、ずっとずっと昔から二人は相思相愛だったのだ。
お互いに片思いを募らせていながら、なのに通じ合うことだけが上手くいかなかった。
きっとキオラはヴィクトールのことが好きなのだろうと思い込み、いつまで経っても微妙な距離感から脱却できずにいたアンリと。
そんなアンリのどっちつかずの態度を見て、自分は彼に愛される資格がないのだと自信を失ってしまったキオラ。
まるで、鏡越しに見つめ合いながらも、実際は背中合わせでそっぽを向いているかのような、酷く曖昧で不安定な関係。
どちらかが勇気を出して踏み出していれば、必ず実った恋だった。
もっと早くに決着していれば、こんな形でクリシュナが暴露する必要もなかったのだ。
「……なのに。なんで。どうして、好きと言ってくれなかったんだ。
キオラは、君が好きだと言ってくれれば、それで良かったんだ。他にはなにも望んでいなかった。
いつもいつも、君の背中だけを見ていて。夜寝る前は、必ず君のことを考えてた。
本当は毎日でも会いたかったし、声を聞きたかったのに、君の邪魔はしたくないからって、いつも、通話ボタンを押さないで我慢してたんだ。
君がよその女に愛想よくしているのを見掛ける度、あの人と恋仲になったらどうしようとか、もしそうなったら、ちゃんと祝福できるかとか、考えて……っ。
君のせいで、キオラはずっと苦しんでいたんだ!お前のせいで!!!」
訳を話している内に、クリシュナは再び険しい顔付きになって、徐々に声が大きくなっていった。
アンリもヴィクトールも、他の誰も知らない、キオラの本心。
キオラと肉体を共有するクリシュナだけが理解していた、彼女の純粋な恋心。
子供の頃から一途にアンリのことだけを慕ってきたキオラは、いつか彼に恋人ができてしまった時のことを考えて、一人でよく落ち込んでいた。
最後には自分を選んでくれたらいいのにと、密かに淡い期待を抱く一方で、そんなはずはないと冷静に否定する自分が同居していた。
自分にはなんの魅力もないと思い込んでいたキオラには、アンリと自分が結ばれて並ぶ姿をどうしても想像することができなかったから。
寂しい夜は声を聞きたいし、しばらく会っていないと顔が見たくなる。
恋をすれば、誰だってその衝動に駆られてしまうものだ。
しかしキオラは、相手の迷惑になったらいけないと、気安く電話をかけられず、ましてや会いたいなどとは口が裂けても言えなかった。
だからいつも、元気にしているかと、さりげなくメールで様子を伺うことしかできずにいたのだ。
無論、キオラからの連絡を迷惑だと思ったことは一度もないし、会いたいと告げられたらアンリは真っ先に彼女の元まで走るだろう。
キオラの心配性は所詮ただの杞憂で、自分一人で悪い方に完結させてしまっていたに過ぎないのだから。




