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オルクス  作者: 和達譲
Side:A
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Episode26-8:ドクターウルフマン



「───ショックを受けているところ悪いが、ゼロワンに関する話はこれで終いではない。

これ以上は辛くて聞けないというならやめておきますが、どうします?

続き、聞きますか?」



屋敷を訪ねた当初と比べ、すっかり意気消沈した様子の一同を眺めながら、ウォレスは心配して声をかけた。

アンリはいいえと答えると、慌てて涙を拭うマナの頭を撫でてから、背筋を伸ばしてウォレスの顔を見つめ返した。




「もう大丈夫です。ウォレスさんさえ良ければ、続きをお願いします」




真実を知ったショックは無論大きかったものの、それ以上の使命感がアンリの背中を押した。


辛いからといって目を逸らしてはいけない。ここまで来て、今更引き下がってなるものか。

逃げるなどという選択肢は最初からない。

後はもう、ゴールまで全力で突っ走っていくだけだと。


すると、アンリの目に再び決意の炎が灯ったのを見て、ウォレスはエヒトに目配せをした。

エヒトは頷くと、全員分のカップに紅茶を注ぎ足していった。




「それじゃあ、これは私が研究所を出ていく少し前の話になるんですがね。

その頃、プロジェクト始まって以来の事件が起きたんですよ」


「事件?」


「実は、ゴーシャークという組織は二つのチームに別れていましてね。

一つは先程ご説明した、肉体的変動を実験するチーム。そしてもう一つが、精神的変動を実験するチームです。

前者は通称"晩成隊"と呼ばれ、ゼロワンの体に直接傷を付けて、経過を観察するのが仕事でした。

一方、後者の"早成隊"と呼ばれていた方は、ゼロワンを精神的に追い詰めて、感情の起伏が細胞にどのように作用するかを見ていました」


「精神的に追い詰める、とは具体的にどういう意味なのでしょうか」


「そうですね。例を上げるなら、自由を拘束する空間に長時間閉じ込めるとか。

トイレと水しかない部屋に三日、音と光を完璧に遮断した部屋に五日、猛烈に暑い部屋、または寒い部屋に七日…。

他には、子供の体がギリギリ納まるサイズのトランクに詰め込んで、それをその辺に転がしたり、高い場所から落としてみたり。やり方はまあ色々です。

あとは、肉体的にも精神的にもダメージのある拷問行為なんかも、彼ら早成隊の担当でした。

三日三晩物を食わせない、水につけて溺れさせる、死なない程度に火で炙るなど…。

要は、どこまでがゼロワンにとっての限界なのかを調べるため。

発狂を通り越して、一切の反応がなくなる状態まで憔悴したら、ようやくゼロワンの許容範囲が確定したと見なされ、実験は終了となる。

泣こうが喚こうが一切無視。疲れ果てて感情が死に、しまいにぴくりとも動かなくなるまで、ゼロワンは彼らの生きた玩具として扱われるのです」




ゴーシャークの中には、実験内容の異なる二つのチームが存在し、彼らはそれぞれ手分けしてゼロワンの体と心を破壊した。


先程話にでた"晩成隊"と呼ばれる面々がゼロワンの"体"を担当。

彼らと対をなす"早成隊"がゼロワンの"心"を担当していた。


一言で言うなら、肉体をいたぶるか、精神をいたぶるかの違いだ。

晩成隊の実験内容は暴力を伴うが、早成隊の実験は洗脳や拷問行為に近い。


音も光もない部屋や、逆にいつ騒音が鳴り響くかわからない不規則な部屋に、何日も閉じ込めたり。

激しい空腹や睡魔に苦しませ、衰弱死寸前のところまで放っておいたり。

揺さぶりの手段は様々で、中には実在する拷問方法を用いたこともあったという。


そうしてゼロワンの精神状態を極限まで持っていって、その時々の感情の起伏により、細胞がどのように変化するかを観察していたのだ。


しかし。




「実験終了後は、その都度カウンセラーに状態を見てもらい、ゼロワンの心の傷をケアしていたといいます。

まめに手入れをしてやらなければ、完全に壊れて、人間に戻れなくなってしまいますからね。

しかし、度を越した苦痛を繰り返し強いれば、次第にケアの効果が追い付かなくなり…。ゼロワンのストレスは蓄積していくばかりとなる。

……やがて、積もりに積もったストレスと恐怖は、激しい怒りと憎悪に変わり…。洗脳が全く効かなくなる限界まで膨れ上がった。

そして、最後には破裂した」


「破裂して、どうなったんですか」


「殺したんだ。早成隊のメンバー6人、全員をね」




早成隊の行き過ぎた拷問行為により幾度となく発狂し、何度も人間の限界を越えかけていたゼロワン。

だが、いつもそのギリギリのラインで実験は打ち切りにされていた。

何故かというと、完全に心を破壊してしまったら、二度と人に戻れなくなってしまうからだ。


過度の苦痛と恐怖に支配された体は、本能的に思考することを放棄し、自衛のため自ら情緒を、感情を手放してしまう。

思考もせず、意思も持たなくなってしまったら、それは人の形をした獣も同然となる。

否、本能に従って能動的に狩りを行う獣の方が、まだ賢く生き生きとしているだろう。


故に彼ら早成隊は、ゼロワンの意識がまだ辛うじて保たれている瀬戸際を見極め、ゼロワンが駄目になってしまわないよう配慮した。


実験終了後は、強い暗示を施してそれまでの記憶を消し、経験した苦痛と恐怖の感覚をゼロワンの体内から消し去った。

