Episode18-2:フィグリムニクス
「オルクス。ドイツ語で、冥府。
……なるほど、死者の国か。当初はいまいちピンとこないメッセージだと疑問に思ったが、今となってはその意味がよくわかる。
現代の理想郷とはよく言ったものだ。この地は、数多の命を犠牲とした上で成り立っている。
彼はきっと、それを知っていたからこそ、あんなメッセージを残したんだろう」
「彼?」
「前に話したろ。国内で発生した連続猟奇殺人の件で、俺がモーリス・アイゼンシュミットの自宅へ調査に行った時のことだ。
あの時、モーリスの家の窓から降ってきたっていう彼だよ。
彼こそが、一連の事件の犯人であり、恐らく最初の実験成功者。
ゼロワンの正体は、きっとあいつだ」
今年に入ってから、国内各地で起きているという連続殺人。
フィグリムニクス始まって以来のこの大事件は、上層部の手によって隠蔽されているため、公にはなっていない。
しかし、事件の犯人と思われる人物の尻尾を、アンリ達は既に掴んでいた。
アンリに至っては唯一、その犯人と直接顔を合わせている。
細身で小柄。羽が生えたように身軽で、淡いシルバーの髪をした端整な青年。
曰く、一見するととても残虐なシリアルキラーには思えない彼こそが、例の人体実験の末に生まれた最初の成功例であるという。
根拠は二つ。
一つは、彼が手に掛けた被害者の全員が、フェリックスの直属の部下であったということ。
そしてもう一つが、前述した事件の隠蔽工作だ。
犯人の彼をこの世に生み出した元凶が、被害者のモーリス達。
その理不尽から怨みを持ち、犯行に至ったのだとすれば辻褄が合う。
ゼロワンの存在は、決して表沙汰にしてはならない最大の機密事項であるという。
そんな大層な人物が、後にシリアルキラーへと変貌し、好き放題に暴れ回っているなどということが世間に知れれば、当然彼を管理する研究者達にも矛先は向くだろう。
ならば、そもそも事件の発生をなかったことにしてしまうのが簡単、ということだ。
幸い、犯人の狙いは身内の人間のみに限定されている。
無関係の一般市民にまで被害が及べば話も変わってくるが、内輪で済んでいる間は隠蔽も難しくないはずだ。
「ゼロワンが誕生したとされる時期と、彼の外見年齢もほぼ一致する。
留めを刺す前に過度の拷問を加えていたということは、奴らはよほど深い恨みを買ったんだろう。心ない罪人には相応しい末路だな」
「君の見たっていうその青年が本当に犯人だとして、現場に残されていたメッセージについてはどう説明する?
意味はまあ解るが、ドイツ語で綴られていた理由は」
「……そこは、俺も未だに疑問なんだ。
もしかしたら、ドイツ出身のヴィクトールに向けて発信しているのかも、と最初は思ったが…。そうなると目的がわからなくなってくる」
「ハッハ。一難去ってまた一難だな。まだまだ不明な点が山積みだ」
靴底で消火した吸い殻をもう一度拾い、指先で回しながら、シャオはふと空を仰いだ。
「───これから、どうする?
敵の正体も判明したわけだし、揺さ振りをかけるなら早い方がいいだろう。
……だが、その後は?全て上手くいくという保証はないが、もし上手くいった場合、君はどうしたい?」
いつになく穏やかな調子で尋ねてくるシャオに、アンリは六本目の煙草に火を付けながら思案した。
そもそも自分は、父の秘密を暴くために行動を起こした。
そして、それが悪徳だと判明した場合には、彼の息子として自分が終止符を打つべきだと思った。
敵の姿は見えた。
果てしなく大きく、非道で凶悪な相手だが、立ち向かわないという選択肢は端から視野に入れていない。
一刻も早く、この残忍な人体実験をやめさせる。
関係者を軒並み摘発し、世間にこのことを知らしめ、二度と同じ蛮行を繰り返させない。
研究そのものを打ち止めにしてしまえば、神隠し現象も次第に鎮静していくだろう。
ならば、その後は。
悪党を討ち滅ぼした後の落とし前は、一体誰がつけるのか。
「そうだな」
ゆっくりと体を起こし、シャオの隣に並んだアンリは、いつぞやに自分がされたように、こちらを向くシャオの顔に煙草の煙を吐きかけてやった。
「ヴィクトールを、キングスコートの玉座から引きずり下ろす。
この国から汚れた血を洗い流し、命を冒涜した者共には、相応の報いを受けさせる」
「じゃあ、空席になった玉座には誰が座る?」
苦い煙を真正面に浴びながらも、シャオは表情を変えずに続けた。
証拠を揃え、敵が言い逃れのできない状況まで追い込んでしまえば、こちらの勝ちだ。
後は、なにも知らなかった国民達の怒りを、誰が代わりに引き受けるか。
「俺がやる。
父の作り上げた、この地獄にも似た楽園を、今度こそ本物の理想郷に変えてやる。俺が、この手で」
「いいのかい?あんなにお父上の敷いたレールに乗るのは嫌だと頑なだったのに。
言っちゃ悪いが、今の君は最早悪魔の息子だ。あの方が神だ聖書だと讃えられていた昔とは違う。
禁忌を犯した罪人の子を、真実を知った世間は決して受け入れてくれないだろう。きっと皆、掌を返すように君に冷たく当たる。
それでも、やるのか?それが呪われた椅子だとわかっているのに?」
アンリはくわえていた煙草を足元の灰皿に落とすと、頭に降り積もった雪を払った。
「偶像として無駄に持て囃されるくらいなら、一人の人間として憎まれた方がいい。
悪魔の血を引いているとはいえ、その頃にはある意味、世界を救った救世主だからな?
