Episode14-4:終わらない夜の幕開け
夜風が窓を叩く音。
踏み締めた一歩が、床を軋める音。
パーティー会場の盛況さがまるで嘘のように、別世界にいるように、この屋根の下にある空間だけがとても静かだった。
呼吸が震える。
心臓が痛い。
背筋にじっとりと嫌な汗が滲み、上物のシャツが肌に張り付く。
オレは今、なにをしているんだろうか。
自分がどこに立っているのか、なんのためにここにいるのか、忘れてしまった。
今、お前の名前はなんだと問われても、すぐには答えられないだろう。
「から、ん、さん」
ようやく出て来た声は、掠れていた。
紡がれた言葉は、とつとつと区切れた。
からんさん。花藍さん。
そうだ。この人の名前は、花藍さん。
オレの好きな女。美しい女。
笑った顔が清楚な花のようで、雰囲気が儚い光のような人。
ああ、思い出した。
オレは、この人を迎えに来たんだ。
真面目で几帳面な性格の彼女が、約束の時間に連絡なしに遅れてくるなんてことは、まず有り得ないから。
だからオレは、心配になって、彼女の家まで迎えに来たんだ。
きっと、なにか不測の事態があったんだろうと思って。
オレは王子様じゃないから、白馬に跨がって手を差し延べることはできないけど。
それでも、貴女なら、オレの顔を見ただけで喜んでくれると思った。
いつものように、美しく笑って、来てくれてありがとうと、言ってくれると、思ったんだ。
花藍さん。
ねえ、花藍さん。
「花藍さん」
さあ起きて。返事をして。
今夜はオレの、大切な親友の、誕生パーティーなんだ。
綺麗なものも、美味しいものもいっぱいあって、すごく楽しい夜なんだよ。
たまには、嫌なこと全部忘れて、思い切り羽を伸ばそうよ。
「か、ら………」
すごく、楽しみだって言ってくれたじゃないか。
車椅子でもできるダンスをって、一緒に振り付けを考えたじゃないか。
頼むから、頼むよ。お願いだ。
どうか、目を覚まして。
「ァア、あ…っ。あ、……アァあ、あ、ア、っ…」
美しいドレスに身を包んだ、美しい花藍さん。
真っ赤な血溜まりの中心で横たわるその姿は、薔薇の園に紛れた一輪の胡蝶蘭だ。
これが、全て偽物であったなら。
ただの手のこった演出であったなら。芝居であったなら。
どんな姿でも、貴女は綺麗だと。いつものオレなら、困ったように笑っただろう。
本当に、全て嘘だったなら。心からそう思うのに。
鼻につく血の臭いが、倒れた車椅子が、割れた花瓶が。
視界に入る全てのものが、目の前の光景は現実なんだと、オレに叫んでくる。
"まあ…。そんな素敵なパーティーに私達もご招待してくれるの?
