Episode22:少女のみている世界
11月8日。PM3:30。曇り。
先日の雪景色は見る影もなく、再び剥き出しとなった地面は、じわじわと迫るような冷気が立ち上らせ、人々の足元から体温を奪っていった。
薄暗い空には今にも一雨きそうな厚い雲が広がっており、真っ白なミーフと真っ黒なカラスとが交互に辺りを飛び回って、時折自らの羽を地上に落としていった。
参列者の頭上にふわふわと寄り添うそれは、雪のようにも花弁のようにも見えた。
そんな中、ミリィの目の前には、向かいに立ち並ぶ参列者の立ち姿と共に、一つの大きな柩があった。
光沢を帯びた漆黒の柩だ。
その柩の中で永遠の眠りについているのは、彼にとってかけがえのない、一人の美しい女性だった。
数人の関係者のみで執り行われるこの密葬は、数日前、突然の悲劇に見舞われて命を落とした倉杜花藍の死を弔うためのものである。
参列者の人数は、式の中心で哀悼を述べる神父や葬儀屋の数人を除いて16人。
花藍と特に親しかったミリィに加え、彼の友人であるシャノンとウルガノ。
そして、生前の花藍と交流のあった数少ない知人友人達と、スタンフィール夫妻だ。
花藍の娘の朔は、まだ表に出るには危険であることから、やむなく欠席させることとなった。
ミリィの一味であるトーリやアンリ一行も、花藍と直接の面識がないことから、朔同様にバシュレー家別邸にて留守を預かっている。
今更用心したところで、ミリィ達の存在は既に筒抜けであるのかもしれないが、念には念をということだ。
表向きにはただの主婦に過ぎなかった花藍の密葬に、キングスコートの子息であるアンリや、悪い意味で人目を引くヴァンが参列したとなれば、殊更に注意を引いてしまう。
花藍を殺害した犯人達は、きっとこの密葬の様子もどこかで監視しているに違いない。
故に、直接花藍と関係のあったミリィやウルガノを除いて、大所帯で式に参列するわけにいかなかったのだ。
やがて、式も終盤に差し掛かり、いよいよ花藍の遺体を送り出す目前。
参列者が次々と柩に花を手向けていく中で、ミリィはウルガノと共に静かに歩き出した。
柩の前で足を止めると、ミリィは黒く冷たい側面にそっと指を這わせた。
「───この中に、いるんだよな」
呟いたミリィの視線の先には、きっと穏やかな死に顔を浮かべた花藍がいる。
遺体に損傷があることから、彼女の姿が人目に晒されることはもうない。
だが、ミリィは数日前の司法解剖にも立ち会ったので、花藍の顔は見納めを済ませてある。
その時に改めて見た花藍の死に顔は、本当にただ眠っているだけなのではないかと錯覚させられるほど穏やかで、美しいものだった。
両隣にいるウルガノとシャノンが先に花を供えると、ミリィも柩を撫でていた手を引っ込めて、一瞬空を仰いだ。
「おやすみなさい、花藍さん。後のことは、どうかオレに任せて。
安らかに、眠ってくれ」
ミリィの言葉に呼応するように、その場に穏やかな風が通り過ぎていった。
ミリィは、花藍が好きだった白の胡蝶蘭を供えると、名残惜しそうにもう一度柩に触れてから、一歩ずつゆっくりと後ずさっていった。
葬儀屋達の手によって、地中深くに埋められていく花藍の柩。
急なことだったため、墓石は間に合わせのシンプルなものだが、後日もっと立派なものに取り替える予定とのことだ。
ミリィは、みるみる冷たい土に覆われていく柩を見詰めながら、半年前母を送り出した時のことを思い返した。
「ミリィ。辛いなら、泣いてもいいんですよ」
埋もれていく柩の方へ目を向けながら、ウルガノは心配そうに言葉をかけた。
ミリィは落ち着いた声色で答えた。
「……そうだな。けど。
どうしてか、今は涙が出そうにないんだよ。不思議だな」
すると、右隣にいるシャノンが、ふとミリィの頭を左手で引き寄せ、自分の肩に持たせかけた。
左隣にいるウルガノは、力無く垂れ下がったミリィの左手を取ると、自分の右手の指と絡ませた。
それから、式が厳かに幕を下ろすまで、三人は一言も口を利かなかった。
ただ、無言の中に二人の思いやりが込められていたのを、ミリィは確かに感じていた。
ーーーーーーーー
式終了後。
参列者が続々と解散していく中で、ミリィ達はそれぞれ別行動に移った。
ミリィと別れたシャノンは、一足先に送迎車の中で待機していることになった。
一方、現場に残ったミリィとウルガノは、共にある人物の元へと向かった。