仕上げに、優秀なカウンセラーに綿密なケアをさせることで、ゼロワンの精神状態を実験前の穏やかな状態にリセットした。


そうすることで健康な精神が維持され、ゼロワンのみずみずしい感覚が損なわれずに済むだろうと。

毎度新鮮な反応が見られれば、何度でも実験が行えると高を括っていたのだ。



しかし、その理屈は大きな誤りだった。


確かに、実験が始まった当初は暗示の効き目も強く出ていた。

ゼロワンにとって辛い記憶のみを取り除くことができたし、カウンセリングの方にも多少は効果が見られていた。


だが、一時的に忘れさせることはできても、完全に記憶を抹消することなど不可能。

回数を重ねる毎に暗示の効き目は弱くなっていき、中途半端に意識を濁らせた状態ではカウンセリングも馬耳東風だった。



覚えているようで、でも思い出せない。

どこか気持ちがふわふわとしていて、眠いような、気怠いような感じがする。

なのに、時折訳もなく胸が苦しくなったり、震えが止まらなくなったりすることがある。

この感覚は一体なんなのか。覚えがあるのに、意味はない気がする。


暗示の効果が薄れてきたゼロワンは、そんな不可思議な感覚に度々襲われ、発狂するのとはまた違う意味で危うい精神状態の中をさ迷うようになっていった。


やがて、一切の暗示も劇薬も効かなくなった時。

これまでの記憶が一気に呼び覚まされたゼロワンは、突如牙を剥いて早成隊に襲い掛かった。




「ゼロワンが覚醒したのは、実験が終了してすぐのことだった。

当時行われていた実験内容は、確か中国発祥と言われる水滴拷問だったと聞きます」


「仰向けに寝かせた対象の額に、一定の間隔を置いて延々と水滴を垂らし続ける、とかいうトンチキなやつでしょう?」



シャオが横から注釈を入れると、ウォレスは感心するように肩を竦めた。




「そうです。よくご存知で。

その水滴拷問をやった直後に、突然ゼロワンがキレたんですよ。

最中にも散々嫌がって暴れたそうですが、全身を固定されていたために動けなかったようでね。

やがて衰弱し、声も上げなくなった頃合いを見て、今回の実験はここまでと切り上げられた。

そして、いつも通り弱ったゼロワンにケアを施そうと、早成隊の面々が実験室に集まった時。

拘束を解かれた瞬間に、ゼロワンは近くにいた奴から手当たり次第に殺しまくった。

私は現場を見ていないので、詳しいやり方は知りませんが…。ゼロワンはあっという間に早成隊の面々を皆殺しにし、実験室は血の海になったそうですよ」




話に出た水滴拷問というのは、中国発祥と言われる拷問の一種で、文字通り水滴を用いて対象を苦しめるものである。


対象者を仰向けに寝かせた状態で固定し、その額に一定の間隔で水滴を垂らし続ける。たった一滴ずつ。

すると、いつまた水滴が落ちてくるかわからない緊張状態により、対象者の精神は次第に擦り減っていき、最後には気が触れてしまうのだという。


当時ゼロワンに実施した水滴拷問は、前述にあった光と音を遮断した部屋で行われたとされている。

故に、視覚と聴覚を奪われた状態でのこの拷問は、通常よりも触覚が鋭敏になることから、よりゼロワンの精神に負荷をかけただろうことが窺える。


そして実験終了後。

様子を見に来た早成隊の面々がゼロワンの拘束を外すと、ゼロワンは一人も逃すことなく、瞬く間に彼らを手にかけてしまった。




「その後のゼロワンの処遇はどうなったんですか?

重要人物を6人も殺めたとなれば、さすがに今まで通りとはいかないでしょう」


「勿論、速やかに対処されたそうですよ。

残念ながら、ゼロワンの行動があまりに性急すぎたせいで、襲われた早成隊の面々を救出することは出来なかったようですけど。

……事件が発生して間もなく、ゼロワンには強い睡眠薬と幻覚剤が投与され、実験室も一時封鎖という扱いになった。

それからはまあ、色々と大変だったようですが。

今度は時間をかけてゆっくりと暗示を施し、更に効き目の強い劇薬を使うようになったそうなので、再び記憶を消されたゼロワンは少しずつ落ち着いていったといいます」


「ということは、この件でプロジェクトそのものが中止になったわけではないんですね?

ゼロワンを大人しくさせて、また実験は再開されたと」


「ええそうです。言ったでしょう?奴らは人間じゃないと。

自分達の犯した罪が明らかになってもなお、奴らは絶対に蹂躙を止めないし、罪悪の意識に苦しむこともない。

……あの事件の直後に私が研究所を辞めたのは、そろそろ潮時かとタイミングを見ていたのもありますが。

情けない話、恐ろしくなったんですよ。人づてに経緯を聞いただけでも、私はもうこんなところにはいたくないと恐怖に駆られた。

いつかは、完全に覚醒したゼロワンに全員殺されるんだろうと思いましたから。だから、ビビって逃げたんです。

こんな獰猛そうな顔をしているくせに、我が身可愛さで全て放って逃げ出したんですよ、私は。おかしいでしょう?」




自嘲するように鼻で笑いながら、ウォレスは自分の頬を指先で撫でた。



予てより辞職の意思があったウォレスだが、この一件が最後の駄目押しとなり、彼は現場から去った。


いつゼロワンの怒りが自分に向くか、研究所に残してきた連中が自分の口を封じにくるか。

そんな自らの先行きを案じながら、素性を隠してキルシュネライトに引っ込み、今やこうしてエヒトの元で匿われるに至ったのだった。



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