Episode17-3:パンドラの箱
AM5:05。
あれから数時間が経過した頃には、すっかり夜が明けていた。
温度差で仄かに曇った窓ガラスの向こうでは、静かな雪が降り始めている。
今年最初の雪が、今朝だった。
「ミーシャ」
「………。」
「ミーシャ。しっかりしろ」
「……ああ。大丈夫。起きてるよ」
リビングのソファーに腰掛け、片膝を立てて俯くミリィの隣に、そっとアンリが着席する。
壊れ物に触れるように優しく肩を揺らしてやると、ミリィは僅かに頭を上げた。
アンリを見上げる大きな瞳は、今は浅黒い隈に縁取られている。
「───知らなかったんだな、なにも。
彼女はお前に、……生前に明かしてくれたことはなかったのか」
立てた膝に額を押し当てると、ミリィは独り言のように呟いた。
「……なにか、隠してるなって感じはしてた。オレの知らない秘密を抱えてる人だって、なんとなく気付いてた。
でも、まさか花藍さんが、…………」
箱の中に収められていたのは、花藍の遺書と、彼女の犯した罪の記録だった。
彼女が以前、キングスコートで勤めていた研究員の一人だったこと。
彼女の娘が、人体実験の末に生まれた、造られた人間だったこと。
そして、フェリックスが、自分達の父親が犯した大罪の真実。
人の感情というものに敏感なミリィは、本当はずっと前から気付いていた。
どうやら花藍は、なにか他人には言えない秘密を抱えているようだと。
だが、それを本人が明かすことはとうとうなかった。
彼女は死ぬまで己の秘密を隠し通し、娘を守ったのだ。
いつになく落ち込んだ様子のミリィに、アンリはかつて彼の母が亡くなった時のことを思い出した。
あの日のミリィと、今のミリィは同じ顔をしていると。
「……それで、そっちの状況はどうだったんだ?気になる奴はいたのか」
ふと、アンリが首だけを後ろに向け、ある人物に向かって声をかけた。
「んー。コイツなんか臭うなーって奴は何人かいたけど、結局はどいつも白だったね。
入れ違いだったって可能性もあるけど、少なくとも我々とは接触しなかったようだ」
アンリの言葉に返事をしたのは、先程まで姿の見えなかったシャオだった。
というのも、シャオだけ今まで別行動を取っていたのだ。
今夜のパーティーと、今回起きた事件が無関係とは言い切れない。
そこで彼は、こちらに合流するまでの間一人でパーティー会場に残り、参加者達の動向を観察していたのである。
周囲に怪しまれないよう、純粋に宴を楽しむふりをして。
しかしながら、その後も特に不審な様子は見られず、パーティー自体も何事もなく終了したという。
念のため、気になった人物の後を尾行もしたそうだが、突き詰めてみれば全員潔白だったとのこと。
所謂、骨折り損のくたびれ儲け、というやつだ。
「とんだ無駄足だったけど、その分我々よりも、あちらさんの方が一枚上手だったってことはよくわかったよ。
間違いなく、会場の中にも事件の関係者は潜んでいたはずだ。パーティー当日に実行したのには、必ず意味がある。
まったく、悪党って生き物はつくづく抜け目がなくて困るよ」
暖炉の前で体を屈め、冷えた手足を暖めながらシャオはぼやいた。
その声は珍しく苛立った様子で、いつものニヒルな感じが抜けている。
花藍を殺害した犯人、もとい犯行グループは、やはり証拠隠滅のため、例のFIRE BIRDプロジェクトを指揮している人物に雇われた可能性が高いと思われる。
殺害実行をパーティーの日程に合わせてきたのも、当日は人々の目が会場に集中することを把握していたからだろう。
特に、倉杜家周辺に住居を構える者達は、以前からパーティーに出席することが決まっていたという。
つまり、当時は皆出払っていたため、倉杜家の屋敷で異変が起きたことに誰も気付かなかったのだ。
シャノンは、知らず知らず自分の立場が悪事に利用されていたということを知り、苦い顔をして目を伏せた。
「さっき俺達を襲撃してきた奴らも、その一味だったのかもしれないな。
どうして狙われたのかはよくわからんが…」
ダイニングの壁に寄りかかったヴァンが、思い出したように口を開いた。
ヴァンの隣に並ぶマナも、当時の状況を振り返りながら話し始める。
「……推測だけど、あいつら目標を見誤ったんじゃないかな。
例の花藍さんって人と、花藍さんの娘さんを狙ってお家に押し入ったなら、姿が見えなかった娘さんのことを探したはずだ」
マナの推理を聞いたトーリは、眉を寄せながら続きを促した。
「じゃあ君達が狙われたのは、たまたま外で鉢合わせたマナを、花藍さんのご息女と勘違いしたからってこと?」
「……わからない。けど、今はそれ以外に思い当たらない。
ボクらがもっと、ちゃんとあいつらのことを見張っていれば、確かな情報も引き出せただろうに……。ごめん」
マナが申し訳なさそうに視線を下げると、トーリは彼女の肩を優しく叩いた。
「……君が謝ることじゃないよ。あまり自分を責めちゃ駄目だ」
