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拝啓、未来より  作者: 真野/休止中
番外編
67/68

小話 そうして、春はやってくる

 暗闇の中、意識が覚醒する。思い瞼を開けて、俯いていた顔を上げる。大きな欠伸の後、目の前の幼馴染みに声をかけようとしたが、手の平を向けられた。指の隙間から見える、その大きな二つの瞳でさえもが、青年ーー中里彰に制止を訴えていた。訳も分からぬままに彰は黙った。それを見届けると、彼ーー要千紘は自分の端末を操る。程なくして、彰の端末にメッセージが届く。


【隣に悠介いる】

【しかも女の子と】


 思わず勢いよく左を向いてしまう。そこには少しばかり高い木製の仕切りがあるだけだ。しかし、確かに耳を澄ませるとくだんの人物の声がする。加えて、女性のものも。

 昼時のピークを過ぎて、ガランとしたファミレスであるせいか、僅かに聞こえる隣の席の会話。

 驚愕に目を見開く彰へ、神妙な顔つきの千紘が頷いてみせる。


【ツンデレ王国の貴公子にも、ついに春が来た】


 再び送られてきたメッセージに対して、何やら溜め息のようなものがこぼれる。両手で顔を覆い隠しながら「マジかよ」と、彰は心中で呟いた。悠介にだけは先を越されないって、思っていた俺がバカだった。

 そもそものきっかけは、そんな友人からの「久しぶりに飯でも食おう」という、至ってシンプルな誘いの連絡だった。お互いに新しい生活が始まり、ようやっと慣れた気がする冬始めであった。日程を合わせて、時間を決めて、滞りなく準備を終えたものの、当日、彰と千紘は待ち合わせ時間よりも大幅に早く到着していた。通っている大学こそ違うが、テスト勉強でもしようという話になっており、夕方こちらへやって来るであろう悠介を待っていたのである。

 彰のそばに置かれた、付箋まみれの教科書やらノートを見て、千紘は声のトーンを下げた。


「あーちゃん……保育科って大変だね」

「まぁ、短大だから余計に忙しいってのもある。つーか、人のこと憐れんでねえで、自分のことやれよ」

「だってドイツ語分かんない!」

「英文科だろ。根性見せろ」

「そうやって海外の言語全部一括りしてー」


 雑談をしたり、たまにペンを握っては、また雑談ーーなどというサイクルを繰り返していたおかげか、案の定テスト勉強にはすぐに飽きてしまう。店内の暖房に包まれるように、いつの間にか眠りについていた彰が目を覚ましたのが、つい数分前の出来事であった。

 二人は姿勢を低くして、広げた教科書をヘルメットのごとく被った。万が一、何かがあっても向こうからは極力見られないようにするためである。立ち上がって、覗き込もうとしない限り、互いに見えないようにはなっているが、念には念を入れる。ウエイトレスからの冷たい視線にも気づかないほどの集中力で、耳をそばだてつつ、メッセージのやり取りをする。小声でも言葉を発した途端にバレる気がしていた。


【悠介って今、授業じゃないの?】

【もう終わったんだろ】

【それで、今日の約束まで彼女とデート?】


 時刻は三時を回っていた。待ち合わせの夕方まで、まだ結構な時間を要する。彼女って決まったわけじゃないだろーーそう彰が思ったとき、隣から「今日はお疲れ様」という女の声がした。


「松野くんとペアで良かった。一年生にしてはレベルが高いって先生もすごく褒めてくれたし」

「いや、そんな……こちらこそありがとう」


 悠介の若干ぎこちない口調に、女はクスクス笑い「何はともあれ、無事に発表が終わって良かったね」と言った。

 ーーん? 発表?

 二人が互いに目を合わせ、ハテナマークを頭上に浮かべる。聞けば、出された課題について二人一組で調査をし、発表をするといった形式の授業があるらしく、悠介たちはまさに今日それを終えたようだった。

 なんだ、彼女じゃなくてクラスメイトか。さっきまでの敗北感が一気に安心へと変わり、彰は勝ち誇った笑みを浮かべる。そんな彼を、やれやれとでも言いたげな目で千紘は見つめるのだった。


