Episode27-3:Remember me?
「……じゃあ、ここに君が来たことも、キオラは知らないんだな。
君が俺の現在地を把握していたのは何故だ」
「それは簡単なことさ。君の携帯にこっそりGPSを仕込んであるからね」
「俺の携帯に……?」
アンリがこの状況で一番に引っ掛かった疑問を問うと、クリシュナはさも当然のように首を傾げて答えた。
まさか自分の携帯にそんなものが仕込まれていたとは知らなかったアンリは、テーブルの上に置かれているそれを一瞥すると、怪訝に眉を潜めて再びクリシュナに目をやった。
「それも君の仕業か。いつだ?」
「三ヶ月前。君とキオラがエリシナでデートをしていた、まさにあの日だよ。
カフェで食事をした時、途中でお手洗いに立った君の隙を見て、ちょちょいっと細工させてもらったんだ。
けど安心していいよ。情報を感知できるのは僕だけだから、変な奴らに君達の居場所が嗅ぎ付けられたりはしない」
「隙を見たといっても、精々5分強の短い時間だったはずだ。
たった数分の間に、君はキオラと肉体を入れ替え、細工をして、それから再びキオラと入れ替わったというのか」
「その通りだよ。
…普段、僕からキオラに意識をバトンタッチする時は、ある儀式を行わなければならない。そしてその儀式は、僕自身の意思が伴っていない限り成立しない。
意識の交替におけるイニシアチブは、今のところ僕に権限があるからね。
だから、僕はキオラの意思に関係なく肉体を乗っ取ることができるけど、その逆は無理。僕が、はいどーぞって進んで席を譲ってやらない限り、キオラは絶対に表に出て来られないんだ。
けど、さっきも言った通り、精々5分程度の短い交代なら、儀式がなくても僕の意思一つでキオラを呼び戻すことができる。
……なんなら、今呼び出してあげようか?」
あくまで交代人格に過ぎないクリシュナが、主人格のキオラに何の断りもなく勝手を働いていることに対して、アンリはやや立腹していた。
自分達の位置情報が他に割れていなかったことは不幸中の幸いだったが、いくら危険でないとはいえ、本人に無断で様子を探られていたなどあまり気分のいい事態ではない。
しかし、ようやくいつもの調子が戻ってきたアンリが睨みを利かせても、クリシュナは全く怯むことがなく、むしろアンリを挑発するように鼻で笑っていた。
彼が言うには、クリシュナが表に出ている時に、キオラがクリシュナの意識を押し退けて肉体を奪取することは不可能らしい。
クリシュナはいつでも自由に肉体を乗っ取ることが出来るが、逆にクリシュナからキオラに意識を交代する際には、そのためのある儀式的行動と、クリシュナ自身に交代してもいいという意思がない限り成立しない。
つまり、主人格であるキオラよりも、所詮彼女の紛い物に過ぎないクリシュナの方がイニシアチブを有しているということなのだ。
クリシュナが頑として譲らないと心に決めてしまったら、キオラは半永久的に彼に支配され、二度と表に出て来られない可能性すらある。
ちなみに。
クリシュナがアンリの携帯にこっそりGPSを仕込んだのは、食事の席でアンリがトイレに立った時のことだった。
キオラに対しては全面的な信頼を寄せているアンリなので、わざわざトイレにまで荷物を持ち込んだりはせず、携帯も自分の席に置いたままにしていた。
その信頼をクリシュナは利用し、瞬時にキオラの意識を奪うと、事前に用意していた器具とデータを用いてアンリの携帯に細工を施してしまったのだ。
それはあっという間の出来事で、やることを済ませたクリシュナが意識を潜めると、再び入れ替わったキオラはなにも知らないまま戻ってきたアンリに声をかけた。
まさか、自らの体を利用され、もう一人の自分が知らず知らず勝手を働いていたなどとは思わずに。
「そんな調子で、いつも好き勝手にキオラの体を利用していたのか。
……彼女の綺麗な手を、君が汚い血で汚したのか」
すると、アンリの核心を突いた物言いに、クリシュナの雰囲気ががらりと変わった。
余裕たっぷりにほくそ笑んでいた顔はたちまち表情を失い、おどけるように竦めていた肩も、ぶらぶらと気まぐれに揺らしていた脚もぴたりと動きを止める。
突然静かになったクリシュナは無表情でアンリの顔を見詰め、アンリは返事を待たずに続けて切り出した。
「殺人の意思があったのも、それを実行したのが君でも、実際に人を殺めたのはキオラの体だ。彼女自身に記憶はなくとも、彼女の手は何度も血に濡れている。君がそうさせている。
…当然、このこともキオラは知らないんだろう?
