月が見ている
ビルとビルの間、人が一人通り抜けるのがやっと、という隙間に、月明かりが差し込んでいた。
男は、その明かりを、薄れゆく意識の中で見ている。
一体、なぜ、自分がこのような目にあわなければならなかったのだろう……。
月の光が、腹に刺さっているナイフを、冷たく照らしている。
男は、三十五才のこの日まで、平凡な日常を過ごしていた。
ひときわ顔がいいわけではなく、スタイルがいいわけでもないが、周囲から嫌われることもなく、大学生のときにしていたアルバイトで知り合った、ひとつ年下の女の子と、五年の交際を経て結婚をした。
それから四年後に娘、二年後に息子を授かっている。
会社の営業部での成績は、可もなく不可もなく、ごく普通の成績だ。
目立つことをしてきたわけではない。
たかがなんメートル動けば、表通りなのに、体に力が残っていない。
月明かりの中に、子供の顔が浮かんだ。
小学校に入って、初めての運動会は半月後、だ。
娘の運動能力は、妻の血を受け継いだものだろう。自分は、やはり普通でしかなかった。
料理上手の妻の、手作りの弁当を持って、自分はカメラマンに徹して、娘の思い出作りを楽しみにしていた。
痛みの感覚が、遠退いていく。
金を出せ、と、脅してきた。
ごく普通のサラリーマンの自分が、なぜ狙われたのかが、やはりわからない。
あっというまにこの路地に連れ込まれ、そして、刺された。
恨みをかう覚えもなかったのに。
知らずに、涙がこぼれる。
財布だけではなく、携帯もとられてしまった。
息子へのお土産のおもちゃは、自分の足元で潰されている。
娘に買ったのは、ぬいぐるみだ。
それも、隙間の奥のほうに投げやられてしまっている。
体が動けば、助けを呼べるのに、それも、もう……。
彼は、妻の名を月明かりに呟いた。
息子の名を、娘の名を、囁いた。
そして、思い出した。
自分は、この月明かりを、何度も見ていた、と。
死に際の月明かり。
あるときは藪の中で。
あるときは町中で。
あるときは、崖の下で。
思い出した。
自分は、この月明かりを、何度も見上げていた、と。
殺した直後の月明かり。
あるときは、相手の返り血を浴びたまま。
あるときは、逃げる途中の町の外れで。
あるときは、突き落とした相手の死体を確認したあとで。
ああ、そうだ。
これは、贖罪なんだ。
遥か昔、ひとつの人生で殺した相手と同じ死に方が、償いなんだ。
死ぬ間際に、必ず思い出していた。
最後に殺した女の言葉と共に。
もう、痛みは感じない。
周囲の音も、聞こえない。
意識が死の世界に入る間際、彼は問いかけた。
あと、何度で許してくれる……?
月明かりが、言った。
『あと、三回よ。それがあたしの恨み、おまえの罪。』