「ここ私のバイト先なの。割引き効くから、好きなもの頼んで。パーっと打ち上げでもしようよ」

「あ……えっと、じゃあホットコーヒー」

「もう、遠慮しなくていいのに」

「これから友達と約束があるんだ。だから平気」

「そうなの? ごめんね、忙しいときに」


 今にも泣き出しそうな声色に、悠介が慌てて被せるーーが。


「あぁいや、違くて……悪い、そんなつもりで言ったわけじゃ」

「なーんちゃって」


 少しの間の後、溜め息が聞こえる。


「……脅かすなよ」

「松野くんいッつも引っかかるー。真面目過ぎ。良いところだけど」


 コロコロと笑う彼女につられてか、悠介も笑みをこぼしたようだった。「コーヒー貰ってくるね」と彼女が席を立ち、しばらく静かになる。

 そんな会話を耳に、千紘はニマニマとした表情で端末の文字盤をタップする。


【良い雰囲気だね! 楽しそう! これはひょっとして……!?】


 対して、怒った顔でパンチを繰り出す猫のスタンプを送りつけた彰はムスッとしている。


【拗ねないでよ】


 千紘からの文面を見るや否や、端末をテーブルに伏せてしまう。バツが悪くなると押し黙るのは、彰の昔からの癖だった。

 やがて彼女が戻ってくる。すると「本当に、ペアになれてラッキーだなぁ」と呟き、さらに、


「実は私、入学したときから、松野くんのこと……気になってたんだ」


 なんて言うものだから、二人の間を電撃が走った。

 来たよ! ほらやっぱり! と千紘は目を輝かせることで語る。彰の背筋を冷たい汗が流れたのと同時に、悠介の「俺がどうかしたのか?」という呆けた声がする。他人のことにはやたらと察しが良いのに、自分のことになるとてんでダメになるのが松野悠介という男である。

 彼女は何やら口ごもり、しばらく沈黙だけが二つのテーブル周辺を支配していた。

 しかし、ついに意を決した口調で、


「……いきなりこんなこと言われたら、引いちゃうかもしれないんだけど」


 凛とした声に、悠介と、仕切りを挟んだ二人の意識が集中する。心臓の鼓動がいつもより大きく、ゆっくりと聞こえた。

 とてつもないほど長く感じられた数秒の後、彼女は真剣に言った。


「松野くん……コスプレに興味ない?」

「ーーは?」


 まさに、二人の心の声を悠介が代弁してくれたも同然だった。今なんつッた? と彰は千紘を見るが、首を傾げられるばかりだ。けれども、ただ一つだけ分かるのは、これが甘い告白でも何でもなく、悲しい現実であるということだ。

 今の悠介の心情を想像すると、憐れであるようなおかしいような複雑な二人は、静かに肩を震わせる。案の定というべきか「こす、ぷれ……?」と困惑しきった声が微かに聞こえる。


「そう! 興味ある?」

「え、ぜ、全然……よく知らな」

「そもそもなぜ私が松野くんをスカウトしているのかというとですね!」


 悠介の言葉を食い気味に語り始める彼女。そのあまりの昂りに自分でも制御が効かないのか、口調に熱が込もっていく。


「私が好きなジャンルで『職人しょくにん気質かたぎ!』略して『ショクカタ』っていうアプリゲームがあって、あ、これはね、うら若き男たちが一流の職人になるため奮闘する姿を描いていて、カードイラストはもちろんストーリーも重厚で読み応えがあって、ぜひプレイしてほしいんだけど、で、それに登場してて私の推しキャラでもある漆職人を目指す『倉坂くらさか美津みつ』に松野くんがそっくりなの!」

「は、はぁ」

「倉坂美津は、口数も少なくてミステリアスさが売りの性格なんだけど、仲間を気遣える優しさも携えたそれはもうどストライクな私の推しで! 松野くんのそのシャープな顔の輪郭に、切れ長気味の目と伏せたときのまつ毛の美しさ、艶やかな黒髪、漂う和のオーラは、まさに倉坂美津の生き写し! ぜひコスプレして私と一緒に冬コミへ!」


 瞬間、仕切りに何かが激しくぶつかる音がする。続いて「すみません! ちょっとぶつかっちゃって」と女性がこちらに顔を出す。セミロングの黒髪を内側へ巻き、紫の石がついたピアスをしていた。眉を下げて、焦った表情をしているものだから、つい千紘は「全然大丈夫ですよー」といつもの調子で答えてしまいーーしまった、と我に返る。向かいで彰が「おい声ッ……!」そう言ったが遅かった。

 不思議そうにする彼女の横から、ヒョコッと見知った顔が現れる。彼は今、目の前で固まっているのが友人であるのに気づくと「……二人揃って、何してんだ」氷のごとく冷たい声で問いかけた。その低さに一瞬怯えたものの、千紘はドイツ語の教科書を手に取り、悠介に見せる。


