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オルクス  作者: 和達譲
Side:A
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Episode27-4:Remember me?



アンリの詰問ともとれる辛辣な言葉を聞いて、クリシュナは深く息を吸い込むと、思い切りアンリの肩を突き飛ばしてベッドに押し倒した。

そして、素早くアンリの腹に跨がって、きつく彼の胸倉を掴み上げた。


彼の胸板にそっと体重を乗せ、繭のようにうずくまった姿は微かに怒りに震えている。


しかし、激情に駆られた様子ではあるものの、クリシュナはアンリを殴ろうとはしなかった。

俯いているせいで表情は見えないが、アンリの視界を覆う淡い銀髪の向こうからは、ギリリと奥歯を噛み締める音だけが聞こえている。



「……さっきから聞いていれば、調子に乗りやがって。

なにも知らないくせに、偉そうに説教垂れてんじゃねえよ」



ドスの利いた低い声でぼそぼそと喋り始めたクリシュナは、急にゴロツキのような荒っぽい口調に変わって、俯いたまま一方的にまくし立てた。



「まるで、僕がキオラを不幸にしているみたいな言い方だけど、お前はどうなんだよ?

彼女が果てのない絶望に泣いていた時、終わりのない痛みに叫んでいた時、お前はどこでなにをしていた?

いっそ殺してくれと懇願した彼女は、その時なにを思ったと思う?」



ゆっくりと顔を上げたクリシュナの目と、アンリの驚きに見開かれた目とが交わる。

互いの鼻の先が触れてしまいそうなほど、互いの息が直にかかるほど、互いの顔がすぐ目の前にある。


狂気を滲ませる笑みを浮かべたクリシュナは、ニタリと口角を上げながらも生理的な涙を一筋流していた。

アンリは、そんなクリシュナの鬼気迫る雰囲気に気圧されて、思わず息を呑んだ。



「何度もやめてくれって頼んだよ。みっともなく泣き喚いて命乞いをしたこともある。

けどあいつらは、一度だって僕らの言葉に耳を貸してくれなかった。

これは世界の、人類の未来のためなんだと詭弁を並べて、僕らを道具のように扱った。

いや、壊れないように慎重に使われていた道具の方がまだ大事にされていたかもしれない」


「………っ、」


「初めて生爪を剥がされたのは8歳の頃だ。

剥がれた瞬間は指そのものが爆発して吹っ飛んだんじゃないかってほど熱くて、痛かったのを覚えているよ。

痛みは一秒経つ毎にどんどん強くなっていって、どくどくと赤い血が溢れてきて手足に纏わり付いた。

その時最初に発した言葉は、嫌だ、だったかな。何分まだ幼くて、知っている言葉が少なかったから、ひたすら痛いとやめてを繰り返した。

助けて、やめて、お願い。怖いよ、お母さん、お母さん。

人間、他に頼れる相手がいないと無意識に母親に助けを求めてしまうようでね。僕らにお母さんなんて存在はないのに、キオラは喉が潰れそうなほど何度も叫んでたよ。

冷たい顔をしたお母さんじゃない人達に向かってね」


「キオ、………」


「初めて骨を折られたのは10歳の時だ。

最初はただ骨を絶つために叩かれていただけだったのが、次第にエスカレートしていって、最後には両手足を捩るようにして砕かれたよ。まるで雑巾を絞るように。

ああ、あれは18歳の頃だったかな。怪物みたいに大きくて冷たい機械の入口に無理矢理足を入れられて、挟まれた自分の足がゆっくり左右に捻れていくのを感じた。バキバキと骨が砕けていく音が聞こえた。

