Episode20-2:眠れない夜
やがて歩みを止めた朔は、閉められたカーテンの端をめくると、あらわになった窓ガラスに向かって深く息を吐き出した。
ハー、と吹き掛けられた暖かい吐息は、冷たいガラスに淡い白を残していった。
「───知ってる?ミリィ。
いつもよりちょっと早くに来た冬にはね、意味があるんだよ」
「……意味?」
先程まで沈黙していた朔が、外の景色を見据えたままおもむろに語り始めた。
その声はとても落ち着いて、一切の感情が添えられていないようだった。
「皆が寂しいよって思うとね、空から雪が降ってくるんだって。いつもより早く、風は冷たくなって、もう冬が来ましたよって、お知らせに来るんだって」
「……どうして、人が寂しがると、早くに冬が来るんだ?」
「……寒くなると、人は人の体温が欲しくなるから。
こんな寒い日には、側にいましょう、手を繋ぎましょうって、相手に伝えやすくなるから。
冬のせいにしてしまえば、好きな人と一緒にいる口実が、できるから」
「………へえ。そっか。確かに、そうかもしれないな。
その話、誰から聞いたんだ?」
急に饒舌になった朔にミリィは戸惑ったが、自分から話せるまでになったのは良い傾向のはずだと解釈し、普通に返事をした。
すると朔は、ミリィの何気ない問いに一度息を詰まらせてから、小さな声で呟いた。
「………おかあさん」
"お母さん"
小さな口から漏れ出たワードを聞いて、ミリィははっと顔を上げた。
しかし、朔の視線は変わらず窓の外に向いていて、ミリィと目を合わせようとしない。
しまった。
ミリィはとっさに、心の中で呟いた。
朔はずっと、体の不自由な母と二人きりで生きてきた。
自宅の屋敷からは滅多に出ない、悪く言えば閉鎖的な日常を送ってきた。
親しい相手といえば歳の離れた自分くらいのものだったろうし、他に友達と呼べる存在もなかった。
彼女にとっての世界には、母と自分以外に主な登場人物がいなかったのだ。
だとすれば、今の話を教えたのも当然、彼女の母である花藍以外にはいない。
少し考えればわかることだったのに。
やっと朔が自分から話してくれたことに安堵して、つい気が緩んでしまった。
こんな時に、彼女自身の口から、なにより恋しい母の名を告げさせてしまうなんて。
せっかく意識させないようにと話題を逸らしてきたのに、これでは全くの無意味だ。
オレはなんて、無神経なことを。
ミリィは自分の浅はかさに静かに腹を立てながら、立ち上がって朔の元へと歩み寄った。
しかし、あと一歩のところまで近付いた辺りで再び朔が語り出したため、ミリィは最後の一歩を踏み込む前に足を止めてしまった。
「あの時、おかあさん、初めてわたしに怒鳴った。
今まで、一度も怒ったことないのに、初めてわたしを怒った」
「………。」
「せっかく、パーティーにお呼ばれしたんだから、恥ずかしくない格好をしないとねって。わたしに、綺麗なお洋服、買ってくれた」
「……朔、」
「一緒にお着替えしてる時も、おかあさん楽しそうだった。
朔と一緒にお出かけできて、とっても嬉しいって、おかあさん笑ってた」
ふっと、なにかがその身に乗り移ったのではないかと思うほど。
姿勢も目線も一切動かすことなく、落ち着き払った態度で朔は話し続けた。
独り言を呟くように、すぐ側にいる自分の存在など、最初からなかったかのように。
こちらの動向に全く反応する様子のない朔に、ミリィはたじろいだ。
このまま、彼女の口からあの時の悲劇を語らせてはいけない。
辛いのなら、無理に話してくれなくていいのだと、そう伝えたいのに。
なのにどうして、こんな時に限って声が出ないんだ。
金縛りのような感覚が全身を支配し、朔に一切の干渉ができなくなってしまったミリィは、最早ただの傍観者でしかいられなかった。
「……でも、それから急に、おかあさんが怖い顔になって。
お家の庭に、変な人がいっぱい集まってきてるのが、監視カメラで見えたの。
みんな男の人で、真っ黒な服を着てて、お家の周りをうろうろしてた。
わたしも、あの人達が普通じゃないってこと、すぐにわかった」
「それって、………」
「それでおかあさん、わたしに地下室に行きなさいって言った。後でミレイシャくんが迎えに行くまで、絶対に出てきちゃだめって、すごく怖い顔で言った。