同じ体を共有しているのに、彼女にはなんの相談もなく、君は殺人という罪を犯してきたのか」
「……知った風な口を利くね。僕が、意図して彼女を陥れているとでも?」
アンリの厳しい言及に、クリシュナは不快感をあらわにした顔付きでゆっくりとアンリの方へ近付いた。
やがてベッドのすぐ側で立ち止まると、月光により細長く伸びたクリシュナの影が、アンリの全身を覆い隠すように落ちた。
「俺に君を咎める権利はない。きっと、君にもなんらかの思惑があってやったことなんだろうと思う。
…だが、どういう経緯であれ、君は彼女に罪を共有させていることになる。
万が一このことが公になるような事態になれば、責められるのは君ではなく、彼女だ。実際にやったのは君でも、非難は君と肉体を共有する彼女に集中する。
殺したのは私じゃなく、もう一人の自分なんだと訴えたところで、だったら君は無実だから許そうだなんて免罪が都合よくまかり通ると思うか?」
「億が一、そんなことが起きてしまった場合には、僕がキオラを庇う。非難の的になんて絶対にさせない。
キオラが傷付かずに済むように、ほとぼりが冷めるまで絶対に表には出さないさ」
「不毛だな。ほとぼりが冷めたところで、君の犯した罪は永遠に消えない。
犯行に至った相当の動機が明らかになり、裁判官が君を哀れと許しても、キオラは一生人殺しのレッテルを貼られたまま生きることになる。
親しかった友人達は急によそよそしくなり、世間も彼女を冷たく敬遠するようになるだろう。
なにも知らないキオラが、ふと目覚めた時にそんな逆境に立たされていることを知ったら。突然なにもかもが変わってしまった世界を前に、彼女はどう思う?」
先程まではクリシュナの気配に圧倒されていたアンリだが、今はクリシュナに食ってかかるほどの強気な姿勢を見せている。
クリシュナは、アンリに痛いところを突かれたのが悔しかったのか、苦虫を噛み潰したような顔でアンリを見下ろした。
「…君の言うことも一理ある。だが、君は根本的なことをわかっていないよ」
「なに?」
「さっきの言い分だと、まるで僕がそうしたいから無茶をしたように聞こえるけど、違うよ。
もう一つ人格が確立しているからといって、僕とキオラは同じ人間だ。僕だって、元々はキオラの一部に過ぎないんだから。
君はキオラのことを真っさらな天使のように思っているみたいだけど、彼女は昔から深い憎悪を抱えて生きていたよ。表には出さないだけで、少なくとも純真無垢な女の子じゃなかった。
だから僕は、彼女が心底願っていても決して実現できないことを、代わりに叶えてやったんだ。
キオラが殺したいほど憎いと、心の中でいつも叫んでいたから、だから僕が引き受けてあげた。
奴らを殺したがっていたのは、彼女も一緒だ」
ギシリと音を立ててベッドの端に膝を着くと、クリシュナはギラギラと獰猛な光を帯びた目をこれでもかと見開いて、座っているアンリに詰め寄った。
けれどアンリは、今にも飛び掛かってきそうなほどの気配を放つクリシュナを見ても、不思議と落ち着いていた。
こちらが反応する様子を見て面白がり、自分にとって都合の悪いことを指摘されると途端に不機嫌になる。
気分屋で自分勝手で、沸々と込み上げてくる感情を上手くコントロールできない。
その姿はまるで、子供のようだと。
「君の言う通り、彼女の胸には深い闇が埋まっていたのかもしれない。だが、殺意を伴う怒りは、誰にだって芽生える可能性のあるものだ。
俺だって、殺したいほど憎い奴はいる」
「だったら、」
「それでも、俺は殺さない。キオラも、殺したいほど憎んでいる相手を実際に手にかけたりはしない」
