Episode26-7:ドクターウルフマン
ウォレスの話によると、特別資料室と呼ばれる部屋は、マグパイ研究所とゴーシャーク研究所の内部に計三カ所存在していたという。
ゼロワンのデータを保管している部屋、ゼロツーのデータを保管している部屋。
そして、歴代代理母達のデータを保管している部屋。
それぞれに資料内容を振り分けて管理されていたため、全てのデータを閲覧するためには、当然三つの部屋全てに足を運ばなければならなかった。
つまり藍子は、一カ所の資料室で纏めてデータを洗い出したのではなく。
二つの部屋を移動して、代理母体とゼロツーに関するデータのみを閲覧したということになる。
何故もう一つゼロワンに関するデータとゴーシャークの実験記録が保管されている資料室が存在することを見落としたのかは不明だが、当時の彼女は突然事実を知って動揺していたに違いない。
ウォレスは予め覚悟を決めていたので冷静に対処することができたが、藍子は資料に目を通して初めてプロジェクトの真相を理解したのだ。
加えて、当時はまだゼロツーが生まれて間もなかった頃。
このままではゼロツーも危険な目に遭うかもしれない、という懸念が、焦りが、彼女の視野を一時的に狭まらせたとするなら。
つい気持ちが急いで、実はもう一つ秘密の資料室が存在することに気付かずに、発作的な行動に走ってしまったのだとしても不思議ではない。
「私が指令官に昇格した時にも、特別資料室の存在については詳しくは説明されませんでした。あくまで昇格を機に出入りが許されたというだけで、進んで勉強してくれとは言われませんでしたしね。
ある程度、総指揮官やゴーシャークの信頼を得ない限り、彼らはそう易々と手の内を明かしてくれない。
まあ私は、彼らに教わらずとも、自分の執念だけで全部暴いてやりましたがね」
「資料室の数は全部で三つ…、なんですよね。
ゼロワンのデータ、ゼロツーのデータ、そして代理母体となった女性達に関するデータ…。
その中で、ゴーシャークの実験内容が記されたデータと、ゼロワンのデータが保管されている部屋が同一であるのは何故ですか?」
「それは当然、ゴーシャークがゼロワンの存在あってこその組織だからですよ。
ゼロワンの誕生を機に新設された部署が、今のゴーシャーク。
当時はまだ私がプロジェクトに参加していなかった頃なので、これは人から伝え聞いた話ですが。
ゴーシャークのメンバーとして選ばれたのは、マグパイの中で特にフェリックス氏を盲信していた連中だったそうですよ」
フェリックスの側近のみで構成されているというゴーシャークは、実はプロジェクトが始まった当初には存在していなかった部署だった。
後にゼロワンの誕生に伴って、ゼロワンの成長過程を記録するための部署を設立することが決定。
三羽目の鳥として、ゴーシャークが生まれた。
メンバーには、当時マグパイの構成員として在籍していた研究員の中から、フェリックスが直々に指名をするという形で選出された。
つまり、当時まだマグパイだった彼らが、後にゴーシャークのメンバーになったということだ。
彼らは特にフェリックスの野望に賛同していた信者だったそうで、信頼できる手下を侍らせる目的もあってフェリックスはゴーシャークという組織を作ったのかもしれない。
「そして、肝心のゴーシャークの実態というのが……。
先程、そちらの彼もおっしゃっていたことですが、彼らは単に高等教育を行っていたわけではない。
勿論、ゼロワンをより優秀な人材に育てるため、ありとあらゆる知識と技能を仕込んでいたようですが…。ゴーシャークの本来の目的は別にある」
話の途中で一度言葉を詰まらせると、ウォレスは眉間の皺を更に深くして息を吐き出した。
そんなウォレスの様子をエヒトは心配そうに見詰めるが、口は挟まない。