……いえね。ずっと、そういう席には縁がなかったものだから。
でも、いいかもしれないわね。たまには。
ミリィくんに恥をかかせないためにも、うんとおめかしして行きましょうって、後で朔にも伝えておくわ"
花藍さんの細い首にぽっかりと空いた、小さな穴。
弾丸一発。揉み合った形跡はなし。
きっと彼女は最後まで、毅然な態度で自分の運命から目を逸らさなかった。
正面から撃ち抜かれ、力無く横に体勢を崩し、腰掛けていた車椅子と共に倒れるまでは。
足跡はない。
用意周到な犯人が一人だったのか、複数だったのかもわからない。
ただ、抵抗した痕跡がなかったことから、相手が花藍さんにとって見知った人間であったことが窺える。
そして、殺されても仕方がないと、花藍さん自身にも観念する事情があったろうことが推測できる。
暗いリビングに、家主の死体がひとつ。
風にはためくカーテンの向こうからは、穏やかな光が室内に差し込んでいる。
この場で光源と呼べそうなものは、今はその程度だ。
"じゃあ、明日。予定した時間に、現地で会いましょう。
ふふ。ウルガノさんとのダンス、私も楽しみにしてるわね"
いつもここで、楽しい時間を過ごした。
ここにいる間だけ、オレは自分の恐ろしい本性から逃れることができた。
突然訪ねても、花藍さんは一度だって迷惑だとは言わなかった。
いつも、嫌な顔一つせずにオレを出迎えてくれて、話し相手になってくれた。
母を失ったオレに、貴女は帰る場所を与えてくれた。
それが、オレにとってどれほど救いだったか。
「ああ、ああぁあ、あ、ああ、ぁ、っあ」
全身から力が抜けて、オレはその場に崩れ落ちた。
床に膝を着くと、そこから花藍さんの血がじわじわと染みてきて、仄かに温かかった。
熱くなった目元を掌で覆い、うずくまると、言葉にならない声が赤ん坊のように口から漏れた。
あ、あ、と短い母音を紡ぎだす唇に伝ってきた涙も、少し温かかった。
そっと花藍さんの頬に触れると、まだ体温が残っていた。
安らかな表情を浮かべたまま、静かに目を閉じたその顔は、眠っているようにしか見えなかった。
誰か、嘘だと言ってくれ。
このリアルな悪夢から、オレの目を覚ましてくれよ。
震えて、思うように動かないこの手の代わりに、誰でもいいから、思い切りオレの顔を叩いてくれ。
誰か。
母さん。
なんで。
どうして。
この家には、常に幸福が満ちていた。
災厄とは無縁の世界だった、はずだった。
ここに住む二人の天使は、いつだってオレを笑顔で出迎えてくれた。
太陽がさんさんと差し込む部屋は、甘い焼き菓子と新鮮な花の香りで満たされていた。
なのに、今は。
「─────さく」
涙でぼやける視界の中心に、花藍さんの顔が映る。
そこで、オレははっとした。
朔が、いない。
花藍さんは今オレの目の前にいる。
変わり果てた姿で、眠るように息絶えて、死んでいる。
じゃあ、あの子は。
母親をこんな目に遭わせた奴らが、娘だけ見逃してくれるとは思えない。
花藍さんが殺されたのなら、やはり朔も。
"その地下室にはね、私の秘密を隠しておくの。誰にも言えない秘密を"
その瞬間、まるで弾丸に撃ち抜かれたように、かつて花藍さんの言った言葉がオレのこめかみを刺した。
"だからね、ミリィくん。
私にもしものことがあったら、あなたにそれを拾いに来てほしいの"
とっさに立ち上がり、リビングを出る。
駆けながら、首に下げていた革紐を引っ張って、握り締める。
向かった先は、倉杜家の物置部屋。
木製のドアを乱暴にこじ開けると、以前見た時と比べて、僅かに荒らされたような形跡が見て取れた。
どくどくと脈打つ心臓に急かされるように、床に散らばっている荷物を退ける。
その下に敷かれていた深紅の絨毯をめくると、階下へ繋がる扉が現れた。
見覚えのある地下収納の入口。
たった今首から外した革紐を指に絡め、その先端に繋がれた鍵をじっと見詰める。
数ヶ月前、オレがここを訪れた時にもらった鍵。
あの日、花藍さんから預かったあの時から、オレはこの鍵を肌身離さず身に付けてきた。
二世代国民の証であるドッグタグと共に、風呂に入る時以外は欠かさず首から下げていた。
それがまさか、こんな時に役立つだなんて。
いや、こんな時だからこそ、なのか。
"どうか、これからも朔と、仲良くしてあげてね"
