Episode14-3:終わらない夜の幕開け
全身の毛穴が開く。
最後に瞬きをしたのは、何秒、何分前のことだったか。
無心。
神経を研ぎ澄ませて、耳に入る全ての音を余さず拾う。
すると、微かに布の擦れるような音が聞き取れた。
それから僅かに、ほんの少しだけ、背中に触れる空気が熱い感じがすることに気付いた。
来る。
言葉にならない人知を越えた感覚が、電気のようにマナの脳を刺激した。
その瞬間、マナはかっと目を見開き、呼吸を止めたまま勢いよく背後に振り返った。
とっさに振りかぶったマナの腕と、全く同じタイミングで振り下ろされた黒い腕とがぶつかり合うと、その場に鈍い衝撃音が響いた。
マナが反応したタイミングは、まさに狙い通りだった。
背後からじわじわと迫ってきていた敵兵の一人は、見事に不意打ちの攻撃を止められたのだ。
どうやら、背中に衝撃を与えて身動きを封じようとしていたらしい。
その証拠に、武器となるものは握られていなかった。
だが、殺す気はなかったというだけで、敵意は今も途絶えていない。
「!くっ、───」
まさかこんなに小さな少女に止められてしまうとは思わなかったようで、敵兵の男は怯んだように目を丸めた。
その隙を突いて、すかさずマナが男の懐に入ろうとすると、男もすぐに身を翻した。
手っ取り早くダメージを与えるためには、まず鳩尾に一発。
そう思って一歩を踏み込んだマナだったが、それは失敗してしまった。
やはり、プロを相手にはそう簡単にいかないようだ。
けれどマナは、攻撃をかわされても後退しなかった。
ここで相手に態勢を整える猶予を与えてしまったら、武器を持たない自分に勝機はないと判断したからだ。
「こ、の───!」
養父のニコライ。そして、新たな師となったシャオ直伝の体術を惜し気もなく繰り出し、男に息をつかせる間もなく連続で攻撃するマナ。
しかし、本職の兵士を相手には、いくらスピードで勝っても到底歯が立たなかった。
最初の一手を防いだことから、流れは一応マナにある。
これという反撃に出られない程度には、男を追い詰めている。
ただ、ここぞという決め手がなかった。
今のマナには武器がなく、パンチ一発で相手をノックアウトできるほどの腕っぷしもなかった。
男も、不意打ちを止められたことには驚いたようだが、徐々に冷静さを取り戻しつつある。
いかにも余裕しゃくしゃくといった軽快な足さばきは、まるでマナとの取っ組み合いを楽しんでいるかのようだった。
このままでは、先にこちらがじり貧になる。
やがて、そう悟ったマナが一撃必殺の回し蹴りの体勢に入った時。
その一瞬の隙を見て、男が腰に装備していたテーザー銃に触れた。
マナの素早いキックよりも、男の動作の方が僅かに早かった。
黒いフェイスマスクから覗く男の目元が、ニヤリと弧を描く。
男の手がゆっくりと銃を引き抜く光景が、マナの視界に映る。
"しまった"
気付いた時には、もう遅い。
「─────マナ!!!!」
突如響いた咆哮は、ヴァンの声だった。
彼が今どこから呼び掛けているのかはわからない。
ただ、その声に男がびくりと反応を見せた。
刹那、マナの振り下ろした足が、男の無防備な首に直撃した。
どうやら、先程のヴァンの一声で男の集中は切れてしまったらしい。
触れていた銃を構えることも、とっさに防御することも間に合わず、マナのキックが先に決まった。
これはマナにとっても男にとっても予想外の展開だったが、終わってしまえばなんてことはない。
急所にモロに食らった男は、衝撃の勢いで横に体勢を崩していき、最後には力無く仰向けに倒れた。
「マナ!どこだ!!マナ!!」
「こっちだ!ヴァン!」
たった今倒した男の姿を見下ろしながら、マナはヴァンの呼び掛けに応えた。
ヴァンは慌てた様子で駆け寄って来ると、ようやく見付けたマナに向かって心配そうに声をかけた。
「ハア、良かった。さっきまでいた場所にいないから、他の仲間に捕まったのかと思ったぞ。
怪我はないか?」
「ああ、うん。ごめん。
やり合ってる内に路地に入っちゃったみたいだ。怪我はしてないよ」
「そうか…。それで、そいつは?まさかお前が倒したのか?」
「ボクが倒したっていうか…。これはただ、運が良かったんだ。
本当に、あなたには助けられてばかりだね」
ヴァンは、倒れている男とマナとを見比べると、申し訳なさそうに前髪をかき上げた。
「……すまない、マナ。一人取りこぼしてしまって、お前を危ない目に遭わせてしまった。
本当に怪我はしてないのか?どこか痛いところは?」
「大丈夫だよ。本当に、どこもなんともない。
それより、他のやつらは?全部で7人くらいいるって言ってたよね」
「ああ、それなら片付けた」
なんてことはなさそうに言うヴァンを見て、マナは絶句して目を丸めた。
「かた……。6人全員?一人でみんな倒しちゃったの?」
「そんな顔をするな。心配しなくても、殺してはいない。
ただ、しばらく眠ってもらっただけだ。強制的にな」
さすが、伝説と呼ばれた男。とでも言うべきか。
熟練の兵士を6人も同時に相手して、ヴァンはその全員を丸腰で倒してしまったというのだ。
