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オルクス  作者: 和達譲
Side:S
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Episode15:鷺沼藍子の遺言



西暦2023年。7月30日。

私、鷺沼(さぎぬま)藍子(あいこ)は、ここに告白します。


この手紙の封が切られたということは、私はもうこの世にいないのでしょう。

そして、生前の私にこれらを託された貴方は、深い信頼に足る人物なのでしょう。


これから貴方に明かすのは、私の秘密と、罪です。

叶うのならば、最後まで読んでほしいというのが本音ですが、知ってしまえば最後。

貴方自身も、私の罪を共有することになります。


脅すようなことを言ってごめんなさい。でも、大切なことだから。

続く二枚目に目を通す前に、どうかもう一度よく考えて。


ごめんなさい。私にこんなことを言う資格はないと、わかっているけれど。

途中で投げ出すようなことになってしまったこと。愛する人達を残して、一人先に力尽きてしまうこと。

どうか、許して下さい。




ーーーーーーーー


話は、まだ私が十代だった頃に遡ります。


日本の京都で生まれ育った私には、温和で優しい父と、繊細で体の弱い母がいました。

母は、私が中学生の時にある病を発症し、以降はずっと、その治療に専念した生活を送っていました。


ギランバレー症候群。

ひょっとしたら貴方もご存知かもしれませんが、日本では特定疾患に認定された難病です。


現在では、効果的な治療法も多く存在しています。

手術を受けて回復したという患者さんも珍しくなくなりました。


しかし、私の母は生来自律神経が弱い人でした。

元々病弱な体質であったがために、その症状はとても深刻なものでした。


発病後、母は瞬く間に四肢の自由が利かなくなり、私達家族の手助けなしには、一人で歩くことも起き上がることも困難になっていきました。


母は、次第に自分の境遇を悲観するようになり、私と父は、母のそんな姿を見て、とても胸を痛めました。



やがて時が過ぎ、中学二年生の秋。

いつか、母の体を元通りにするため、そのために自分は医学の道に進もうと、私は決意しました。


それからというもの、私は一心不乱に勉強に打ち込みました。

母の介護と両立させながら、眠る時間も惜しんで、毎日がむしゃらに勉強しました。


そんな日々が何年か続いて、高校二年生の夏。

細胞の多様化について研究した論文が評価され、私はアメリカの有名医科大学に留学することが許されたのです。


私達一家は、皆とても喜びました。

これで、母の幸福と安寧を取り戻すための第一歩を、感謝しながら踏み締めることができるのだと。



そして迎えた別れの時。

私は母にこんな約束をしました。


いつか必ず、そう遠くない未来に、私が母さんの体を元に戻してあげる。

だから、どうかその日まで頑張って。成長した私の帰りを待っていてほしいと。


日本を発ったあの日。

母は涙を流しながらも、久しく見せていなかった笑顔で私を送り出してくれました。


それが、私が見た母の最後の笑顔でした。



更に時は過ぎて、大学二年生の春。

いつものように仲間達と実験を行っていた私の元へ、急な報せが入ってきました。

母の訃報でした。


私が希望を掴むよりも、母の病状が悪化する方が僅かに早かったようです。

母は、自律神経の更なる低下により、急な呼吸不全を起こし、そのまま帰らぬ人になったとのことでした。


報せを聞いた私は、急いで日本に帰国しました。

ですが、今更慌てたところで、不幸な結果が覆ることはなく。

私との約束は果たされぬまま、私は約束を守ることができずに、母は亡くなってしまいました。



母の死をきっかけに、私は酷く落ち込み、しばらくはなにも手につかない状態が続きました。

いっそ日本に帰ってきたらどうだと、心配してくれる父の提案も真剣に考えました。


そんな折のことです。

休学扱いで日本に滞在していた期間に、お世話になっている大学の教授から手紙が届いたのです。


手紙には、母の急死を悼む言葉と共に、一通の紹介状が同封されていました。