だから、わたし、急に、不安になって。おかあさんも一緒に行こうよって、嫌がったの。
……そしたらおかあさん、言うことを聞きなさいって怒りながら、きっと大丈夫だからって、わたしのこと抱きしめた。
だからわたし、鍵を使って、一人で、地下室に隠れたの」
今まで抑揚なく語っていた朔の声が、徐々に感情の波に揺さぶられていく。
「わたし、昔からあの部屋が嫌いだった。暗くて寒くて、閉じ込められてる感じがして、怖かったから。
おかあさんは訓練だって言って、よくわたしを地下室に行かせたけど、わたしはそれがなんのための訓練なのか、よくわからなかった。
でも、あの時、その意味がやっとわかったの」
「朔。もういい。それ以上言わなくていいから、もう……」
朔のとつとつとした言葉遣いは、断片的でまだ表現力には乏しいものだった。
けれど、当時の情景をミリィに思い浮かばせるには充分だった。
まるで、古いモノクロのフィルム映画でも観せられるように、断続的にミリィの脳内を駆け抜けてゆく悪夢。
朔の言葉を介して糸のように耳の中へ滑り込んでくるそれは、実際にその場に居合わせたわけでもないのに、フラッシュバックの如き鋭さでミリィの頭を叩き続けた。
その痛みと息苦しさに、ミリィは思わず膝から崩れ落ちたが、それでも朔は語ることをやめなかった。
「あの地下室は、入ってしまうと真っ暗で、なにも見えなくなるけれど、音だけはよく響くの。
だから、奴らが家に押し入ってきた足音も、よく聞こえた。
銃声が響いた時には、近くに隕石でも落ちたかと思ったほどの轟音だったわ」
最後には、どこからか別人が声を当てているのではないかと思うほど、冷静で大人びた口調になっていた。
大きく見開かれた目は、ガラス窓に映った自分の姿を睨んでいる。
そして、カーテンの裾を握り締めていた手を解くと、朔はようやくミリィの方に振り向いた。
「ミリィ。おかあさん、今どこにいるの?」
「………あ、」
「わたし、おかあさんに会いたい。どこにいるの?ミリィ」
再びいつもの子供らしい口調に戻った朔は、ミリィの顔を見詰めながら一筋の涙を流した。
「おかあさん、世界で一番、朔のことが好きだって言ったわ。朔のためなら、どんなことでもできるって言った。
朔が寂しい時は、いつでも側にいるって言った。朔が悲しい時は、いつだってすぐに駆け付けるって、言った」
「………さ、く」
「なのに、どうして来てくれないの。
朔、何回もお願いしてるのに。おかあさん、会いたいよって。ぎゅってしてほしいよって、心の中で、何回も、ずっと、お願いしてるのに。
……っなんで、きてくれないの?おかあさん、」
今は亡き母に向かって直接訴えかけるように、面影を重ねたミリィに思いをぶつける朔。
やがて、とうとう自分の感情にセーブが利かなくなってしまった彼女は、くしゃりと顔を歪めて泣き始めた。
大きな瞳から玉のような涙が溢れ出し、ぽたぽたと床に滴ってゆく。
そんな朔と真っ直ぐに目が合ったミリィは、一瞬びくりと体を麻痺させた後、かけられた呪いが弾けたかのように反射的に身を乗り出した。
とっさに伸ばした腕は、小さな体をそっと包み込んで、割れ物に触れるように優しく、だが力強く抱き締めた。
ミリィの腕の中にすっかり収まった朔は、もう自分を抑えることができなかった。
"おかあさん"
時折しゃくり上げながら、涙に掠れた声で叫ぶように母の名を呼ぶ。
しかし、いくら叫んでも、どれほど恋い焦がれても、彼女の母が彼女の求めに応えることは、もうない。
何度呼び掛けても、花藍はもう二度と、娘を抱きしめることも、返事をすることもできない。
まざまざと蘇ってくる記憶。
ささやかだが、幸せだった日々。
いつもどんな時も、欠かさず彼女の側にいて、花のような美しい笑みを浮かべていたあの人は、今は。
大好きな母を、永遠に失うということ。
その果てのない痛みを自分も経験しているからこそ、ミリィは尚更辛くて、切なかった。
「────オレも、……。オレも、会いたいよ」
ぐっと奥歯を噛み締めて、込み上げてくる熱を強引に制したミリィは、朔の小さな肩に顔を埋めると、消え入りそうな声で呟いた。
『It hurts』