「………ウォレスさん?」
代わりにアンリが呼びかけると、ウォレスは再び顔を上げて、逆光に光る眼鏡の奥からぎろりとアンリの目を見詰め返した。
「ご子息を前に、こんなことを言うのは忍びないですがね。
はっきり言って、君のお父上は人間ではない。あれは、悪魔の所業ですよ」
"悪魔の所業"
ここに来る前から覚悟はしていたことだったが、実際に当事者から父の非道さを語られてしまうと、一応は彼の息子としてアンリは複雑な気持ちだった。
「───さて、ここからが本題だ。
少々無駄話が過ぎましたので、ここからは手短にご説明致しましょう。
ゴーシャークの行っていた実験というのはつまり、ゼロワンの再生能力を確かめるためのテストです。
ゼロワンには生来、桁外れな自己回復能力と、菌や毒などに対する耐性が備わっていた。
そしてそれは、破壊と再生を繰り返す毎に、どんどん進化していったといいます」
「自己回復能力とはつまり、傷の治りが人より早いということですか?」
「端的に言うとそうです。ゼロワンはこれまで一度も体を壊していないし、怪我を負っても自力ですぐに治してしまうのです。
見た目は至って普通の人間ですが、中身は鉄かなにかで出来ているような、強靭な肉体を持っていた。
……ゴーシャークと君のお父上がやっていたことはつまり、…ゼロワンはどこまで追い詰められれば死ぬのかと言うこと。
意図的にいたぶって、傷付けて、破壊された部位が完治するまでにどれほどの時間を要するか。その経過を見ていたんです」
総指揮官であるフェリックスの采配で、手下のゴーシャーク達が実行していたとされる、"ポテンシャルを底上げ"するための実験。
有り体に言うとそれは、ゼロワンの肉体に外面的内面的なダメージを与え、破壊と再生行為を繰り返し行わせることで、ゼロワンの体をより強靭なものに作り替えるという目的の実験だった。
苦痛を強いることで、それに応じた耐性をつけさせる。
これは後のワクチン開発に役立たせるための重要な過程なんだと手前勝手な詭弁を並べ、罪のない子供に終わりの見えない絶望を与えた。
言ってしまえば彼らは、寄ってたかって無抵抗の子供をいたぶり、ゼロワンを肉体的にも精神的にも追い詰めていたのだ。
この話にはまだ続きがあるが、冷静に耳を傾けているのはシャオと、既に事情を把握しているエヒトのみ。
アンリ達は今のウォレスの言葉を聞いただけでも絶句してしまった。
「………。意図的に傷付ける、とは…。どの程度のもの、なんでしょうか」
「最初は、……ゼロワンが生まれて間もなかった頃は、精々皮一枚分傷痕を残すくらいの小さなものだったんですがね。
……しかし、成長に伴って、ゼロワンの回復能力は日増しに高まっていった。
怪我を負い、それを治すという行為を繰り返す毎に、ゼロワンの肉体は耐性がついて、どんな傷でも自力で完治させられるほどに強く、逞しくなっていったんです。
……ですが、それでも実験が途中で打ち切られることはなかった。
ゼロワンの回復能力が上がっていくにつれ、ゴーシャークの奴らの行為も次第にエスカレートしていった。
殴って、蹴って、切り付けて。それに耐性がついたなら、次は指を、手を、足を折った。
それも平気になってきたなら、今度は刺すなり焼くなりの致命傷を与えて、放置した」
「致命傷を与えた状態で、なんの処置も施してやらずに放っておくんですか」
「そうだ。流石にこのままでは死ぬかもしれないと判断された場合に限り、最低限の治療は施していたそうだが。それも精々気休め程度のものだ。
あくまでゼロワンが自力で再生するための手助けをしてやるだけで、傷の縫合も痛み止めの投与もほとんどない。
あいつらは、痛みにのたうちまわる幼い子供の姿を、ただ見ていたんですよ。安全な場所から、まるでショーでも観劇するようにね」
