Episode17:パンドラの箱
AM2:17。バシュレー家別邸。
シャノンの生誕記念パーティーが大歓声のもとに幕を閉じた後、別邸ではパーティーに列席したメンバーも含めて全員が集まっていた。
一階のリビングと、リビングに隣接したダイニングでは、アンリ一行とミリィ一行がそれぞれ顔を揃えている。
加えて、屋敷の主人であるシャノンと、彼の従者の三人も同席している。
ただ一人、渦中の中心にいるミリィ本人を除いて。
「───あ、………お帰り」
秒針が一定に時を刻む音だけが響く中。
重苦しい沈黙を破るように、二人分の足音が二階から下りてきた。
現れたのは、今まで席を外していたウルガノとマナだった。
「結構難儀したみたいだけど、彼女の様子はどう?」
壁に背を預けていたトーリは、二人に歩み寄って心配そうに声を掛けた。
マナは小さく頷き、ウルガノは細い声で返事をした。
「ええ。今やっと眠ってくれたところです。寝かしつけるのには苦労しましたが…。
……こういう時は、眠ってしまった方がいいでしょう」
「………そうだね」
曰く彼女というのは、先程ミリィに連れられて屋敷にやって来た朔のことである。
ミリィが上手く宥めていたおかげで、どうにか受け答えができる程度には落ち着いていたものの、当初の朔の精神状態はかなり危ういものだった。
そこで、同じ女性であるウルガノとマナが、手分けして朔をあやすこととなったのだ。
寝かし付けるのには時間がかかったとウルガノは言うが、どうにか山場は越えたようだ。
「それで、ミリィは」
ウルガノの問いに、トーリは深刻そうな表情で答える。
「まだ。この様子だと、日が昇っても当分帰らないかもしれない」
「そうですか……」
実は、今から数時間程前に、屋敷に一本の電話がかかってきた。
連絡を寄越したのは、他ならぬミリィ本人。
代表して受話器を取ったのはグレンだった。
別邸で留守を預かっていたメンバーの中で、グレンだけが唯一、事件直後のミリィと口を利いたのだ。
"今から指定する住所まで、内密に車を手配してほしい"
詳しい事情は明かさずに、淡々と用件のみを告げてきたミリィの声は、微かに震えていたように聞こえたという。
しかし、当時はまだパーティーも中盤の頃。
このタイミングで一体何事かと、グレンは不思議に思った。
だが、必要以上に言及することもしなかった。
なにやらミリィの様子が変だったので、とりあえず要求には従っておこうと判断したためだ。
後に、メリア達に事情を話したグレンは、バシュレー家の社用車を借りて、指定された住所まで向かった。
そこで待っていたのは、変わり果てた姿のミリィだった。
煉瓦造りの古めかしい外観に、庭先にいくつか転がった子供用の遊び道具。
"KURAMORI"という、近辺ではあまり見慣れない響きを綴った表札。
その家の玄関先で、ミリィは見知らぬ少女を抱いて座り込んでいた。
血に濡れたスーツ。
ぞっとするほど静まり返った空気。
俯いたまま、声を殺して泣く少女。
そして、死人のような顔で呆然と固まっている、主の大切な親友である彼。
予想だにしなかったこれらの光景は、常に笑顔を絶やさないグレンでさえ思わず絶句したほどの有り様だった。
"悪い。詳しいことは後で話す"
"だから、今はなにも聞かないでくれ"
掠れた声でそう言ったミリィは、まるで魂が抜けてしまったかのような顔をしていた。
そのただならぬ様子を見て、これは非常事態であるとグレンは悟った。
以降は、ミリィの意思を尊重して一言も口を開かなかった。
とにかく今は、この二人を安全な場所まで送り届けることが最優先だと。
別邸まで車で移動していた間。
ミリィは黙って俯きながら、なにかから守るように少女の体を抱き続けていたという。
「……ルカさん、でしたね。
貴方も同行して、一緒にミリィを迎えに行ったんでしょう?
