8話 紫、現る
「松野くん!」
ある時は、昇降口で待ち伏せされ、
「まーつーのーくん!」
ある時は、昼休みにわざわざ教室まで来て、
「松野ーッ!」
またある時は、体育の授業中と思われるグラウンドから。
三日。たったの三日間で、こんなにも自分の名前を叫ばれる日がくるなんて誰が予想できただろう。少なくとも、過去にもそんな事例はないし、これから先もないはずだ。
ーー……そう信じたいけど
放課後になり、生徒がぞろぞろと動き出す中、悠介は溜め息をつきながら席を立ち、教室の引き戸をスライドさせる。
「…………」
「よぉ、松野」
壁に寄りかかりながらそう言った理久を目に、悠介は表情を歪ませた。
本日三十八回目となる名前を口にされ、さすがに呆れ顔せずにはいられない。舌打ちしたい気持ちを抑えつつ、廊下を歩く。
理久はその後ろを何の躊躇いもなくついて行き、顔を覗き込んだ。
「なぁ、松野。この前のーー」
「嫌だ」
「まだ何にも言ってないし!?」
足早に階段を下る悠介に何とか追いつきながら、会話を続けようとする。
「……何でそんなに嫌なんだよ」
「嫌なものは嫌なんだ」
「理由になってねぇし、それ」
「……俺はお前と違う」
「何が?」
一年生の昇降口に行き着く。
不思議そうな表情で返す理久を一瞥した後、悠介は靴を履き替え、背を向けたまま呟いた。
「ーー遊びで書いてんじゃねぇんだよ」
氷の如く冷え切った声音で、そう吐き捨てると外に足を向ける。
離れていく悠介の背は高校生とは思えないくらい大人びて見えた。そんな姿を見つめた後、理久は我に返ったように口を開く。
「ま、待ってるから! いつでもこいよ!」
叫ばれた言葉に対して、振り返りもせず、手も上げず。
ただ遠ざかっていく天才を、なす術もなく見送る。門の外へ消えたのを確認すると、大きな溜め息と共に疲労が体を支配した。思わず、その場にしゃがみ込む。
「やっぱり難しいかー……」
勧誘成功への道は、まだまだ険しい。
◇◆◇
理久が頭を悩ませている一方、茜はとある空き教室を前にして、眉間にしわを寄せていた。「……うーん」
「ここしかないかぁ……」
古びた扉を眺めながら、溜め息混じりにそう呟く。既に誰も使わなくなっている教室のためか、鍵は取り付けられておらず、若干錆びているようにも見えた。
意を決したかのように茜は扉に両手をかけると、思いっきり横へと動かす。軋む音を発しながらも何とか開いたが、強くスライドさせてしまった衝撃からか、足を踏み入れると共に大量の埃が宙を舞った。
「うわッ」
短い悲鳴を上げ、手で仰ぐような仕草をする。全く使っていない、という教師の言葉は伊達ではなかったらしい。
沈んでいく西日の光に反射するように、キラキラとした映像をチラつかせる教室の中。ふいに、夕暮れの風が体を包み込む感覚を覚え、違和感が頭を掠めた。
ーー窓が……開いてる?
不信に思い、揺れる空色のカーテンへ目線を向けると、奥の窓際に設置されているソファらしきものに、人影が寝転んでいる景色が、茜の目に飛び込んできた。驚きながらも、恐る恐るその人影へ歩を進め、顔を覗き込む。
襟元の校章に一年生を示す模様が刻まれており、癖っ毛のある茶髪のこめかみ辺りで時折光る紫色の細いピンが印象的な少年だ。気持ち良さそうに眠るその表情の奥には、やっと安息の地を見つけたような、そんな色が見えた。埃が舞い踊る中「あのー」と茜は控えめに話かける。意外にもアッサリ、少年は薄っすらと目を開いた。
「ごめん、この教室使いたいんだけど……」
「…………」
「…………」
ーー……俺何か悪いこと言ったかな!?
不安を感じ、慌てふためく茜をよそに少年は、ゆっくりと起き上がるとそのまま出口へと歩き出す。寝起きだからなのか、足元はふらついていた。
呆然とその後ろ姿を見る茜の視線に気づいたのか、それとも何となくなのか。少年は引き戸に手をかける前に振り返ると口を開いた。「……名前」
「名前、なんていうの」
「え……っと、出雲茜です、けど?」
「ん、覚えておく」
じゃあね、茜。
そう少年は言い残すと教室から出て行った。
相変わらず、扉の衝撃で埃は舞い続けている。一人きりとなった空気の中、茜は不思議な感覚に陥りながらも、ポツリと呟いた。
「…………あの人、なんだったんだろう」
後にその疑問は解決されることとなるのだが、それはまだ少し先の話である。
◇◆◇
とあるビルの一室。
丁度良い温度が保たれている編集部の会議室にて、悠介は仕事の打ち合わせをしていた。
手元に置かれた緑茶を飲み干した頃、向かいの席に座っていた優男風の雰囲気を持つ男性は封筒に紙の束を戻すと、笑顔で悠介に語りかける。
「じゃあ、今回の原稿はこれで。わざわざ届けてくれて、ありがとう」
「いえ、お疲れ様でした」
浅く頭を下げ、機械的な返答をしながら悠介は腰を上げるが「悠介くん」と制され、動作を止めた。
「なんですか、神林さん」
「あ……いや、たいしたことじゃないんだけどさ」
神林、と呼ばれた男はズレた眼鏡を直しながら曖昧に語尾を濁す。迷いの色が目に浮かんでいたが、やがて恐る恐ると言った様子で言葉を紡ぎ出した。
「悠介くん、一生懸命に書いてくれるのは嬉しいけど、そんなに無理しなくてもいいんだよ? まだ高校生なんだし……ほら、学校とか大丈夫なのかい?」
学校、という単語に悠介が一瞬反応を示す。
だがすぐに、それもどこかへ押し込んだようにすると、淡々とした声で返事をした。
「大丈夫です。学校を理由に仕事を投げ出すなんて、作家としてあるまじき行為だと思いますから」
「いや、確かにそうなんだけど」
「では、お疲れ様でした」
「あ、送っていくからちょっと待ってて」
「電車で帰れます、失礼しました」
一切の間も許さないような会話を終わらせると、悠介は一礼をして部屋を出て行く。
そんないつも通りの風景を見送った後、神林は苦笑と共に背もたれへ体を預けた。
松野悠介ーーもとい水無月悠の担当になってからというものの、とても高校生作家とは思えないようなオーラに末だ馴染めずにいた。
編集部内で一番若く、歳が近いことから頼まれたのだが会話だけでは普通の大人としているようにしか感じられない。
そのせいか不満や愚痴はなくとも、多少の心配はある。
「……ちゃんと友達いるのかなー」
まるで親馬鹿のような言葉に自ら、笑いが込み上げてくるが、あの性格や口調から察するにあまり期待は出来ない。
編集部にいる人間も大人ばかりだ。高校生作家なんて、珍しすぎるケースである。
この仕事場にも不備があることを改めて思い知り、眉尻を下げた。
「もっと子供らしくやらせてあげたいな……」
苦笑混じりの一人言が宙に浮かぶ。
「同じ歳のライバルとかいたら、いい薬になると思うんだけどな」