外から致命傷を与えても、内に致死レベルの病原菌を忍ばせても。
ゼロワンは持ち前の驚異的な回復力で、あらゆる逆境にも困難にも打ち勝ってきた。
現に、ウォレスが研究所を辞めるその時まで、ゼロワンは無事に生きていたようだった。
資料に明記されたデータを見ても、ゼロワンの肉体には一切の傷痕も後遺症も見られないとのことだった。
ゴーシャークによる過度の実験行為によって、心身共にずたずたに破壊されてきたゼロワン。
だが、その体は何度繰り返し傷付けられても、生まれたままの美しさを保ち続けていたという。
ただ、肉体の傷が癒えても、心の傷が塞がることはない。
いくら最後には元通りになるといっても、これまで数え切れないほど味わわされてきた痛み苦しみは、ゼロワンの精神に多大な負担をかけた。
「誤解のないように一応言っておくが。ゼロワンは回復能力が尋常でないというだけで、人並みに痛みは感じるし、恐怖も覚える。
付けられた傷痕は時間と共に消えてなくなるが、刺激を受けた当時の記憶は決してなくならない。
激しいストレスで一気に髪が抜け落ちたこともあれば、フラッシュバックに襲われて発狂したこともあった。
何度も研究所を脱走しようと試みて、自殺を図ろうとしたことも数え切れないほどあった。
だが、その度にゼロワンはゴーシャークの奴らに捕まり、再び地獄の底へと引きずり込まれていったんです。
……やがて、強い洗脳により意思を失ったゼロワンは、全てを甘んじて受け入れるようになった」
やけに淡々と語るウォレスの表情は、虚ろだった。
改めて当時を振り返るのが辛いのか、とにかく事実を説明することだけに意識を向けて、一時的に思考回路をストップさせているようだった。
知られざるFIRE BIRDプロジェクトの裏側。
人類の更なる栄華と繁栄のため、犠牲となってきた数多の命。
アンリの隣に座るマナは、口元を手で覆いながら声を殺して泣き出した。
マナの右隣にいるジャックは、そんな彼女の背中を優しく摩ってやっている。
ジュリアンもまた、マナ同様に肩を強張らせた。
シャオは珍しくポーカーフェースを崩し、不愉快そうに表情を歪めている。
今マナとジュリアンの胸中にあるのは、見ず知らずのゼロワンに対する同情と、深い憐憫の気持ち。
同時に、二人の大切な人達のことだった。
マナは恋人のチェルシーを、ジュリアンは友人のマノンを。
もし今、愛しい彼女達の身にもゼロワンと同じような惨劇が降り懸かっていたら。
そう思うと、二人の胸は怒りと不安で張り裂けてしまいそうだった。
そんな中、アンリは血の気の引いた唇をきつく噛み、憤って震えそうになる手足を、強く拳を握り締めることで堪えていた。
今は亡き父、フェリックスが、正常な感性を持った人間でないことは昔から感じていたことだった。
だが、まさかこれほどの残忍さを秘めていたなどとは、流石にアンリも想像していなかったのだ。
"悪魔の所業"とは、なにもウォレスの個人的な所感ではない。
たとえ、フェリックスに対して悪い感情を持っていない第三者であっても、今の話を聞けばウォレスの言葉に同意するだろう。
こんなことが、許されていいはずがない。
こんなことは人間の所業ではない。人間に出来ることではない。
俺の父は、人間ではない。
この体には、非道で残酷な、悪魔の血が流れているのか。
そう自覚した途端、アンリは全身がうずくような、血潮が沸騰するような激しい衝動に駆られ、とっさに自分の左腕を右手で掴んだ。
今にも暴れそうになる体を押さえ付けるように。
すると、そんなアンリの様子に気付いたシャオが、優しくアンリの肩に手を乗せた。
目が合うと、彼はなにも言わずに静かに頷き、しっかりしろとでも言うように力を込めてアンリの背中を叩いた。




