Episode21-3:弱虫の手なずけ方
勢いよく壁に背中を打ち付け、トーリの大きな手に衿元を締め上げられて、ミリィは苦しげに息を詰まらせた。
衝撃でとっさにつむってしまった瞼を開けると、目の前にいる彼は終ぞなかった激怒の表情を浮かべていた。
「どうしてそんなに冷静でいられる?どうして、こんな時まで平静でいようとする。
いい歳こいて駄々をこねるのはみっともないと思ってるのか?大人は人前で泣いちゃいけないと?」
溜まりに溜まったものを一滴残らずぶちまけるように、腹の底から搾り出した声でトーリは話し続けた。
ミリィは、そんなトーリの気迫に思わず硬直してしまい、呼吸することさえ忘れてしまいそうだった。
「そう思うなら、意地でもポーカーフェースを気取るというなら、完璧に演じてみせろよ。全員すっかり騙されるくらい、きっちり欺いてみせろよ。
本当に、あいつなら大丈夫だって思えるくらい、寸分の綻びなく強気で、気丈でいてくれよ。
……っなのに、なんだよ。あんな、…あんな死人みたいな顔で、足元ふらふらで…。
そんなんで、オレは平気だとかなんともないとか言われても、はいそうですかなんて、納得できるわけないだろ。
仲間が死ぬほど辛そうにしてんのに、心配しないわけないだろ!!」
ミリィの胸倉をきつく掴み上げたまま、トーリは力無く頭を垂れた。
だが、表情が見えなくなっても、ミリィの耳には彼の感情的な声が響いた。
「シャノンさん言ってたよ。全部一人で抱え込んで、全然自分を頼ってくれないのが辛いって。
こっちはそんなつもり全くないのに、いつも一方的に謝ってきて。なにもかもオレのせいだって、本気で思ってる君を見てると、悲しくてたまらないって。
困ってる時に相談もしてもらえないなんて、なんのための親友なんだろうって、歎いてたよ」
「………シュイ、が」
ぽつりぽつりと語りだしたトーリを前に、ミリィはぴたりと動きを止めた。
「弱音を吐かないことが美徳だと思ってるなら、それは君の勘違いだ。自分一人で戦っている気でいるなら大間違いだ。
確かに、一番辛い立場なのは君だろう。でも、苦しいのは皆一緒だ。
ウルガノも、ヴァンも、東間もバルドさんも、君のお兄さんも、…僕だって、本気で心配してるんだよ。
君が、何食わぬ顔で心配すんなって笑う度、僕らは余計に心配になるんだよ」
ミリィは、今までの人生の中で、友達と本気で喧嘩をしたことがない。
昔荒れていた頃は、ちょっとしたことですぐ殴り合いに発展したり、暴力を伴う抗争に巻き込まれたこともあった。
けれど、それらは所詮形だけの戦争。
本気で誰かと、心からの感情をぶつけ合った経験はないのだ。
それは、一番の親友であるシャノンに対しても同じ。
ミリィは彼に文句を言ったことは一度もないし、隠れて彼の陰口を叩いたこともない。
思えば、ミリィは今まで一度も、自分の本心を人に打ち明けたことがなかった。
好きな女の子にフられた時や、学校の授業で失敗した時。
少し落ち込んでいる程度なら、いつもの軽い調子で愚痴を零すことはあった。
だが、愛する母が死んだ時は。
本当に辛い時に限って、ミリィは心を閉ざしてしまった。
本当に悲しい時だけは、彼は素直に悲しいと歎くことができない性分なのだ。
言いたいことが言えない。
思っていることを、ありのまま言葉にできない。
それは、母と二人きりで細々と生きてきた少年が、自然と身につけた一種の処世術でもあった。
あの日、母と初めて衝突して、感情に任せて辛く当たってしまったこと。
あの時の苦い記憶が未だ根深く残っているせいで、今のミリィの人格に酷く影響してしまっているのだ。
"口は災いのもと"
教訓はいつしか呪いのようにミリィを束縛し、無意識の内に本音を押し殺す癖へと成長した。
