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オルクス  作者: 和達譲
Side:A
172/326

Episode27-2:Remember me?



「…その口ぶりだと、随分前から僕の正体を看破していたようだね。

いつから疑っていた?」



ふと歩みを止めたキオラは、コートのポケットに両手を突っ込みながら、再び開いている窓の縁に腰かけた。


ベッドにいるアンリとはいくらか距離があるが、真っ直ぐにこちらを見詰めてくるキオラに、アンリは心臓を握られているような気分になった。



「……もしかして、と明確な疑念を持つようになったのは、モーリスの屋敷の前で初めて君の姿を見た時だ。

当時は夜も深い頃だったし、君はさっきのようにフードを被っていたから、顔ははっきりとは確認できなかった。

…だが、フードの影から、一瞬だけこちらを睨む鋭い瞳が見えて。俺は、この目を知っていると思ったんだ。

会ったこともないはずの君のことを、俺は何故か知っている気がすると、思った」


「既視感、ってやつか。さすが、君は相変わらず抜け目がないね」



喉元に刃物を押し当てられているような緊迫感。

キオラの刺すような目付きに、アンリは無意識にシーツを握る手に力が入った。



「三ヶ月前、エリシナで会った日。君が、暴走する車から逃げ遅れた子供を、助けに行った時。

突然、人が変わったように走り出した君を見て、いつものキオラじゃないと思った。

君は勇敢で優しい女性だから、すぐに子供を助けに向かったことは不思議じゃなかったけれど…。

その時の様子は、…どこか、不自然だと思った。

まるで、なにかが君の体に乗り移ったようだと、思った」



思い出されるのは、つい三ヶ月前に二人がデートをしたあの日のことだ。


ヴィノクロフで最も大きな街、エリシナ。

二人が初めて出会ったその街で、昔よく一緒に行った公園で待ち合わせをして。

それから、食事や散歩をしながら他愛のない話をして、互いに久々の再会を喜んだ。

アンリにとって、キオラと共に過ごす時間は、一分一秒が幸福に満ちていた。


しかし、その道中で二人は思わぬ事故に遭遇した。

結果的には何事もなく済んだのだが、あと一歩間違えていれば、キオラはあの出来事で命を落としていたかもしれない。



ドライバーが突然失神を起こしたことにより発生した、自動車の暴走事故。

猛スピードで歩道に突っ込んでいったその車から、キオラは間一髪のところで一人の幼い少年を助け出した。


彼女は昔から情に厚い人で、困っている人を見掛けたら放っておけない人で、純粋に子供が好きな人だった。

故に、彼女がとっさに少年を救出に向かったのは、当然といえば当然のことだった。

彼女の心掛けは称賛するべきものであって、疑いの目を向ける余地はなかった。



ただ、一つだけ。

あの状況を間近で目撃したアンリには、一つだけ腑に落ちなかったことがあった。


あれは、本当にキオラだったのだろうか。

生まれつき重い神経の病を抱え、激しい運動は精神的にも肉体的にも危険であるとされていたはずの彼女が、当時は弾丸の如き俊敏さで行動していた。


事故の発生をいち早く予知していたからといって、少年とキオラの間にはかなりの距離があった。

それは、健康な成人男性の自分ですら、ギリギリ手の届かないような遠い場所だった。

最初に異変に気付いたのがキオラでなければ、あの少年はほぼ間違いなく車に衝突されて即死していただろう。


そう、キオラでなければ、間に合わなかった。あの少年は助からなかった。

あの場に居合わせた誰より、体が弱く足も遅いはずの彼女が、この人知を越えた奇跡を引き起こすことができたのだ。



アンリの脳裏に、当時のキオラの姿が蘇る。

車の異変を察知するやいなや、何かに突き動かされるように一気に走り出した彼女は、精悍でやや獰猛とも言える顔付きをしていた。


キオラのそんな顔を見たのは、幼馴染みのアンリですら初めてのことだった。

故にアンリは、驚きと同時に一抹の違和感のようなものも覚えた。


そしてその朧げな違和感は、後にある青年と出会ったことで微かな輪郭を持った。


モーリス・アイゼンシュミットの屋敷の前で、偶然にも出くわした謎の青年。

恐らく、一連の猟奇殺人事件の犯人と思われる彼と、あの時のキオラの雰囲気が、偶然にも重なってしまったのである。



「……驚いたな。君の前では、出来るだけ鳴りを潜めていたつもりだったんだけど。まさか感づかれていたとはね」


「………キオラ、君は…」


「ああそうだよ。あの時の僕はキオラであって、キオラではない。

……別に、車のドライバーがどうなろうと、知ったことではなかったんだけどね。

でも、このままではあそこにいた少年が巻き添えを食うと思ったて。そうしたら、体が勝手に動いていたんだ。

僕は大人は嫌いだけれど、子供のことは好きだから。

大人のせいで子供が死ぬところなんて、見たくなかったんだよ」



普段の彼女より幾分低い声でそう言うと、キオラはアンリの言葉を遮るようにまくし立てて、切なそうに目を細めた。

そして、ポケットに突っ込んだ両手を横に伸ばし、コートの裾を鳥の羽のように持ち上げると、子供のように無邪気な笑みを浮かべた。



「僕の名前はクリシュナ。

キオラ・シャムシュロヴァ・グレーヴィッチの肉体を共有する、もう一つの人格。

わかりやすく言うと、多重人格ってやつかな?」



キオラの肉体でありながら、アンリの知るキオラとは全く異なる振る舞いをする彼の正体は、キオラから派生した二人目の人格。