スタンフィール夫妻。
花藍の遺言で、自分の身にもしものことがあった時には、娘の朔を彼らにと指名されていた人物だ。
たった一人の愛娘を托すほどだから、花藍にとっては心から信頼できる相手だったのだろう。
「スタンフィールさん」
ミリィに呼び止められて、こちらを振り返った初老の紳士は、夫のセシル・スタンフィールだった。
ロマンスグレーの髪を丁寧に纏めた彼は、右目周辺を覆うように火傷の痕を残しているものの、とても60代とは思えない若々しい容姿をしていた。
左手には杖を着いているが、背筋も真っ直ぐ伸びていて、年相応の老いを感じさせない。
「ご挨拶が遅くなってしまってすみません。先日お電話差し上げたコールマンです」
ミリィが頭を下げて挨拶すると、セシルも帽子を脱いで胸に添えた。
「……ああ、そうか君が。
初めましてコールマン君。私はセシル・スタンフィールだ。
君のことは、花藍からよく聞いていたよ」
軽い自己紹介を済ませた後、セシルはミリィの背後にいるウルガノにも会釈をした。
ウルガノもまたすぐに会釈を返したが、ミリィ達のやり取りに口は挟まなかった。
「こちらこそ、初めまして。
………失礼ですが、今日はセシルさんお一人で?」
「そうなんだ。家内は今体を壊していてね。どうしても起き上がるのが難しいようだったから、残念だけど式には欠席させることにしたんだ。
……この度は、本当に、残念なことになってしまったね。家内も、花藍の急逝に酷く胸を痛めていたよ」
切なげに眉を寄せたセシルは、痛みを誤魔化すように再び帽子を被った。
そんな彼の姿を見て、花藍の死を悲しんでいるのは自分だけではないのだと、ミリィは改めて感じた。
「───はい。ですが、こうして一緒に彼女の死を悼んでくれる人がいて、よかったです。
悲しいことですが、それだけでもオレは、ほんの少し報われた思いです」
ちなみに、セシルには10歳年上の妻がいるのだが、今は体を壊しているとのことで、残念ながら式には彼一人で出席することになったのだという。
「花藍さんが特に親しくしている相手と聞いていたので、お会いできる日を待っていました。
………状況が状況だけに、素直に喜ぶことはできませんが」
こうして時間を作ってくれたことへの感謝を込めて、ミリィはセシルに握手を求めた。
セシルも快く応じ、杖を持っていない方の手で優しくミリィの右手を握った。
その瞬間、手袋越しに触れた指の感触に違和感を覚え、ミリィはぴくりと反応した。
ミリィの反応を見て、セシルもはっとしたように短く声を上げる。
「ああ、すまない。ついいつもの癖で。
こっちで杖を握っているものだから、とっさに持ち替えるのをよく忘れてしまうんだ。歳は取りたくないものだね」
「……義手、ですか」
「そう。若い頃に事故でね。
でも、近頃の義手は随分性能が良くなったから、農作業をするのにもさほど不便は感じないよ」
困ったように眉を下げると、セシルは証明するように右手の手袋を脱いでみせた。
現れたのは、肘から下が人工の腕だった。
見たところ金属製ではないようだが、造りはとても精巧だ。
白地に黒の骨組みが敷かれていて、指の一本一本に渡って細かい細工が仕込まれている。
セシルが腕にくっと力を込めると、義手はミリィの目の前で拳を握ったり、開いたり、指先がバラバラと順に動いたりした。
これだけでも、機能性が確かなものであることを証明している。
「───君は、花藍と一番仲の良い友人だったそうだね。付き合いは長いのかい?」
手袋をはめ直すと、セシルは静かに口を開いた。
「いえ、まだそれほどでは…。出会って精々数年ですよ。
セシルさんは、花藍さんがプリムローズに越してきて間もない頃から、親交があったんですよね?」
「そうだね。その時はまだ、こっちに来て日が浅かったようだから。彼女と最初に親しくなったのは、私かもしれないね。
花藍はとても朗らかで良い女性だったし、娘の朔ちゃんは、当時はそれはそれは可愛い赤ん坊だったよ。本当に」
「……実は、そのことなんですが」
セシルは、詳しい事情は知らないながらも、朔が人より成長の早い体質であることは把握しているようだった。
生前に花藍がなんと説明していたのかはわからないが、彼の口ぶりから察するに、娘はなんらかの病気を患っているものと聞かされていたのだろう。
納得した様子で、倉杜親子に対して疑うようなそぶりを見せないセシルは、あの二人が本当にただの平凡な一家だと思っているらしい。
