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オルクス  作者: 和達譲
Side:S
105/326

Episode13-4:長い夜のはじまり



PM5:30。

ただ一人メイン会場に向かわなかったアンリは、シャオ達と別れた後、ある部屋に留まっていた。

実はここで、ある人物と落ち合う約束をしているのだ。


今夜に限り、客人も自由に出入りできる仕様となったこの部屋には、有名な絵画が幾つも飾られている。

これらは全て、屋敷の主人であるナルシスが趣味で買い集めたものだ。


高名な画家が描いたとされるものから、名も無き新人の処女作まで。

ネームバリューに関わらず、ここにはナルシスのセンスによって選び抜かれた絵画が揃っている。

来賓達はこれを自由に鑑賞し、各々パーティー開演までの時間を潰しているというわけだ。



しかし、(たむろ)する女性達の殆どは、絵画に関心を示していなかった。


彼女らの視線の先にあるのは、たった今風のように現れた一人の美しい男。

その横顔を視界に捕らえた瞬間から、彼女らの目はアンリに釘付けとなっていた。


というのも、今夜の彼はいつにも増して魅惑的なのだ。

パーティー用の燕尾服に身を包み、長い髪をオールバックで結い上げた姿は、まさに非の打ち所がない。

元々の育ちが良いこともあり、華やかな空気に完璧に溶け込んでみせている。

どこをとっても、名家の出であることが一目瞭然なほどに。



今のアンリは、これ以上ないほどに注目の的だった。

どこからともなく感嘆の溜め息が漏れ、四方から熱視線を注がれている。


だが、どれほどの注目を浴びようとも、本人に声をかけようとする者はなかなか現れなかった。


せっかくだから話をしてみたい。

けれど、彼のような美しい人に自分から近付くのは畏れ多い。

そんな引け目から、彼女達は遠巻きにアンリの姿を眺めることしかできずにいた。


ただ一人、軽い足取りで歩み寄っていく美女を除いて。




「アンリ」




部屋にやって来るなり、アンリはきょろきょろと室内を見渡して目当ての人物を探した。

そこへ、一人の女性がおもむろに近づいていき、アンリの背後から声をかけた。


アンリが振り向くと、そこには上目がちにはにかむ愛しい(ひと)の姿があった。

彼女と目が合った途端に、アンリは嬉しそうに目を細めた。




「……久しぶりだな、キオラ。

あんまり綺麗だから、一瞬君の背中に白い翼が見えた気がするよ」


「残念。天からのお迎えは、あなたにはまだ早いよ。

アンリの方こそ、今夜の姿はまるで、神話に出てくる英雄みたいだ。

素敵だよ、とっても」


「それは俺の台詞だよ。本当に素敵だ、キオラ。

どうか今夜は、世界で最も美しい君を、この俺にエスコートさせてくれ」



そう言うとアンリは腰を屈め、左手を後ろに回して頭を垂れた。

右手はキオラの指に添えて、彼女の薄い手の甲に触れるだけのキスを落とした。



周りの目をやや気にしながらも、迷わずアンリの元へ歩み寄っていった美女の正体は、彼の幼馴染みにして最愛の人である彼女。

キオラ・シャムシュロヴァ・グレーヴィッチだった。


ダークパープルのコルセットドレスは漆黒に近い重厚な色合いで、彼女の雪のような肌によく映えている。

首筋を覆うネックコルセットも同様のデザインで、うなじ部分から垂れたリボンが時折揺れている。

膝丈の裾から覗く長い足は、(かもしか)のように繊細だ。


衣装も装飾品も控えめだが品のある装いで、それが一層彼女の美貌を引き立てていた。

今のキオラは、誰が見ても完璧な美女だった。