なんでも、以前私が発表した論文に関心を持った知人がいたそうで、今後はその人の元で勉強させてもらうのも良いのではないか、とのことでした。


その知人というのが、彼の有名な学者。

国家フィグリムニクス創設の発起人としても知られる、フェリックス・キングスコート、その人だったのです。

教授と彼は旧知の間柄のようで、教授を介してフェリックス氏の研究チームに抜擢された卒業生も、過去に少なくないとのことでした。



私は心底驚きました。

医学の世界に身を置く者であれば、彼の名を知らないはずがありません。


まさか、あのフェリックス・キングスコートが、自ら他人にコンタクトを取るだなんて。

それも、私のようなただの学生に。

信じられないと同時に、とても光栄に思ったことを今でもよく覚えています。


そして同時に、こんな考えも過りました。

これは、願ってもない話かもしれない。

この機を逃せば、二度とチャンスは巡ってこないかもしれないと。

全く悩まなかったと言えば嘘になりますが、教授の手紙が届いた瞬間には、私の心は決まったようなものでした。



母の病を治す、という当初の目標は、残念ながら果たすことは叶わなかったけれど。

それでも、だからこそ。母の死を、これまでの私の努力を無駄にしないためにも、ここで立ち止まってはいけない。

思えば、贖罪のようなニュアンスが根底にあったからこそ、あの時立ち上がることが出来たのかもしれません。



その後、私は再び渡米し、大学を卒業してからフェリックス氏の元を訪ねました。


当時の年齢は22歳。

図らずも、史上最年少の日本人メンバーとして、私は彼の研究チームに名を連ねることとなったのです。



今だからこそ言えることですが、私の感覚はあの頃から麻痺し始めていたのかもしれません。

神様とまで呼ばれた方の元で、人類の更なる進化と安寧を願い、共に力を尽くすことができるなんてと。


きっと、無自覚に舞い上がっていたのです。

自分自身が何者であるのか、人の(ことわり)とはなんのためにあるのか。

そんな簡単なことをすら、失念してしまうほどに。




ーーーーーーーー


長くなりましたが、ここからが本題です。


教授の口利きでフェリックス氏の研究チームに配属された私は、あるプロジェクトの参加を勧められました。


その名も、CORD:FB。

FはFIRE、BはBIRDの頭文字。

それは火の鳥。またの名を、不死鳥フェニックス。


プロジェクトの内容は同封した資料に明記しましたが、この名前を一見しただけでも、勘の良い方ならおおよその見当がつくと思います。



FIRE BIRDプロジェクトは、まさに人類の夢の計画でした。


これが成功すれば、病で命を落とす人間もぐんと少なくなる。

そもそも病気を発症しなければ、苦しい治療も、薬も必要なくなるのですから。


人づてに概要を聞く分には、なんて非現実的な研究なのだと笑われることでしょう。

そんなものは所詮夢物語に過ぎないのだと、本気にはしてもらえない話でしょう。


ですが彼、フェリックス氏には確かな実績がありました。

数々の偉業を成し遂げてきた彼になら、不可能を可能にすることもできるかもしれない。

私達にそう希望を抱かせてくれる程には、あの人には強い力とカリスマ性があったのです。



後に、プロジェクト参加に同意した私は、組織の上官からある役目を頼まれました。


FIRE BIRDプロジェクトの中で、重要な過程にある代理出産。

平たく言うと、見込みのある受精卵を私の胎内で育て、産み落としてほしい、ということでした。


私は迷いましたが、最後にはその役を引き受けることを決めました。

25歳の時でした。


これが、私にとって最初の罪です。



いくら人類の進歩と永続のためとはいえ、軽はずみに命を作り、世に生み出すということ。


命の、魂の冒涜ともいえる所業です。

その常軌を逸した研究を、行為を、当時の私は全くの無自覚で犯していたのです。


無論、初めての出産が赤の他人の代理だなんて、という抵抗はありました。

ですが、それだけです。

こんなことは間違っている、人の道に外れている、という感覚は、今思えばぞっとするほど、当時はありませんでした。


ただただ、名誉と思うだけで。

