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オルクス  作者: 和達譲
Side:M
157/326

Episode25-3:肌でわかるんだよ



それからおもむろに立ち上がったバルドは、ふと窓際の方へ目をやった。




「───ヴァン!

お前さっきからそこで動かないでいるが、どうしたんだ?

飯の時も、あんまり食ってなかったろ」




バルドが声をかけた相手は、随分前から一言も喋っていないヴァンだった。


窓際に寄せた椅子に深く腰掛け、じっと外の景色を眺めている彼は、バルドがシャワールームに向かう前も戻ってきてからも、その場から動いていない。

四人で同じ空間にいるというのに、ソファー周辺で団欒するバルド達とは一戦を引くように我関せずを気取っている。


先程ルームサービスで夕食を頼んだ際にも、ヴァンだけはほとんど手を付けなかった。

誰より食い意地の張っているあのヴァンが、高級ホテルのご馳走も喉に通らないほど思い悩むだなんて、終ぞなかったことだった。


そんな彼の異変に朔を含めた全員が気付いていたが、誰もどうしたのかと聞くことはできなかった。

彼から滲むピリピリとした雰囲気に気圧され、迂闊に話しかけられなかったからだ。



しかし、このままではいけないと痺れを切らしたバルドが、代表してヴァンに訳を尋ねた。

するとヴァンは、バルドの方を一瞥してから、また外の景色に目をやった。




「別に、なにもない。

さっきはあまり腹が減っていなかっただけだ」


「嘘をつけ。腹の具合に関係なく、出されたものはきっちり綺麗にするのがお前だろう。

……どうしても話したくないというなら、無理には聞かないが。

お前がやけにピリピリしている理由がなんなのか、なにか原因があるなら俺達にも話してくれないか」




優しく問い掛けるバルドに対し、ヴァンは素っ気のない態度で返事をした。


彼はいつも表情が薄く、一見なにを考えているのかわからないところがあるが、信頼する相手とは面と向かってコミュニケーションをとるようにしている。

不器用だが、いつも彼なりに仲間と向き合おうとしていて、その真摯で裏表のない姿勢が彼の長所でもあるのだ。


故に、今のように相手と目も合わせず、まともに取り合おうとすらしないヴァンの態度は、最初に出会ったミリィですら見たことがない姿だった。



これにはきっと、なにか重要な訳があるはずだ。


冷たく突き放すような言い方をされても、バルドはめげずにヴァンに話し掛けた。

そんな二人の緊迫したやり取りを、ソファーの背もたれから恐る恐る顔を出す東間と朔も見守る。




「………。すまん。俺の態度が、お前達の気に障ったなら謝る。

だが、別に俺はどうともしていない。むしろ、今までの方が変だったくらいだ」



ヴァンはしばらく考え事をするように目を細めた後、前髪をかきあげてぼそぼそと喋り始めた。




「変?どの辺りがだ?お前がおかしいなんて、俺達は一度も思ったことないぞ。

なあ?東間、朔」


「ええ」

「はい」



バルドが同意を求めると、東間と朔は同時に深く頷いた。

それを見てヴァンは、益々難しい顔になって溜め息を吐いた。




「………お前達は、昔の俺を知らないから、そんなことが言えるんだ。

あいつに出会ってからすっかり平和ボケしてしまったが、俺の本職は殺し屋だ。

その事実はどうやったって覆らんし、消えて無くなりはしない」



ヴァンの言わんとしていることが今ひとつわからなくて、三人は困った表情で互いに顔を見合わせた。


片やヴァンは、どこか遠い目をしながら、抑揚のない声で淡々と語り続けた。




「最近、忘れかけていた。自分が何者であるのかを。

お前達と一緒に旅をするのが、つい楽しくてな」


「………ヴァン、」


「殺し屋として一人で生きていた頃は、こうして話す相手もいなかった。

いつ誰に寝首をかかれるかわからないから、行きつけの店以外では滅多に外食をしなかったし、ベッドでぐっすり寝たこともなかった。

だから、今の俺は少々、……いやかなり、甘ったるい空気に浸り過ぎているような気がしたんだ。

お前達が側にいると思うと、つい安心して。まるで自分が、普通の人間になったみたいに錯覚する」




ヴァン・カレンは殺し屋だった。

人を殺すことで、彼は飯を食っていた。


ミリィに拾われたのだって、殺し屋という生業をきっかけに行き着いた結果だし、ヴァン自身己の本分を忘れたことは一度もなかった。


だが、ここのところの彼は、時折幸福のような温かいものを感じると同時に、胸が爛れるような鈍い痛みも覚えるようになっていた。



ミリィに出会ってからというもの、ヴァンは一度も人を殺していない。


誰に虐げられることもなく、咎められることもなく、刺客に背後をとられる心配もない。

こんなに開放的で健やかな日々は、ヴァンにとってなにもかもが生まれて初めての経験だった。


以前までの彼なら、食事をする時にはまず毒が入っていないか細心の注意を払った。

眠る時はいつも寝心地の悪い椅子や固い床の上で、30分以上続けて睡眠をとらないようにしていた。


殺し屋という物騒な職業柄、仕事をこなした分だけ自分を恨む相手がいる。

復讐心に燃える彼らがいつ牙を向けてくるかもわからない。

犯罪者の自分を引っ捕らえたくてうずうずしている国際警察や、賞金首を狙って一攫千金を目論むハイエナのような輩もいる。


誰のことも信用ならない。

常に何者かがこちらを見ている気がして、追い掛けられているような気がして。

初めてその手で人を殺めたあの日から、ヴァンは一時足りとも心が休まったことはなかった。



そんなヴァンが、ミリィ達に出会って最初に得たもの。