その時のあいつは、どんな様子でした?」
食卓のテーブルを囲むシャノンとバルドの元へ、アンリが静かに歩み寄っていった。
バルドは、腕を組みながらアンリの問いに答えた。
「バルドでいい。身内の人間は皆そう呼ぶ。
……そうだな。一言で説明するのは難しいが…。
本当に、立って歩いているのが不思議なほど、憔悴していたよ。
呼吸は浅かったし、焦点は合っていなかったし、顔色なんて、まさに柩の中で眠る奴らのそれだった。
あいつのあんな顔は、今まで見たことがない」
ミリィから屋敷宛てに電話がかかってきた時。
バルドは、自分にも同行させてほしいとグレンに頼んだ。
どうにも嫌な予感がしたので、ただ屋敷で待っているだけではいられなかったからだ。
グレンはバルドの同行を認め、一緒にミリィを迎えに行くことを良しとした。
その結果、バルドの嫌な予感が的中し、二人は共に倉杜家で起きた惨劇を目にすることとなったのだった。
ミリィの豹変ぶりを目の当たりにした時、バルドはこんなことを思った。
今のミリィは、かつての自分と同じ顔をしている。
まるで、あの頃の自分がそこにいるようだと。
なにも映さない空虚な瞳も、思考の全てを放棄したような息遣いも、一切言葉を発しない頑なさも。
どこか見覚えがあって、他人事な気がしなくて。
今にも、当時の悪夢が甦ってくるようだった。
しかしバルドは、一切ミリィに声をかけることが出来なかった。
こんな時こそ、同じ痛みを経験した自分が寄り添ってやるべきと思っていたのに、実際には言葉が出てこなかった。
何故なら、ミリィのスーツにべっとりとこびりついた血が、その腕に抱えられた幼い少女の姿が、あの時の我が家と娘の姿に重なってしまったのだ。
故に、強烈なフラッシュバックに襲われた彼は、無言で車に乗り込んでいくミリィの後ろ姿を、ただ見ているしか出来なかったのだった。
「とにかく、今はミリィの帰りを待つ他ないよ。
その怪しいトランクを開けられるのも、きっとミリィだけだと思うし」
リビングのソファーに腰掛けていた東間が、両手をきつく握り締めて呟く。
東間の向かいのソファーで立て膝を着いたジャックは、彼の言葉に促されるように、あるものに目をやった。
二人の視線の先にあるのは、ソファーの傍らに置かれた一個のトランクだった。
これは、朔の身柄と共にミリィが持ち込んだもので、恐らく倉杜家から失敬してきた品と思われる。
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あの後、グレン達に連れられて別邸までやって来たミリィは、まず朔を部屋まで運び、使用人のメリアに介抱を頼んだ。
それから一階に戻ると、東間やジュリアンに声をかけられたのだが、正直二人とは会話にならなかった。
何故なら、ミリィ自身が語ることを拒否していたからだ。
東間がいくら心配しても、ミリィはやんわりとはぐらかすばかりで、詳しい訳は話そうとしなかった。
そこで東間は、このままでは要領を得ないと判断し、先に各方面へ連絡を入れることにした。
東間からの呼び出しを受けた面々は、パーティー会場に残っていたアンリ達も含めて、全員別邸に集まることとなった。
片やミリィは、朔の身の安全を確保するやいなや、休むことなく倉杜家へとんぼ返りした。
先程通報した地元警察が現場に到着したとの連絡が入ったので、そちらに合流しに行ったのだ。
アンリ達が別邸に到着したのはその後だったので、出ていったミリィとは入れ違いになってしまった。
つまり、事件後のミリィと顔を合わせたのは、留守を預かっていた東間達だけということになる。
"第一発見者は、調査に協力する義務があるだろ"
そう言い残して、再び倉杜家に向かったミリィは、それきり戻ってきていない。
事情聴取が長引いているのか、連絡一つないまま時間だけが過ぎている。
持ち込まれた謎のトランクも、鍵が施されているため中身を確かめられない。
警察に提出しなかったのには理由があるのだろうが、何のためにそうしたのかも分からない。
とにかく、当事者のミリィが席を外している以上、今はどうすることもできないのである。
「シャノン様…。顔色が優れませんわ。
昨日の今日でお疲れなのですから、せめてミレイシャ様がお戻りになるまで、床で休まれた方が…」
シャノンの背後で控えていた使用人達の中から、メリアが一歩前に出て進言した。
するとシャノンは、右手で顔を覆って悔しそうに呟いた。
「いや、ボクは平気だ。こんな時に自分だけ休んでいられないよ。
……ミリィが帰ってきた時、ボクはまず、彼になんと言ってあげたらいいんだろう。ミリィの親友として、ボクは彼に、なにをしてあげられるだろうか」
ミリィの親友であるシャノンだけは、彼と花藍の関係を大方把握している。
シャノンと花藍の間に面識はないが、ミリィが彼女に対して密かに恋心を抱いていたことは、以前からよく知っていたことだった。
故にこそ、今のミリィの心境を考えると、シャノンは我がことのように辛くてたまらなかった。
想い人の凄惨な遺体を誰より最初に見付けてしまった親友は、今なにを思っているのだろうかと。
少し前まで、自分と共に楽しい時間を過ごしていたはずなのに。
一瞬にして全てが暗転して、崩壊した。
親友の誕生日と、想い人の命日が重なってしまうだなんて。
これ以上の悲痛が、不幸が他にあるだろうか。
「………本当に、自分の無力さに腹が立つよ。
大切な友人一人守れなくて、なにが一城の長か」
シャノンの口から重い溜め息が漏れたのを見て、アンリは結っていた髪を解き、首に巻いていたタイを緩めた。
「────来た」
その時。
今まで沈黙を守っていたヴァンが、おもむろに口を開いた。
来た、と独り言のように呟くと、彼は勢いよく立ち上がって、足早に玄関の方へと向かって行った。
それに気付いたトーリとウルガノも目配せをして、慌てて後に続いていった。
三人が玄関で待ち構えると、外から少しずつ足音が近付いてきた。
トーリは固唾を飲んで見守り、直に現れるであろう人物の顔を思い浮かべた。
ウルガノは今にも飛び出していきたい衝動をぐっと堪えて、拳を握りしめた。
ゆっくりと扉が開かれる。
夜の闇から滲み出るようにして現れた赤毛は、力尽きたように下を向いていて、その人の表情を覆い隠していた。
「…………おかえり」
最初に手を差し延べたのは、ヴァンだった。
ミリィは、虚ろな顔を上げてヴァンの目を見つめ返すと、差し出された大きな手に力無く自分の指先を重ねた。