「電話でもお話しましたが、今朔は我々の方で預からせてもらってます。
近い内に、正式に彼女の後見人として認めてもらう手筈も整えています。
……ですので、あの子のことはどうかオレ達に任せてもらえませんか。少なくとも、今は」
ミリィが今一度事情を説明すると、セシルは浅く息を吐き出して、ミリィの目を見据えた。
「………それは、あの子が今日の式に参列しなかったこととも、関係しているんだね?」
「はい。既にお聞きになっているかと思いますが、今の朔はかなり危険な立場にあります。たかが強盗とはいえ、いつ犯人が口封じのため狙ってくるかわからない。
だから、今後はオレが守ってやりたいんです。
せめて、犯人が逮捕されて、安全が保証されるまでは、目の届くところにあの子を置いておきたい」
真相と異なる話をするのは心苦しかったが、ミリィは表向きに発表されている事実を基に、自分達の立場と訳を伝えた。
セシルは目を伏せて思案すると、納得したように二つ頷いた。
「なるほど…。あの子自身も、君と共にいることを望んでいるんだね?」
「はい。朔本人からも、花藍さんからも、既に許しは頂いています」
生前、花藍はスタンフィール夫妻にも今後のことを相談していたため、セシルはいつでも朔を受け入れられる態勢を整えていたという。
花藍の身にもしものことがあった時、すぐに身寄りのない朔を保護できるように。
しかし、それは他に当てがなかった場合の、最後の砦という意味だ。
花藍が最も信頼するミリィが名乗り出るのであれば、それに越したことはない。
「そうか。全員が納得しているのであれば、私から言うことはなにもないよ」
ミリィの真摯な態度を見て、セシルはすぐにミリィの申し出を認めた。
ミリィはもう一度頭を下げて、セシルの寛容さに感謝した。
「すみません。なにもかもこちらで決めてしまって…。
ご夫妻も色々と準備されていたでしょうに」
「いいんだ。朔ちゃんのことは気掛かりだが、君が側にいてくれるなら、それが一番だろう。
私のような老骨より、君のような年頃の近い相手の方が、きっとあの子も話しやすい」
杖を持ち替えると、セシルは生身の方の左手で、そっとミリィの肩に手を乗せた。
「花藍が信じた男なら、私も信じるよ。あの子のことは、君に任せる。
ただ、決して君は一人ではないのだということを、忘れないでくれ。
困った時は力になる。なにかあれば、遠慮せず相談にきなさい。
農家の退屈な家で良ければ、いつでも君達のために鍵を開けておくから」
先程初めて会ったばかりにも関わらず、心から親身な言葉をかけてくれるセシルに、ミリィはぐっと胸に込み上げてくるものを感じた。
「───はい。ありがとうございます。落ち着いたら、朔と一緒に、改めてお宅に伺わせて頂きます。
奥様にも、どうぞよろしくお伝えください」
穏やかな笑みを浮かべたセシルは、励ますようにミリィの肩を叩いた後、ミリィとウルガノの両方に別れの挨拶を告げて去っていった。
残された二人は、セシルの背中が見えなくなるまで、しはらくその場で頭を下げていた。
「いよいよ、ですね」
セシルの後ろ姿が随分小さくなったのを確認してから、背後で控えていたウルガノはミリィの隣に並んだ。
ミリィは胸の中で張り詰めていたものを解すように、そっと溜め息を吐いた。
「ああ。正念場ってのは、いつだって突然やってくるもんだ。こっちの事情なんてお構いなしにな」
「それで、これからどう動きます?最初の一手は、まずどこから攻めますか?」
ウルガノが尋ねると、ミリィは曇天の空を仰ぎながら独り言のように呟いた。
「今後の作戦については、実はもう大体の目処をつけてあるんだ。
もっとも、一度足を突っ込んでしまえば、ラストダンジョンに行き着くまで後には引けないけどな」
ふとミリィが隣を見ると、ずっとこちらを見ていたウルガノと目が合った。
「……どうする?リタイアするなら今のうちだぞ?」
冗談っぽく聞き返すミリィに、ウルガノは不敵な笑みを浮かべて答えた。
「ご冗談を。私は最後までお供しますよ。
あなたの背中は、我々が守ります」
ミリィは、そう言ってくれると思ったと返すと、最後に一言こう告げた。
「頼りにしてるよ、幸運の女神さん」
間もなく、二人が共に踵を返すと、たった今花藍の加わった墓地は穏やかな静寂に包まれていった。




