第16話 そして勇者は……(1)
声が聞こえた。私を呼ぶ声が。
夢幻か? 否、私ははっきりと耳にした。
何処か幼くも強みのある声色が、荒れた空間を割く程に響き渡る。
「あかりに、何しやがるテメェ!!」
渾身に振るわれた拳が、魔族の左側頭部を叩く。唐突の出来事に、振り下そうとした腕がビタリと止まる。
だが、魔族はビクリとも動かない。ただ何事かと、拳を振るった少年へと顔を向け、荒い息を吹き掛けた。
お互いに睨み合い、一歩も動かない。だが、それも一瞬だった。
魔族は再び腕を振るい、鋭く伸びた爪を少年へと無造作に繰り出す。
少年は慌てて身を沈め、すれすれの所で躱す。
咄嗟に土や砂利を掴み、顔目掛けて撒き散らした後、怯んだ魔族の背後へと回り、全身で強打する。
決定打に成り得ない事を何度も何度も繰り返し、次第に、先に片膝を付いたのは少年の方だった。
圧倒的な力の差があった。
少年の顔には、大量の汗が滲み出ており、よくよく見れば、体の至る所には包帯が巻かれていた。
ボロボロの体を無理に動かした代償か、動きが目に見えて鈍くなっていた。
「ライトォ!」
私は叫んだ。目の前の、満身創痍の体で立ち向かう背中へ。
少年は、一瞬だけ此方に振り向き、笑顔を向けた。
大丈夫だと、言われたような気がした。
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目の前の怪物を見上げ、口角が歪みつつ吊り上がる。
何て馬鹿な事をしてるんだろうか。そう心中で吐露し、見据える存在へと敵意を向ける。
武器は無い。素手で勝てる見込みは無い。魔力も枯渇している。
せめてもの救いは、相手も同様に魔力を切らせ、反応が鈍いと言う事だが、辺りに漂う瘴気のせいか、俺の体を確実に蝕んでいた。
瘴気はまさに毒だ。肉体を侵し、体力を奪う。やがて意識が薄れ死に至らしめる。
俺は生身の体で瘴気を浴びている。その為、次第に虚脱感が襲う。長期戦は無理だ。
それは奴も例外ではない。
魔族にとっても、瘴気は等しく毒であった。
瘴気によって生み出された生物。だが、その毒に耐えていたのは、奴が内包する魔力のお陰でもあった。
魔族である奴にとって魔力は、いわば生命線なのだ。だからこそ、枯渇した魔力を補おうと、飢えとして現れた衝動を抑えようと、人間を襲い喰ったのだ。
だが、それで癒える筈もない。一時凌ぎにしかならない。それ故にまた人を襲う。
この世界の人間を襲っても、魔力は回復しない。そもそもこの世界にはマナが無い。
それでも、眼前の飢えた獣は渇望する。飢えを癒したいと。
だからこそ、目の前の俺が邪魔だとばかりに、より一層と殺意をばらまく。
俺は横目で彼女達を見遣る。そこには、良く見知った人物が居た。
かつての仲間である、賢者ガルオゥムの姿がそこに在り、少しばかり安堵した。彼が居るのなら、彼女は大丈夫だと。
間に合って良かった。
再び逃げられた時は、どうしたものかと悩ませたが、相手の向かう先が真っすぐ此処に向かっていたのは幸いだった。
今は、草村の影で身構えている協力者のお陰で、迷う事無く追い掛ける事が出来た。
追っている最中で、『奴が向かう先に、例の匂いを感じたぞ』と言われた時は、心臓が止まるかと思った。
実際、この場に着いた時には、まさに殺される寸前だった為、我を忘れて飛び出してしまった。
そのお陰か、相手の注意が此方に向いたのは幸運だった。
後は目の前の魔族をどうするかだ。
お互いに後は無い。ならば、先に力尽きた方が終わりだ。
所謂我慢比べと言った所だろうか。だが、当の魔族はそんな勝負なぞ望んでいない。
早く目の前の獲物を捕食し、飢えを癒したい。そう思っている事だろう。だから、動く。
鋭く鋭利な爪を横薙ぎに、邪魔者たる俺へと振るう。
幾ら動きが鈍いとは言え、その巨腕から繰り出される斬撃は恐ろしい。避けるにしても、早すぎる。
大袈裟に飛び退く訳にもいかず、殆ど当たるか当たらないかの距離を取りつつ、挙動に神経を尖らせ、動作に合わせて体を逸らす事で精一杯だった。
(だが、それでいい。下手に倒す事は考えるな!)
俺は、幾重にも振り抜かれた斬撃を躱し、慎重に相手の体力を削る。
幸い、奴は逃げる素振りは見せない。それだけに、相手はギリギリなのだろう。
焦りを帯びた雄叫びが肌を打つ。
それでも、やられてたまるか! と、俺も吠える。
土や砂利を手に掴み、顔面目掛けてぶちまけた。
咄嗟の事に目元を庇う隙に、背後に回って体当たりをお見舞いする。
それで倒せるなら苦労はしないが、確実に頭に血を上らせている事だろう。
無駄に体力を消費させれば、いずれ自滅する。そう睨んで何度も挑発するように、さして効果の無い攻撃を繰り返す。
だが、読み違えた。
先に限界を迎えたのは、他でもない俺自身だった。
(くっ……。やべぇ……)
ぐらりと、視界が歪んだ。
意識が朦朧となり、気付けば片膝を付いて身動きが取れなくなっていた。
思っていた以上に、瘴気による影響は、俺の体力を予想よりも早く奪っていた。
手足が痺れ、四肢に力が入らない。
これ以上はまずいと、身体が警鐘を鳴らす。
「ライトォ!」
離れた場所で、あかりが俺の名を呼ぶ。
大丈夫だ。心配すんな。
俺は少しだけ彼女を見て、無理やりの笑顔で応えた。
刹那――
ザンッ! と、俺の腹部から赤黒い液体が舞った。
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