「どうしてそう言える?君は僕らとは違う人間なのに」
「人間だからだ。
知性と文化を有し、他者を思いやる心を持つ人間だからこそ、俺もキオラも人を殺さない。殺したくとも殺せない。
その躊躇いが人の弱さであり、美しさだ。誰かを傷付けた分だけ、自分も傷付く。それが人間だ。
もし君の意識が、もう一つの人格として別れていなければ、キオラは決して人を殺さなかった。同じだけの憎しみと殺意を抱えていたとしても、キオラは君のように突発的な行動には走らなかった。
元々は同じ人間だとしても、君とキオラとでは心の在り方が違う」
クリシュナの脅迫紛いな態度にも屈することなく、アンリは冷静に、そして力強く言った。
自分に酷い目を遭わせた酷い連中を、殺したいほど憎んでいる。
その気持ちは理解できるし、同情するからこそ、クリシュナが人を殺めたこと自体をアンリは咎めるつもりはなかった。
むしろ、報いを受けた被害者達のことをいい気味だとすら思っていた。
だが、もしこの世にクリシュナというもう一人の自己が生まれていなければ。
キオラはきっと、どれほどの深い闇を抱えていても、他者を傷付けるような真似はしなかっただろう。
クリシュナは元々キオラの一部で、言ってしまえば分身のような存在だ。
彼女の中で燻っていた残忍さや冷酷さのみが分離して、もう一つの自我として段々と形を成していったものだ。
故に、クリシュナが持つこの狂気じみた思想も、本来はキオラが抱えていた悪意なのだ。
あくまでキオラの中にあったものを、クリシュナが引き継いだに過ぎない。
彼女は昔から、きっとアンリと出会うよりも前から、ゴーシャークのメンバーに対して明確な殺意を向けていた。
それでも、今までその殺意が凶器に変わらなかったのは、彼女の中の理性と情けが彼等への殺意を抑えていたからだ。
殺したい。けれど、自分に人殺しなんて恐ろしいことはできない。
憎悪と臆病と優しさが同居し、交錯し、躊躇いと葛藤がキオラの体を束縛していたからこそ、彼女はとっさにナイフを手にとってみても、それを構えることはできなかった。
だから彼女は、何度も自殺を図ろうとしたのだ。
殺せないのなら、自分が死ぬしかないと。
反して、キオラの黒い感情のみを糧にして成長したクリシュナには、慈悲や慈愛の概念が極端に欠落している。
沸き上がった怒りをセーブする術を、持たないのではなく知らないのだ。
彼の意識は全て、キオラを中心にして成り立っている。
常にキオラのことを第一に考え、キオラを傷付ける者、キオラを愚弄する者を絶対に許さない。
クリシュナにとって情けの対象となるのは、キオラと、キオラに害を及ばさない者だけ。
よって、キオラの存在を軽んじ、苦痛を強いてきたハイタカの彼等は、クリシュナにとっては虫以下の価値すらないということだ。
彼等に対してある感情は、揺るがない敵意と、なににも影響されない強固な殺意のみ。
元々は一人の人間で、同じ思想を持つ両者だが、キオラが殺人に否定的である反面、クリシュナが肯定的である理由は一つ。
誰に対しても優しさを持ち合わせているキオラと違い、クリシュナは自分の気に入った相手にしか優しくしない。
故に、一度敵と認識した人間には全くの容赦がない。慈悲の意識が薄い分、人を傷付けることにも躊躇いがない。
憎しみと優しさ。
その両方を持ち合わせているのがキオラだとするなら、そこから半分に別れて、憎しみだけが大きく膨らんでしまったクリシュナには、もう自分自身を抑えることができない。
気が済むまで殺し続ける他に、彼の痛みを癒す方法はないのである。