不平不満を口にしたところで、どうせ自分の父は帰ってこないし、自分の存在を上書きすることなどできないのだから。
言ったところで変えられないものであるなら、表現するのは時間の無駄だと。
「あの頃の僕は、今の君のように冷静ではいられなかった。
姉さんが死んだと聞かされた時には、目の前が真っ暗になって、涙が止まらなくなった。
……姉さんが、神隠しに巻き込まれたかもしれないと過ぎった時には、別の意味で視界が真っ黒に染まった。
僕のたった一人の姉さんを、陥れて、苦しめている奴がいると想像した時。僕が真っ先に抱いた感情は、憎しみだった」
ミリィの胸板に重心をかけ、ゆっくりと顔を上げたトーリは、眼球が零れ落ちてしまいそうなほど大きく目を見開いた。
こちらを見上げてくる眼鏡越しの眼光に、ミリィの心臓はどくりと跳ねた。
「殺してやりたいと思ったよ。
どこの誰だか知らないけど、僕の大切な家族を奪っていったそいつを、この手で八つ裂きにしてやりたいと思った。
それが叶うなら、例え犯罪者になっても構わないと思った。
頭が割れそうなほど激しい怒りが込み上げてきて、止まらなかった」
狂気すら感じさせるその瞳が恐ろしいと思うのに、ミリィはトーリの目から目が離せなかった。
彼の言葉の一つ一つに体が反応して、心臓の音が地響きのように波打った。
振りほどこうと思えばできるはずなのに、硬直した手足はぴくりとも動かせなかった。
「でも、僕は自分のことをおかしいと思ったことは一度もないよ。
この殺意を伴う怒りも、憎しみも、人として正常な反応だと思うから。大事な人を失って気が変になってしまうのも、人間だからこそ逃れられない苦痛だ。
だから、僕の目に映る今の君は、"ヒト"じゃない。ヒトの皮を被った、中身のない喋る機械だ」
「………ち、がう」
ようやく振り絞った声は、上擦っていた。
「いつもいつも自分の気持ちに蓋をして、どんな時も傍観者でいようとする。
はっきり言って、気味が悪いよ。吐き気がする。
いっそ泣きわめいて、子供のように人肌を恋しがってくれた方が、よっぽど人間らしいし共感できる」
「オレは………、」
視界が明滅し、トーリの顔がじわじわとモノクロに染まっていく。
「それともなに?別に格好つけてるわけでもなんでもなくて、本当に全く感じていないだけなの?
花藍さん花藍さんって、悼むのは口だけで、実際はそれほど悲しんでないんじゃないのか?」
「ちがう」
頭の中で花藍の微笑みがちらつく。
煉瓦造りの古い屋敷で、彼女と共に過ごした日々がまた甦る。
「今までは、お母さんを失った穴を彼女が埋めてくれたみたいけど、もう必要なくなったとか?」
少しずつ姿勢を伸ばしていったトーリが、再びミリィを見下ろす側に回った。
ミリィの混乱に気付いている上で、彼は遠慮なく挑発を仕掛けていく。
「他にも君を支えてくれる女性が現れたから、花藍さんはもう君にとっての一番じゃない。
ウルガノがいれば、彼女は別にいらない女で、」
わざとらしく鼻にかけた声で、いかにも愚弄するようなニュアンスを込めて、最後には半笑いでトーリは言い放った。
しかし、ミリィはトーリの言葉を最後までは続けさせなかった。
「ッッそんなわけないだろ!!!!」
途中でミリィの怒鳴り声が劈き、トーリはとっさに口を閉ざした。
トーリの挑発に心揺さぶられ、段々と頭が下がっていったミリィは、最終的にトーリの足元で目線を留めた。
俯いたままそっと語り出した声は、微かに涙に濡れていた。
「ちが、違うんだ、オレは。オレが、……。っオレが、もっと早くに気付いていたら、花藍さんは、」
浅い呼吸を繰り返しながら、ミリィは掴まれた衿元に触れた。
しかし、無理に引きはがそうとはせず、右手でトーリの手首を力無く握った。