誰になんと言われようと、堂々と我が道を行ってやるさ」
いつになく自信ありげな口ぶりで、アンリは言い切った。
シャオは一瞬呆気に取られた後、堪えきれずに大きな声で笑いだした。
「───ッハ。ワハハハハ!
あー、いいねえその自信。将来は正義のヒーローになりたいとか夢見てたガキの頃を思い出すよ。
でも、無謀なほど野心に溢れた馬鹿は、私は嫌いじゃない。
お澄まし顔で理屈並べてた時よりも、ずっといい顔してるよ。今の君」
「俺もすっかりお前に毒されたな」
「"君のおかげで世界が広がった"、の間違いだろ?」
妙に可笑しい気分になって、二人はくつくつと喉を鳴らした。
敵の巨大さを忘れたわけでも、未来に希望を見出だしたわけでもない。
恐怖に足は竦むし、なにが間違いで正しいのか、未だに迷う気持ちもある。
なのに、何故か。
こんな時だからこそ、瀬戸際まで来た正念場だからこそ、二人は無性に笑ってしまいたい気分だった。
「俺は、大多数の人間から中身のない愛を向けられるより。
限られた本当の友に、本当の自分を知っていてもらいたい」
利害が一致した。
最初はそれだけの理由だった。
家族ほど近しい距離にはなく、他人ほど気兼ねしない関係でもない。
彼らは共犯者だった。
互いの目的を果たすため、互いを利用し合う。
いざという時には切り捨てることも躊躇しない、期間限定の関係だった。
だが、今となっては少しだけ違う。
ただの共犯者ではない。
唯一無二の、かけがえのない共犯者だ。
「世界にたった一人でも、俺を信じてくれる人がいれば、俺はそれでいいと思う」
不敵に微笑むアンリに、シャオは一度目を丸めた後、少しだけ楽しそうに笑った。
「君もやっと、人間らしくなってきたじゃないか。
いいよ。見届けてやろう。君がこれからどういう人生を送るのか、どんな王になるのか。些か興味が湧いてきた。
精々俺を飽きさせないよう、滑稽な夢を描いてみせてくれ」
友と呼ぶには、些か悪辣かもしれない。シビアかもしれない。
それでも、友にも等しい特別な存在になったのは、アンリにとってもシャオにとっても同じことだった。
「───そろそろ中に入らないかい?
雪は小降りでも、この気温じゃいい加減体が冷えたよ」
「ああ、それもそうだな。すっかり忘れてたよ」
「普通寒さを忘れたりするかなあ?相変わらず変なところで鈍いよ、君は」
両手を使って全身に付いた雪を払うと、シャオは率先して部屋の中に入っていった。
灰皿を持ったアンリも後に続き、バルコニーの窓を閉めた。
外気を遮断すると、途端に二人の体を心地好い温もりが包んだ。
生き返る、と言って伸びをしたシャオは、誘われるように暖房の側に近寄っていった。
アンリは、そんなシャオを尻目に曇りガラスの向こうを眺め、思案した。
今自分がこうしている間にも、弟は絶えず苦しんでいる。
彼のたった一人の家族として、兄として、なにかしてやれることはないのだろうか。
ミーシャの親友のシャノン君や、これまで旅を共にしてきた仲間達は、こんな時あいつとどう接するのだろう。
どんな言葉をかけて、傷付いたあいつを慰めるのだろう。
本当はもっとじっくり話がしたいし、頼ってほしい。
俺がいかにお前のことを思っているかを知ってほしい。
曲がりなりにも、俺はお前の兄だから。お前の兄でいたいと思うから。
だが、あいつの背中を見ていると、嫌になるほど痛感する。
俺とあいつの間にある、深い溝を。大きな壁を。
嫌われてはいないが、きっと特別好かれてもいない。
あいつが困った時、辛い時に、真っ先に頼ってもらえるような人間に、俺はまだなれていない。
兄弟とは、どうやって思いを伝え合うものなのだろう。
誰より近いところにいて、誰より他人行儀でよそよそしい。
20年もの空白期間を埋めるためには、家族として最初の一歩を歩み寄るためには、まずなにから始めればいいのか。
やっと出会えた、この世でたった一人の、俺の弟。
大切にしたいのに、愛していると伝えたいのに。
何故こうも腰が引けてしまう。何故触れることに躊躇いを覚える。
ミーシャ。
お前は今なにを考えている?
俺は、お前のことを考えているよ。
素直に、お前のことがもっと知りたいと言えば、お前は俺に心を開いてくれるだろうか。
苦しくてたまらないのだと、俺に涙を見せてくれるだろうか。
そうすれば俺は、お前を抱きしめてやることができるのに。
どうして俺達には、家族がいないんだろうな。
『I knew him at once.』