「勿論。今夜はそのために来たんだから。

こういう華やかなパーティーって、どうしても緊張しちゃうから、もしかしたらアンリの足を引っ張っちゃうかもしれないけど…。

それでも、今日のために頑張って練習してきたから。

お手柔らかにお願いしますね、紳士様」



キスを受けた手の甲を愛おしそうに一撫でして、キオラはアンリに微笑んだ。




「君は相変わらず自分に厳しいね。まあ、そういうストイックなところも魅力の一つだと思うけど。

……心配しなくても、君のダンスは全く問題なしだから、もっと気楽にして。

前に俺とワルツを踊った時だって、足を引っ張るどころかとても上手に、」


「当然。俺が直々に指導するからには、他に遅れはとらせないよ」



すると、二人の間を邪魔するように、横から若い男の声が割り込んできた。

途中までキオラとの会話を楽しんでいたアンリは、その声に遮られて思わず口をつぐんだ。


同じく声に気付いたキオラが、アンリの背後に向かって声の主の名前を呼ぶ。

急に気分が急降下したアンリも、続いてゆっくり後ろを振り返った。




「やあ、久しぶりだねアンリ君。なかなか会えなくて寂しかったよ」


「……ヴィクトール」




このやや威圧感のある気配と、端正なテノールボイスとくれば、わざわざ振り向かずとも分かる相手だった。


ヴィクトール・ライシガー。27歳。

キオラ同様に昔馴染みで、アンリとは切っても切れない関係にある因縁の存在。

アンリの一番の恋敵にして、宿敵とも呼ぶべき男。


それが、現キングスコート主席、ヴィクトール・ライシガーなのである。




「遅かったね。手続きでなにかあったの?」


「いや、ちょっと顔見知りの連中に絡まれていただけだよ。

主席になってからというもの、大した交流もないのに、気安く接してくる奴が増えて困る」


「あはは。そんなこと言ったら可哀相だよ。

きっとみんな、ヴィクトールと仲良くなりたいだけなんだからさ。それだけ人望があるってことだよ」


「人望、か。

俺としては、キーラとアンリ君さえいてくれれば、他に友人なんていらないと思っているけどね」




張り付けたような薄ら笑いを浮かべて、ヴィクトールはアンリの隣を横切った。


シルバーグレーの短髪に、お馴染みの軍服姿。

格好は至って平素通りだが、前髪だけは少し整えてきたようだ。

平素は七三に分けているところを、今夜はオールバックに纏めている。


しかし、いつもと違う点といえばそれくらいで、パーティーだからと特別に着飾ってはいなかった。

それは偏に自信の表れであり、彼は華やかな席でも取り繕う必要がないことを意味している。



その堂々たる振る舞いを前に、アンリは内心歯軋りをしたい気分だった。




「素敵な衣装だろう?今夜のために特注したドレスなんだ。

彼女には華やかな色よりも、深い紫や黒の方が似合うと思ってね。デザイナーと俺と、二人三脚でこしらえたのさ」



キオラの背後に回ると、ヴィクトールは我が物顔でキオラの肩に手を乗せた。



「……二人とも、さっきから褒めすぎだよ。

素敵なのはこのドレスで、私自身はおまけっていうか、馬子にも衣装、というか……」



褒められ慣れていないキオラは、少し困った様子で頬を染めた。



「そんなことはないさ。今まで生きてきた中で、俺はキーラ以上に美しい女性を見たことがないよ。

アンリ君も、そう思うだろう?」



ヴィクトールは一層笑みを深くすると、キオラ越しにアンリの方を見詰めた。

その姿に、アンリは胸中で嫉妬の炎が燃え盛るのを感じた。



"アンリ君もそう思うだろう"