昨夜、パーティーの途中で会場を抜け出したマナとヴァンは、一足先に東間達のいる別邸へと向かった。
その道中で、何者かからの襲撃を受けた。
総勢七名もの手練の兵士が、訳も告げずに突然襲い掛かってきたのだ。
結論から言うと、殺しのプロであるヴァンが付いていたおかげで、一緒にいたマナもどうにか無事で済んだ。
だが、残念ながら敵の正体を暴くまでには至らなかった。
二人が倒した七名の兵士。
彼等が完全に失神していることは確認したし、全員に拘束を施して、身動きも封じていたはずだった。
ところが、マナ達が東間からの電話を受けている間。
一時監視の目が離れた隙に、七名は忽然と姿を消していたのだ。
それは僅か数分の出来事で、現場には拘束に使用したロープさえ残っていなかった。
彼等は一体何者なのか。
なんのために自分達を狙ってきたのか。
結局のところ、真相を吐かせる前にまんまと逃げられてしまったため、マナの言い分はただの推測に過ぎない。
ただ、タイミングから考えて、花藍殺害の容疑者と彼等に一切の関係がないとも言えなかった。
マナ曰く、自分が応戦した兵士の一人は、ヴァンがとっさに叫んだ自分の名前に反応し、動揺するような素振りを見せたという。
しまった、とでも言うように。
当時のマナの服装は、黒のワンピースドレス姿。
そして、行方を捜索されていた朔の普段着もまた、黒のワンピースだった。
そこで一同は、一個の可能性を思い付いた。
ヴァン達を襲撃した謎のグループは、ある意味有名人のヴァンを狙ったのではなく、共にいたマナのことを朔と勘違いし、捕らえようと近付いてきたのではないかと。
黒髪に黒い瞳のアジア系で、服装は同色の控えめなワンピース。
小柄な体格で、気性は大人しい。
ここまでの外見的特徴は、二人ともほぼ一致している。
少なくとも、実物を見たことがない人間からすれば、一目見て誤解をしてもおかしくはないだろう。
年齢はマナの方が10歳近く上だが、マナはとても幼い容姿をしているし、襲撃も夜の暗闇の中で仕掛けられた。
あの最中では顔立ちなど視認できなかったろうし、背丈も距離があったため計りきれなかったはずだ。
断言はできないが、そう推測できる程度の材料は揃っている。
となれば、マナに同行していたヴァンの存在も、彼等の目には朔を連れ出したボディーガードのように映っていただろう。
「そう仮定すると…。やはり、既に我々の面は割れているものと考えるべきだろうな」
「だろうね。会場から出たタイミングも、マナ達と弟くんはほぼ同時だったわけだし。
あちらさんはきっと、事件発生を目敏く察した弟くんが、例の娘を保護するために、先にヴァン君を現場に向かわせたものと思っただろうよ」
「そして、現場周辺で捜索を行っていた犯人達の元に、偶然ミリィの仲間であるヴァンと、ターゲットによく似たマナが現れた。
……ちょっと出来過ぎな気もするけど、筋は通ってるかもね」
アンリ、シャオ、トーリが順に語っていき、屋敷に再び重い沈黙が流れ始める。
するとミリィは、膝を抱えたままアンリに目を向け、低い声で呟いた。
「あんたの幼馴染み。
あいつじゃないのか、花藍さんを始末するように命令したのは」
陰った瞳で鋭く睨んでくるミリィに、アンリは思わず息を呑んだ。
ヴィクトール・ライシガー。
アンリの幼馴染みにして、かつてはフェリックスの一番弟子だった男。
そして今は、この国の実質的トップに君臨している重要人物。
フェリックスの没後、彼の率いていたチームは弟子のヴィクトールに全て委任されたという。
つまり、例の人体実験にヴィクトールが関与していた可能性は、限りなく黒であるわけだ。
ただ、アンリだけはこの結果に一抹の疑問を覚えていた。
心のどこかでこうなることは覚悟していたものの、一つだけ腑に落ちないことがあったからだ。
合理的かつ冷酷で、人知れぬ残忍さを内に秘めているとされるヴィクトール。
しかしながら、彼がわざわざ殺人に手を染める真似をするとも思えなかった。
相手に対しての慈悲はなくとも、人の命を奪うという行為にはきっと気乗りしなかったに違いない。
根からの完璧主義だというなら、なおのことだ。
それに、頭の良い彼なら、こんな風に強行突破する以外にも策を講じられたはず。
いくら必要なこととはいえ、花藍の殺害を命じたのは本当に彼なのか、と。
「───今は、その可能性も有り得る、としか言えない。
だが、ヴィクトールが白でないことだけは確かだ。突き進んでいけば、必ずどこかでぶち当たるだろう」
他の誰より父に信頼されていたヴィクトール。
父が唯一弟子と認めた存在。
そんな二人の出会いを自分は知らないし、父の遺志を引き継いだ彼が、今はなにを志して動いているのかも分からない。
お前の望みは一体なんだ、ヴィクトール。
お前は何故に父に従属し、なにを思って悪事に手を染める。
ヴィクトールの顔が、声が、過去に残していた言葉が、ぐるぐると頭の中を駆け巡って、アンリは今にも目眩を起こしそうな気分だった。