鍵の先端を地下収納の錠前に差し込み、右に回すと、ガチリと鈍い音を立てた。
ゆっくり蓋を持ち上げると、地下に広がる空間が一気に視界を埋め尽くした。
そこは、相変わらず暗くて、冷たい空気を漂わせていた。
オレは、今一度周囲を確認してから、生唾を飲み込み、階段を下りていった。
一段一段踵を落としていく度に、嫌というほど固い足音が地下室中に響いて、逸る気持ちを助長させた。
「………朔?」
階段を下りながら辺りを見渡し、静かに声をかけてみる。
だが、返事はない。
人影らしいものも見えない。
きっとここにいるだろうと思って、反射的に体が動いてしまったのだが。
ひょっとしてオレの見当違いだったのだろうか。
だとしたら、朔は今どこに。
「─────ミリィ?」
次の瞬間、ふと背後から声が聞こえた。
小さな小さな、幼い少女の声だ。
振り返ると、階段の死角に隠れた人影が目に入った。
人影の正体は、毛布にくるまってうずくまった朔だった。
朔は、オレの顔を見た途端辛そうに表情を歪めると、ばっと影の中から飛び出してきて、オレの胸に飛び込んだ。
「ミ、リィ……っ。ミリィ、ミ、リ……!っう、ぅうう、う、!」
とっさに屈んで受け止めると、朔はオレの首に腕を回して、泣きながら何度もオレの名を呼んだ。
小さな体を包み込むように抱きしめてやると、少し冷たかった。
小さな頭を撫でてやると、小刻みに震えていた。
「……大丈夫。もう大丈夫だ、朔。一人でよく頑張ったな。
オレが来たから、もう怖いことはないよ。大丈夫。………大丈夫」
青地に、花柄が散りばめられた可愛らしいワンピース。
いつものシンプルな黒服ではなく、少し着飾って華やかになった姿。
花藍さんも朔も、既にドレスアップを済ませていたということは、犯人がここへ突入してきたのは、まさに二人が会場へ向かおうとしていた時ということか。
きっと、二人とも、今夜のパーティーを心待ちにしていたことだろう。
久しぶりに、たくさんの人の前に出て、友人との再会を喜んで。
親子二人で美味しいものを食べて、思い出に写真でも撮ろうなんて言いながら。
ほんの少し前まで、この屋敷には幸せな空気が満ちていたんだ。
いそいそとドレスに着替える二人の会話がどこからか聞こえてくるように、オレには手にとるように、当時の場面が想像できる。
そうだ。二人は、幸せだったんだ。
不吉な足音が、この暖かい家に近づいてくるまでは。
「───いいかい、朔。オレの言うことをよく聞いて、目を閉じて。
これから、オレがいいと言うまで、目を開けてはいけないよ。なにも見ないで、聞かないで。オレの声だけに集中するんだ。
そうしたら、またいつも通りだから。すぐにオレが、朔を怖い世界から連れ出してやるからな」
泣きじゃくる悲鳴を宥め、もう一度強く抱きしめてから、オレは朔を横に抱えた。
すると朔は、オレの言葉に従ってそっと目を閉じ、返事をする代わりにオレの胸に顔を埋めて、小さく頷いた。
「………会場の方では、演奏会をやっている頃かな。
最後まで聞いてほしいって、友達に言われてたから。後で怒られちまうな」
朔を抱えて、階段を上っていく。
オレは、朔に余計な想像をさせてしまわないように、終始パーティーであった出来事を話し続けた。
親友のこと、仲間のこと、兄のこと。
振る舞われたご馳走の中で、なにが一番美味しかったか。
飾られていた絵画の中で、どれが一番印象に残ったか。
淀みなく話し続けて、その度に朔は、オレのシャツをぎゅっと握った。
いい子だ、朔。
その調子で、そのまま、目を閉じていて。
ここを通り過ぎる時、ちょっとだけ変な空気がすると思うけど。
ここを抜けてしまえば、もうすぐだから。
一緒にこの悪夢から、目を覚まそう。
「こんなに可愛い朔を見たら、少年達はみんな好きになっちゃうだろうなあ。
………本当に。こんなに、かわいいのに」
視界の端に映る赤。
細い足首。
揺れるカーテン。
回る車輪。
とめどなく溢れる涙を拭わずに、オレはただ、話し続けた。
語る声が震えてしまわないように、ゆっくり呼吸をして。
そんなオレに気付いているのか、いないのか。
朔は本当に、オレがいいと言うまで、顔を上げずに黙っていた。
『A key to the mystery』