あの時は流石に叫び過ぎたみたいでね。途中で全く声が出なくなって、代わりに掠れた咳と血を吐いたよ。喉が中で切れてしまってそこから出血したんだ。

実験が終わって機械から引っ張り出された足を見た時には、そのグロさに驚いて吐きそうになった。

さすがにこれはいくらなんでももう元には戻らないんじゃないかって思ったほどね。

ま、結果はご覧の通りだけど」



丁寧に、詳細に、老人が若かった頃の思い出話でも語るように、クリシュナは一方的に話し続けた。

途中アンリが口を挟もうとしても、頑なに割り込む隙を与えなかった。

とにかくクリシュナは、瞬きすら忘れるほどに話し続けた。


まだ幼かった彼と彼女の心に、決して消えることのない影を落とした痛みと恐怖の記憶。


実験が行われる度、子供のキオラはただただ苦痛に喘ぎ、最後には会ったこともない母親の幻影に縋っていた。

姿を見たことも声を聞いたこともない、母親という名の神聖な存在にしがみ付くことで、なんとか人としての意識を保とうとしてきた。


窮地に追いやられた時、人はつい神様に助けを請うてしまうものだが、当時のキオラにとっては神様よりも母親の方が力強く、そして遠い存在だったから。

幼いキオラの頭には、神様と母親は同じほどに尊く、非現実的な存在として認識されていたのだ。



「光も音もない、なにもない狭い空間に何日も閉じ込められた時には、自分が今息をしているのか生きているのかすらわからなくなったよ。

じわじわと闇に食われていくみたいに手足の感覚がなくなっていって、酸素はあるはずなのに上手く呼吸ができなくなる。

実験が終わってやっと明るい外に連れ出された時には、光と音の情報が体当たりするように一気に流れ込んできて、頭が割れそうになった。

酷い頭痛と目眩と嘔吐感に襲われた。けどなにも食べていなかったから吐くこともできなかった。ケアを受けた後もその状態が三日続いた。

……ああでも、一番怖かったのはやっぱり水責めかな。

ガラス張りの大きな水槽の中に僕がいて、天井のスプリンクラーから冷たい水が降り注いでくるんだ。

水槽は何時間もかけて少しずつ水で満たされていって、僕は酸素を求めて水面に顔を出した。餌をせがむ魚みたいにね。

けど、それも最後にはできなくなって。完全に水で一杯になった水槽の中で、僕は失神するまで放っておかれた。

水槽に水が溜まっていくあの感じは、まさに死が迫ってくるようで本当に怖かったよ」


「キオラ」


「大の男に首を絞められて失神して、蘇生措置を施されて意識が戻ったらまた首を絞められるの繰り返しだったり。

僕の体はどこをどんな風に刺すのが一番出血するのか、ダーツバーで遊ぶ感覚で全身をアイスピックで刺していったり。

毒を注射された時は、僕の体の中をなにかが食い荒らすような激痛に襲われて声も出なかったよ。

背中を火で炙られるとどんな風に感じると思う?一日中逆さ吊りにされるとどうなると思う?吐瀉物が喉に詰まって呼吸困難になった経験は、」


「キオラ!!!」


「違う!!!!!」



マシンガンのように絶え間なく、そして一切の淀みなく、クリシュナは淡々と喋り続けた。

それはまるで、自分の本心を隠すために、虚勢という名のバリアを全身に張っているかのようだった。


そんな彼の痛々しい姿を見ているのが辛くて、アンリは何度も制止の言葉をかけようとした。

だが、いざ声を出そうと口を開くと、クリシュナが胸倉を掴む手にぐっと力を入れてきて、なかなか切り出すことができずにいた。


しかし、アンリもとうとう痺れを切らして、タイミングを見てキオラの名を叫んだ。

これ以上自分自身を卑しめるような言い方をするなと。

辛い出来事を無理に思い出したりするなという思いを込めて。



するとクリシュナは、キオラと呼ばれた直後に更に激昂し、アンリの声に食い気味に怒鳴った。


震える吐息は、懸命に涙を堪えている証。

今にも崩れ落ちてしまいそうな脆い精神を、意地だけで支えている証拠だった。


アンリの気持ちを弄ぶような皮肉たっぷりの物言いは、精一杯の強がり。

あえて核心からは少し遠い話題にすり替えてきたのは、自分の本心を相手に見透かされないようにするため。

だから、語る口ぶりはまるで台本の台詞を読むようで、声は感情が死んでいたのだ。


本当はもう、息をするのも辛いはずなのに。

彼等はもう、身も心もボロボロで、怒りと憎しみの感情だけがその身を支えている。



「ッ僕は、僕の名前は、クリシュナだ!!キオラじゃない!!!