「………花藍さんは、一度そうと決めたことは絶対に曲げない人だった。誰かと約束事を交わした時には、よほどのことがない限り、自分からは破ったりしない人だった。
だから、気付くべきだったんだ。シュイのスピーチが始まっても、まだ来てないなんておかしいって。ダンスが始まっても、まだ来ないなんて、いくらなんでも遅すぎるって。感じるべきだったんだ、オレが。
……なのに、オレ。全然気が付かなくて。遅れてた理由が、そういうことだったなんて、想像もしなくて。
……っあの時、もっと…。もっと早くに、迎えに行っていれば。オレが、様子を見に行っていれば、花藍さんは、死なずに済んだかもしれないのに…っ」
"オレのせいだ"
最後にそう呟いた直後、ミリィの目からはらはらと雫が滴った。
やや熱を帯びたその雫は、トーリの親指の付け根に落ちた後、ゆっくりと床に垂れていった。
トーリは、胸ぐらを掴んだ手をそっと離してやると、二歩三歩と後ずさって距離を取った。
支えを失ったミリィは、途端にずるずると腰を抜かし、壁伝いにしゃがみ込んでしまった。
両膝を立て、右手で自分の顔を覆い隠しながら、ミリィは声を殺して泣き始めた。
トーリは、そんなミリィの姿を見下ろすと、浅く息を吐き出して、ようやく腑に落ちた表情を浮かべた。
「……まったく、君って人は。ここまで追い詰めてやらないと本音を言わないなんて。
強情にも程があるよ」
少し疲れた様子で呟くと、トーリもミリィの正面でどっかりと胡座をかいた。
礼儀作法や身嗜みに人一倍厳しい彼が、こんな風に姿勢を崩すのはとても珍しいことである。
しかし、今のトーリにそんなことを気にしている余裕はない。
眉間に皺を寄せながら眼鏡を外し、乱暴に前髪をかき上げると、トーリは再びミリィのうなだれた姿に目を向けた。
「ねえミリィ。君にとって、僕らって一体なんなの」
先程までの激しい口調とは打って変わって、いつもの穏やかな声でトーリは尋ねた。
ミリィは僅かに面を上げて、視線だけでトーリを見た。
「ただの同行者?いてもいなくても別に構わない、空気みたいな存在?」
「………」
「……仲間だと思ってるのは、僕だけなの?」
自嘲するような切ない笑みを見せたトーリに、ミリィはぐっと息を詰まらせた。
「最初は、君を利用してやろうと思って、付いて行くことを選んだ。
いざとなったら見捨てればいいし、あくまで、自分の目的を果たすための道具として、精々役に立ってもらおうと思った。
僕にとっての全ては姉さんだったから、姉さんを取り戻すためなら、もう手段は選ばないと決めた」
「………と、り…」
「でも、君と一緒に過ごすようになって。一緒に苦境を乗り越えていくようになって。……一人じゃなくて良かったって、つくづく思った。
ヴァンや、ウルガノや、東間やバルドさんと出会って、味方が増えて。皆で一緒に傷付いて、絶望して、その度に励まし合って。
一人じゃないって、こんなに心強いことなんだって、生まれて初めて、感じた」
屋敷の外から、子供達のはしゃぐ声が聞こえてくる。
彼等のあどけない笑い声は、ミリィとトーリの耳にも優しい響きを残していった。
「君を見ていると、自分がいかにちっぽけで、無力な存在かってことを痛感する。
前向きで、明るくて、自分の弱さを認める強さを持っていて。頭でっかちで根暗な僕を、いつも引っ張ってくれて。適当なようでいて、僕らのことをよく見ていて。
素直に、格好いいと思ったよ。こんな奴がいるんだって、正直憧れた。
あの時、君と一緒に行くと決めた僕の判断は、間違いじゃなかったんだって、思った」
今までに見たことがないほど、急にしおらしくなってしまったトーリに、ミリィはなにも口を挟めなかった。
ただ、黙って彼の話に耳を傾けた。