いつかこの努力が報われる日がくると、全ては人類の未来のためなんだと、諭してくる上官の言葉を私は疑うこともしませんでした。



やがて私は、一つの罪なき魂を、理由なき命を、この身を捧げて育み、産みました。


生まれた子供は、六種族もの血統を引いているにも関わらず、私によく似たアジア系の容姿をしていました。

まるで、代理でしかないはずの私の遺伝子を受け継いだかのように。


一時的な措置としてその子に与えられた名前は、仮称ゼロツー。

フェリックス氏によれば、プロジェクトが始まって二人目の成功例だったといいます。



20年以上の歳月をかけて、神とまで呼ばれた存在が力を尽くしても尚、完璧な成功といえる例は、これまでにたったの二つだけ。

それも、双方の組み合わせに明確な共通点が見出だせなかったことから、長らくパターン化も不可能な状況にあった。


つまり、その最中でのこの結果は、理論的には決して有り得ない現象。

ゼロツーが五体満足で生まれたことは、まさに奇跡が為した業としか言いようのない成果だったのです。



待ち望んだ二人目の成功例に、研究所は大いに湧きました。

私は皆から祝福を受け、讃えられました。

ですが、私が喜びに浸っていられたのは、(つか)の間のことでした。


この件で昇進した私は、特例である権限を付与されました。

フェリックス氏直属の部下以外は立ち入りを禁じられていた、研究所の特別資料室への出入りを許可されたのです。


そこには、過去の実験データが全て保管されてありました。

私の前に代理出産役を務めたとされる女性達の資料も、一つ一つ詳細に記されていました。


そこで、私は見付けてしまったのです。

知ってはならない真実を。


私の産んだゼロツーは、二人目の成功例でした。

ですが、成功したパターンは現段階で二通りといっても、実験自体は過去に繰り返し行われていました。


ならば、これまでの実験で失敗に終わった子供達は、その後どのような末路を辿っていったのか。



答えは、殺処分でした。


失敗例の多くは流産や死産という形で、この世に生を受ける前に旅立ってしまったそうです。


中には無事に出産された子もいたようですが、その子達には必ずなんらかの障害が確認されていました。

酷い場合には、人としての形を成していない、呼吸する肉塊のような状態で早産された子もいたとのことでした。


それらの資料に明記されていたタイトルは、"失敗作の類似点"。

彼らは、私達研究員から人として扱ってもらうことも叶わず、必要なデータを採取された後に、慈悲もなく殺されたのです。


ただ人並みより劣っていたというだけで、彼らは生きることを許されなかった。

大人達の勝手な都合で、勝手に作られて、勝手に生み出されて。そして抗うことも、歎くこともできずに、ただ殺されたのです。



それだけではありません。

失敗例を出産した代理の母親達も、原因不明で一様に息を引き取っていたのです。


出産後、彼女らはみるみる内に衰弱していき、最後には為す術もなく力尽きた。

まるで、お腹の中の子供に生命力を吸い取られていったかのように。


全員です。

FIRE BIRDプロジェクトに参加していた、代理の母親達。

そして生まれた子供達。

全員が、例外なく命を落としてきたのです。



ここにきてようやく、自分の犯した罪の重さを自覚した私は、内密に過去の実験データを洗い出すことにしました。


やがて判明した理想と、知られざる現実を前にした時には、全身が震えました。

私達はなんて恐ろしいことに手を染めていたのかと。



我に返った私は、これ以上自分にこんなことは続けられないと強く思いました。


研究員達は皆、端からリスクを承知していたということもそうです。

命を落とす危険が極めて高いことを知っていながら、彼らは事実を隠蔽して、私を利用したのですから。



このままではきっと、あの子も研究員達の玩具にされてしまう。

待ち望んだ二人目の成功例が、平穏無事に日常生活を送らせてもらえるはずがない。


そう気付いた時には、私はもう走り出していました。

厚い扉の向こうまで。


これ以上、罪なき子供の命を弄ばせてなるものか。

せめて、この子だけは。


私が、守ってみせると。



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