俗にいう、アルターエゴという存在だった。


実はキオラは、以前から解離性同一性障害、所謂多重人格を抱えていたのだ。

故に、アンリが想いを寄せている方のキオラが主人格であるなら、今ここにいるキオラは交代人格ということになる。



交代人格の彼の名はクリシュナというらしく、性自認は男性であるとのこと。

本人が言うには、主人格のキオラがアンリと接している時だけは表に出たことがなかったという。


しかし、先日の自動車事故が発生した際には、無意識に人格を交代してしまっていたようだ。

結果的に、クリシュナがアンリの前に姿を現したのは、あれが初めての機会になってしまったと。



アンリがあの時覚えた妙な違和感の理由は、主人格のキオラから交代人格のクリシュナにスイッチが切り替えられた瞬間を目の当たりにしたからで、まさに人が変わった一瞬を目にしたからだったのだ。


つまり、最初に車の異変に気付いたのはキオラだが、その後少年を助けに向かったのはクリシュナだったということ。



アンリは、これまでのことが全てキオラ自身によるものではなく、実はもう一人の人格が密かに働いていたということを知って、安堵すると同時に苦い気持ちを覚えた。



「…君の存在を、彼女は知っているのか?

自分の体に、もう一つの人格が共存していることを」


「知らないよ。僕はキオラのことをよく知っているけれど、キオラの方は僕が存在していることすら知らない。

意識を交代する時は、いつも僕が強引に体を乗っ取るような形で入れ代わるからね」


「じゃあ、時々キオラの記憶が飛ぶのは…」


「僕のせいだね。

言っただろ?僕は知っていても、彼女はなにも知らないと。

僕はキオラが見ている世界を共有することができるけれど、キオラには僕が表に出ていた時の記憶がない。

だから、いつも君とキオラがどんな話をしているのか、僕は知っていても、今僕と君が話していることを、キオラは知らない。知ることもない。

キオラと僕と、二人分の記憶を保有できるのは、僕だけなのさ」



クリシュナは、ポケットから出した手で自分の頭を小突いたり、耳の穴から糸を引き抜くようなジェスチャーをしながら、話の内容を身振り手振り付きで表現した。

それはまるで、幼子に絵本を読み聞かせるような丁寧な口ぶりで、自由自在に変化する表情はあどけなさすら感じられた。



何故クリシュナというもう一つの人格が生まれたのかは不明だが、そのことを知っているのは当のクリシュナだけで、キオラには全く自覚がないのだという。


交代人格のクリシュナには、キオラと自分と、二人が経験した分の記憶を全て保有することができるが、そもそもクリシュナの存在を認知していないキオラには、当然クリシュナと肉体を交代している間の記憶がない。

故に、キオラが時折酷い物忘れをしたり、実際にあったことをないことのように感じたりしていたのは、クリシュナが強引に表に出ていた影響から来るものだったのだ。


その話を聞いて、アンリはこれまでのキオラの記憶障害の謎をようやく理解した。



「なにも知らない、というのは、逆にどこまでなら知っているということなんだ?

彼女は、……自分が生体実験の末に生まれた人間だと、知っているのか?」


「知っていることには知っているよ。

ただ、後から意図的に記憶を消されたから、今は自分のことを普通の人間だと思っているけどね」


「主人格のキオラが記憶を失くし、交代人格の君だけが全てを覚えているのか?」


「所謂マインドコントロールって奴だね。強い暗示と劇薬を使って、一時的に関連の記憶を削除されてる。

ただ、そういう時はいつもキオラが表に出ていて、僕は中で眠っていたから。主人格のキオラには有効でも、交代人格の僕にまでは効果が及ばなかったみたいだ。

だから、僕だけは全部覚えてる。奴らが無理矢理に、彼女の中から奪っていったものの複製を、僕が全部管理してる。

味わわされた痛み、苦しみ、怒り、憎しみ。

キオラが世界一不幸で可哀相な子なんだってことを知っているのは、世界でただ一人、僕だけなんだよ」



そう言うとクリシュナは、思い切り背中をのけ反らせると、窓から首だけを出して森の木々に囲まれた夜空を見上げた。

彼女、もとい彼の真上に浮かんでいる明るい月は、スポットライトを当てるようにクリシュナに淡い光を注いだ。



キオラは、自分の正体について知らない。

自分が造られた人間だということも、酷い生体実験の被害者であるということも。


だがそれは、後から意図的に記憶を消されただけなのであって、血塗られた事実がなくなったわけでも、キオラが強いられてきた苦痛が、傷がなくなったわけでもなかった。


現に、マインドコントロールを施されたキオラ本人と違い、クリシュナは今までのことを全て覚えている。

二人分の経験値と記憶を余さず蓄えてきたクリシュナには、実験室で八つ裂きにされていた当時のキオラの気持ちも、感覚も、我がことのように鮮明に覚えている。


キオラの記憶を奪い、これで一安心だと胸を撫で下ろす研究員達の姿を、いつもキオラ越しに眺めていたから。



クリシュナは、キオラと違って喋り方も歩き方も、一挙一動に伴う表情の変化も多彩で、一見すると彼女によく似た双子の弟のようにも見える。


だが、時折ふっと見せる穏やかな表情や、憂いを帯びた眼差しはキオラそのもので。

やはり二人は似て非なる別人なのではなく、同じ人間なのだという現実が、重くアンリの胸にのしかかった。


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