僕は、キオラとは違うんだよ!!!」



先程までは、自分とキオラは結局は同じ人間なのだということを強調していたのに、今度は打って変わって、自分達は違う存在なのだとクリシュナは怒った。

意見が一貫していないのは動揺している証拠で、彼の中でもまだ迷いが生じているということでもある。



"同じ人間だけれど、なにもかもが同じではない。"

"本当の自分を、誰かに知ってほしい。誰にも知られたくない。"

"キオラとクリシュナと、二つの個性とが合わさって、一人の人間なのだと。

全てを余さず受け止めてくれる器がほしい。"

"僕らが辛くて泣いている時に、そっと抱きしめてくれる腕がほしい。涙を拭ってくれる指がほしい。"


荒くなった呼吸も、悲痛に歪んだ目元も。

どんなに歯を食いしばっても、ポーカーフェースを気取ろうとしても。

一度乱れてしまった心は、そう簡単に偽ることができなかった。



「僕らが今まで、どんな目に遭ってきたかわかるか?何度死にたいと願ったか知っているか?

あいつらは、研究だなんだと大義名分を掲げて、実際はただ楽しんでいただけなんだよ。

幼い女の子が痛みにのたうちまわる姿を見て興奮していたんだ。ストリップのショーでも見るように。

いつもいつも、厚いガラスの向こうから、黙ってこっちを見ていたあいつらの顔は、ほくそ笑んでいたんだ。

哀れむどころか、もっともっとって、僕らを追い詰めて面白がってたんだよ!!!」



当初の飄々とした振る舞いはどこへやら、最早歯止めが利かなくなってしまったクリシュナは感情的に喚き散らした。

アンリの胸倉を掴む手からは徐々に力が抜けていき、声も段々と細く、高くなっていく。

赤く濡れた目からは、ぼたぼたと大粒の涙が溢れている。


アンリの顔に、クリシュナの冷たい涙が数滴落ちる。

アンリは、自分も思わず貰い泣きしてしまいそうなほど、胸が締め付けられて苦しかった。



「誰も助けてくれない。誰も守ってくれない。

僕には親なんていないし、この世界に神様なんていない。

だから、僕がキオラの神様になってあげたんだ。誰も助けてくれないから、彼女は自分で自分の身を守るしかなかった。

痛いのも苦しいのも、感じているのは他人の自分だから。自分は関係ないから大丈夫だって、何度も自分に言い聞かせて、ずっと耐えていたんだ。いつもギリギリのところで保っていたんだ」



アルターエゴの彼が、自らをクリシュナと名乗る理由。

それは、自分がキオラを守る守護神になるためだった。

だから、神様と同じ名前を付けた。


キオラが自分自身を守るため、自分の心が完全に壊れてしまう前にと、無意識に生み出したのがクリシュナだった。


痛いこと、苦しいこと、悲しいこと辛いこと。

自分の身に降り懸かる全ての悪いこと、嫌なことを、もう一人の人格と分け合うことで無理矢理にキャパシティーを広げた。

激しいストレスに耐えうる術を身に付けた。

そうして、己の破滅を限界ギリギリのところで防いでいた。


弱く幼い少女が、追い詰められた末に搾り出した知恵。

誰も助けてくれないのなら、私が私を守ってあげるしかない。

私が、私にとって一番の理解者になってあげるしかない。



女の子よりも、男の子の方が強い。

弱虫よりも、大胆な方が逞しい。

苦しい時はただ我慢するんじゃなく、上手く発散できるようになれたらいい。

殻に閉じこもったままじゃなく、いざという時は堂々と踏み出していけるような、勇気と度胸があればいい。


幼い頃から、キオラがなりたいと思ってもなれなかった自分自身の理想像。

もし自分がこんな人間だったら、きっと今よりも辛くなかったはず。

今の自分と全く違う自分になれば、辛い記憶とも少しは上手に付き合えるかもしれないと。


そして生まれたのが、クリシュナだった。

本来のキオラとは正反対に異なるキャラクターで、だが傷付きやすく繊細な一面だけは変えられなかった、彼女の分身。



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