それは、紛れも無い安心感だった。


共に支え合い、語り合い、いざという時には自分の背中を預けられる仲間がいる。

その心強さに、ヴァンは生まれて初めて"楽しい"という感情を覚えた。


まるで砂を噛むような感覚で、腹を満たすためだけに仕方なくとっていた食事も。

目を閉じると時間が過ぎるだけで、一度も心地好いと感じたことはなかった睡眠も。

当たり前だった、一人で過ごす時間も。

彼らに出会って、なにもかもが変わった。


食べると舌は味を感じるようになり、眠りから覚めるとまどろむような感覚が全身を包み、話し掛けると返事が返ってくることが、面白くて嬉しい。


今まで、自分の中の五感は全て停止していたのではないかと思うほど、少しずつ、じわじわと、全身に血が巡っていく感じがわかる。

世界が色付いていくのがわかる。

幸せとはこういうことなのかもしれないと、漠然と理解する。



だが、彼にとって幸福とは、喜びであると同時に苦痛でもあった。


人を殺すことで生計を立てていた自分は、最早人の皮を被った悪魔も同然。

日の当たる道を堂々と歩く資格はないし、人並みに笑うことも許されない。


最初はただ、純粋にミリィ達と一緒にいるのが楽しいと思った。

自分の話を聞いてくれる相手がいることが。朝目覚めた瞬間に、誰かの温かい気配があることが、ただ嬉しかった。


そして気付いた。

自分は、このままではいけない気がすると。




「あいつは、俺を買った時に言った。自分を守り、自分に付き従えと。

だから俺はあいつと一緒にいる。命を救われた恩に報いるため。あいつを守るために、俺はここにいる。

だが、いずれあいつが、悪の本山に王手をかけて、目的を果たしてしまったら、俺はいらなくなる。

あいつが実現させた平和な世界に、殺すことしか能のない俺は、邪魔にしかならない。だから俺は、その時が来たら、あいつの前から消えなくちゃならないんだ。

そういう契約で、俺達は一時的な主従を築いた」




他に行く当てもなく、当初は仕方なく協力を承知しただけだった。

こんな見るからに若僧といった軽薄な男に、心から忠誠を誓う気など更々なかった。

ほとぼりが冷める頃合いを見計らって、飽きればいつでも捨てて行けばいいと思っていた。


ところがだ。

気付けば彼は、()の人の背中を追い掛けて行くのが当たり前になっていた。

義務でも責任でもなく、自分の意思で彼の人を守りたいと思うようになっていたのだ。


あの、触れればあっという間に壊れてしまいそうな薄い肩も。

寂しさに泣くようにうなだれた、鮮やかな赤い髪も。

いつしか、放っておけないと思うようになっていたのだ。



"お前が必要だ"



真っ直ぐにこちらを見詰めてくる瞳。差し延べられた手。

あの時、自分を冷たい檻の中から救い出してくれた人が、彼の人でなかったら。

今頃自分はどうしていただろうか。


きっと、早々に裏切って、恩を仇で返していたかもしれない。

なにもかもをなかったことにして、さっさと自分の世界に戻って、一人きりの日々に逆戻りしていたかもしれない。


なのに、今の自分は、ミレイシャ・コールマンという頼りのない青年に未だに付き従っている。

それがどうしてなのか、なんとなくわかるようでいて、何故なのかよくわからない。


ただ。

この先、ミリィの方から別れを告げられる時がきたら。

きっと自分は、悲しいと思うのだろうということだけは、明確に理解できた。




「───契約、か。そういやお前達は、金で買って買われた関係なんだったな」


「そうだ」



ヴァンの言葉を聞いたバルドは静かに歩き出すと、部屋に備え付けてある冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを一本取り出した。


そして、中の冷たい水を一口飲んでから、壁に寄り掛かってヴァンに視線を合わせた。




「俺が合流したのは、既にお前や、ウルガノや東間が加わった後だったから、お前達がどんな風にしてあいつに口説かれたのか、話に聞く分にしか知らない。

だから、あいつに拾われた時、お前がどういう感情を抱いたのかも、俺には想像できない。

───だがな、ヴァン。

あいつは、その契約とやらを交わした時、お前に条件をつけたか?

全てを片付けたら、お前はもう用済みだと、あいつはお前にはっきりそう言ったのか」


「………いや。直接言われたわけじゃない。

だが、普通に考えたらそうだろう。俺はあいつのボディーガードとして雇われた。だから、その必要がなくなったら、俺の存在は必要なくなる」



バルドは、敢えてはっきりとは明言せず、ヴァンが自力で間違いに気付けるようにとヒントを出してやった。


だが、自分のこととなると途端に鈍感になるヴァンは、バルドの気遣いを汲み取ることが出来ず、怪訝に眉を寄せるだけだった。




「………ハア。どうしてウチのチームは、こうネガティブ思考の奴が多いんだ」



バルドは、困ったように溜め息をつくと、ようやくこちらを向いたヴァンの顔を指し示すようにペットボトルを持ち上げた。




「最初は変わった組み合わせと思ったが、お前達の相性が良い理由が、今やっとわかったよ。

ちぐはぐなようでいて、実は噛み合っているのは、お前とあいつの根っこが似ているからだ」




ヴァンに向かって突き付けられた、ペットボトルの底。

中の透明な水が揺らめくその奥には、バルドの確信めいた顔があった。


ヴァンとバルドの間には3メートル以上の距離があるが、ヴァンの視界にはまるでバルドがすぐ目の前にいるように見えた。



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