相変わらずの口ぶり。相変わらずの態度。

まるで、彼女を自分の色に染め上げてやったとでも言いたげに。

彼女の真価は自分だけが理解しているとでも言うように。


この男は、いつもこうだ。

俺とキオラが親しげに話していたりすると、必ず間に割って入ってくる。


それが、ずっと忌々しかった。

俺よりキオラと親密そうに見える彼が、羨ましくて憎かった。

ヴィクトールの存在そのものが、昔から俺のコンプレックスだった。



だが、今ならわかる。

何故彼が、こうも執拗にキオラとの仲を見せ付けてくるのか。

お前よりも自分の方が優位に立っていると、無言で主張してくるのか。


きっとそれは、自信でもなければプライドでもない。

俺が彼に対してそうであるように、ヴィクトールもまた、俺とキオラの仲に嫉妬しているのだと。




「───そうだな。

紫は、赤と青が混ざり合って生まれる色だ。この二つが合わさって、より一層深みを増す。

……けど、キオラに最も似合う色は、深い黒よりも、真っさらな白だと俺は思う」




もう一歩キオラに近付くと、アンリは静かな声でそう言った。



今、アンリの視界には、キオラの照れたような笑顔が。

キオラの視界には、アンリの慈しむような笑顔がそれぞれ映っている。


だが、その後ろでヴィクトールが鬼の形相を浮かべていることは、アンリしか知らない。




「ヴィクトールも、そうは思わないか?」



確かに、彼女は俺だけのものではない。

俺とお前と、両方の影響を受けて、今のキオラがある。


それでも、先に身を引いてやるつもりはない。

この体を、真っ青に上塗りさせてやるつもりはない。


いつかは、お前の青を押し退けてみせる。

彼女の身も心も、全て、俺の赤で染め上げてみせる。


そして、最後には必ず、俺が彼女の隣に立つ。

彼女に純白のドレスを着せるのは、俺だ。

悔しがるライバルの顔を見下ろすのも、俺だ。


そっちがその気なら、俺ももう遠慮しない。

例え、キオラが俺を愛してはくれなくても。

お前にだけは、絶対に渡さないと、決めた。




「───うーん。ロマンチストというよりは哲学者だな、君は。

……さて。出来ればもう少し、ここで二人とお喋りをしていきたいところなんだが…。この後外せない用があるものでね。

俺は先に失礼させてもらうよ」



一瞬顔を顰めたものの、ヴィクトールがアンリの言葉に言い返すことはなかった。

すぐにいつもの調子に戻ると、彼は何事もなかったようにキオラに笑いかけた。



「あ、バシュレーさんのとこ?」


「そう。他にも挨拶回りとか、色々とお務めがあるからね。

純粋にパーティーを楽しむというよりは、招待状片手にビジネスをしに来たようなものなのさ、俺は。

じゃあ、キーラ、アンリ君。また後で。

一番手は彼に譲るけど、後半のダンスでは俺がパートナーだってこと、忘れないでくれよ。キーラ」


「わかってるよ。

行ってらっしゃいヴィクトール。また後で」




別れ際、キオラの頭に別れのキスを落とすと、ヴィクトールは一人部屋を出て行った。

さすがに首都の主席ともなると、手放しで宴を楽しむわけにはいかないらしい。


パーティー終盤の舞踏会では、アンリに替わってヴィクトールがキオラと踊ることになっている。

二度同じ相手を選ぶことはできないので、これは変えようのない決定事項だ。


しかし、言い方を変えれば、それまでの間ヴィクトールはいないも同然。

心おきなく、アンリは想い人と二人きりの時間を満喫できる。



ヴィクトールの後ろ姿を見送り、改めて背筋を伸ばしたアンリは、キオラに向かって手を差し延べた。




「それじゃあ、俺達も行こうか」




差し延べた手に、一回り小さい掌が乗せられる。

久々の再会を喜んでいるのは、どうやら彼女も同じのようだ。




「段々緊張してきたけど、アンリが側にいてくれるから、心強いよ」



ヴィクトールが去った今、彼女の笑顔はアンリにのみ向けられていた。

彼女は今、アンリのことしか見ていない。


きっと、この瞬間がチャンスなのだ。

口を開いて、声を出して、想っていることを率直に言葉にすれば、彼女に気持ちを伝えられる。

ただ自分が素直になるだけで、新たな一歩を踏み出すことができるのだ。


しかし、頭では理解していても、体が言うことを聞かない。

臆病がアンリの行く手を阻み、前向きな思考を停止させた。


もし、拒絶されてしまったら。

悪い予感ばかりに支配された体は、もうマニュアル通りにしか動けなかった。




「ねえ、アンリ。

また、どこかで、ダンスを踊る機会があったら、……。

その時も、私をパートナーに選んでくれたら、嬉しいな」




何故自分は、歯の浮くような台詞は簡単に言えるのに、たった二文字の"好き"だけは、どうしても言えないのだろう。


そんなアンリの胸の内を知ってか知らずか、キオラはただ無邪気に笑った。



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