それも、本人は全くの無傷で。
自分はたった一人と応戦するだけで精一杯で、辛勝できたのもまぐれのようなものだったのに、とマナはうなだれて溜め息を吐いた。
「じゃあ、検証のために一つ持ってくるから。ちょっと待っててくれ」
そう言って一旦来た道を引き返していったヴァンは、間もなく何かを地面に引きずりながら戻ってきた。
無遠慮極まりないやり方で運ばれているそれは、先程ヴァンが倒した兵士の一人だった。
「ホラ」
嘘じゃないだろ?とでも言いたげな顔で、ヴァンは失神している兵士の首根っこを持ち上げると、マナが倒した男の上に重ねるように放り投げた。
「……すごい武装だね。
こんな奴らを相手に、手ぶらで突っ込んでいくあなたはやっぱり尋常じゃない」
「そうか?まあ、6人同時となると流石に手こずったがな。
ただ、俺は夜目が利くから。暗闇の中の戦闘なら、ちょっと得意なんだ」
「……あなたが味方で良かったって、心底思うよ」
ぐったりした表情でぼやきながら、マナは屈んで兵士の体を突いた。
二人は同じ防御服を着用していて、全身にナイフや銃などの武装を施していた。
その風体は、ただの兵士というより、SWAT隊のような公的組織に近いものだった。
それからマナは、失神したままぴくりとも動かない彼等のマスクを恐る恐る外してみた。
顔を確認したところ、下敷きになっている方は若く、ヴァンが上に積み上げた方は30代半ばほどの男性だった。
「問題は、こいつらをこの後どうするかだな。
とりあえず、目が覚めても動けないよう縛っておくか」
「そうだね。なんにしても話は聞かせてもらわないと。
どうしてボクらを狙っていたのか…。と、」
「どうした?」
「そういえば、やけに静かじゃない?
結構騒がしかったはずだけど、お家の人達、誰も出てこない」
「ああ。そういやそうだな。
………じゃあ、あれなんじゃないか?
この辺りはでかくて高そうな家が多いし、住んでる金持ちはみんなパーティーの方に出かけてるとか」
ヴァンの推測通り、近辺に住む住人達は皆出払っていて、住宅地はもぬけの殻だった。
この現場を人に目撃されてしまうと説明が難しい上、ヴァンはあまり表立って動けない立場にある。
目下、暴力沙汰に関わったとなれば、尚のことだ。
故に、こんな場所で奇襲に遭ったのは想定外だったが、関係者だけで事態を収拾できたのは不幸中の幸いといっていいだろう。
「そっか。なるほどね。それならこっちとしても好都合だ。
人が集まる前に、ちゃっちゃとこいつらを片付けちゃおう」
「わかった。俺は残りの奴らを回収してくる。マナはもうしばらくここを動かないでくれ」
その後、ヴァンは再び倒した兵士の回収に向かい、しばらくして残りの5人を纏めて戻ってきた。
いくら地面に引きずっているとはいえ、大の男を一気に5人も運んでくるなど信じられない怪力である。
「見て。こっちの3人ロープ持ってる。拘束用かな?」
「だろうな。なんにせよ丁度いい。それを使わせてもらおう」
更に兵士達の装備を調べていくと、内の3人が手足を拘束出来そうなロープ等を所持していた。
それを当たり前に失敬したヴァンとマナは、手分けして7人全員を縛った。
作業に一段落着くと、マナは立ち上がって兵士達を見下ろし、怪訝に目を細めた。
「おい、マナ?顔色が良くないぞ。やっぱりどこか痛めたんじゃ…」
「いや、そうじゃないんだ。心配してくれてありがとう。
ただ、気になることがあって…」
「気になること?なんだ?」
「……さっき、ボクがこいつに勝てたのは、あなたのおかげって言ったでしょ?
実はあの時、あなたがボクの名前を叫んでくれたおかげで、一瞬だけどチャンスができたんだ。
あなたの声に反応して、こいつが怯んだ。あれがなかったら、ボクは今頃ここにいなかったかもしれない」
ヴァンの声に反応して、とっさに動きを止めたマナの敵対兵士。
最初は怯んだだけにも見えたが、どうにもそれだけではない気がするとマナは思っていた。
「そうだったのか…。あれは特に考えなしに、焦ってやったことなんだがな。
まあ、お前の助けになったならいいが」
「うん。助かった」
「気になることっていうのは、それか?
俺の声に反応したってことは、こいつらは俺を狙って襲ってきたのか」
「………それは、まだわからない。でも、ちょっと違う気がする。
あの時、こいつはあなたの声に反応したってよりは……。
ボクの名前を聞いて、驚いたような感じだった」
風が吹き、マナとヴァンの髪がゆらゆらとなびく。
マナにとっても、ヴァンにとっても、目の前にいる7人の兵士は赤の他人である。
面識などなく、何故に彼等が襲ってきたのかも定かでない。
ただ、不明な点が多い中で、二人には確かに感じていたことがあった。
違和感。
事情があったにしろ、本当にこいつらは自分達を狙ってきた刺客なんだろうかと。
夜はまだ深い。
ヴァンは、パーティー会場に残してきたトーリ達に連絡するべく、上着から携帯電話を取り出した。
マナは、戦闘の最中に落としてしまったストールを拾って、付いた土埃を手で払った。
後で謝らなくちゃ、と小さく呟いた声は、急な風の音にかき消された。