「テ、テスト勉強してたのー。どうだー、偉いだろー……」


 引きつった笑顔と尻すぼみな声に倣って、彰も恐る恐る『こどもの心理学』と書かれた本を掲げる。その二冊を交互に眺めた後、悠介は口元に微笑みをたたえると、あくまで優しい口調で言った。


「なに盗み聞きしてんだ?」

「きッ、聞こえるもんはしょうがねえだろ! 大体先にいたのこっちだぞ!」

「いたならいたで声かけろよ! 何で黙って聞いてんだ! やっぱり盗み聞きじゃねぇか!」

「だからちげえッつーの! 俺たちはお前が……!」


 そこまで言うと、彰と千紘は急に表情を暗くし、やがて切なげな温かい視線を悠介へ向ける。


「まあ、その……なんだ。今回は残念だったな」

「は? 何が」

「大丈夫。人生まだ六十年はあるよ」

「だから何が」

「おいおい千紘、そうやって油断してると、こいつ爺さんになっちまうだろ。ははは!」

「それもそうだね! あはは!」

「だから何がだよ! つーか笑ってんじゃねぇ! おいお前ら話を聞け!」


 勝手に同情されているとも知らず、弁解を求める悠介の言葉は二人には届かない。そんな彼の隣で、微笑みを浮かべながらも首を傾げる女性に「ねぇねぇ、さっき言ってたキャラってどんな感じなの?」と訊ねたのは千紘だった。


「あ、おい千紘。ごめん、穂積ほづみさん……こいつら俺の友達なんだ」

「賑やかだなぁ! 私は構わないから大丈夫だよ。えっと、倉坂美津が見たいんだよね? ちょーっと待っててー……」


 穂積さん、と呼ばれた彼女は自分の端末を操り、すぐに画面を全員が見える位置へ持ってきた。そこには、紺色の着流しに身を包み、昼間の縁側に座る男性キャラがいた。どことなく憂いを帯びた表情と、流し目が色っぽさを演出している。


「夏のイベントで手に入れたカードです。見てくださいこの顔……! 露わになった首筋、細くも確かな存在感がある体つき、チラリとのぞく足首! すべてが完璧!」

「おぉ、確かに悠介に似てるかも」

「自分じゃ分からないのが正直なところだ」

「減るもんじゃねえし、一回やってみたらどうだ。コスプレ」

「減るだろ、確実に何かが。彰お前、他人事だからって適当なこと言うなよ」


 だって他人事だし、と屁理屈をこねようとして、ふと穂積の目が自分を捉えて離さないのに気づく。な、何だこの女……。思わず後退りしかけた瞬間「あなた、素質ありそう」とおもむろに呟かれ、腕を掴まれる。とても女性とは思えない握力とギラギラ輝く二つの瞳は、肉食獣も裸足で逃げ出しそうである。現に、彰は今とても逃げたかった。


「あーちゃんがロックオンされた」

「変な言い方すんなッ! つーか、アンタ力強すぎだろ!? 一体何なんだよ!」

「ガッシリとした体格、程よい筋肉、そしてこの強面……間違いない。あなたは『ゲットボール』の『羽丸はねまる義辰よしたつ』ね!」

「誰!?」

「週刊少年漫画雑誌『ホップステップ』で大好評連載中の男子ゲートボールがテーマの漫画よ! 羽丸先輩は主人公が所属するゲートボール部のキャプテンを務めているの」

「どんな少年漫画なんだそれ!? 知らねえよそんなマイナーな雑誌!」

「失礼ね。『ホップステップ』は長い歴史を誇る、由緒正しき少年漫画雑誌よ。一番の古株なんだから! 羽丸先輩はね、その名の通りまるでボールを羽のように操る、かつてゲートボールの神童とまで言われた男なの。冷静なキャプテンで、強面で厳しい一面もあるのだけれど、その内には烈火のごとく燃える心を持ち、本当は犬や猫のような可愛い動物には目がないという愛らしいギャップも備える最強の私の推しよ!!」

「わあ、穂積さんって推しがいっぱいいるんだね」

「いればいるほど、人生はより色鮮やかに見えるもの……あら、あなたも素質がありそう。そうね、あなたはーー」

「まずい千紘ー! 早く逃げろ!」


 次々と狙いを定めては吟味する穂積と、その格好の餌食になっていく男たち。異様な状況を眺めながら、悠介は「嫌だと言っても着させられるのでは」と一抹の不安を抱く。どうか気のせいであってほしいと、無理やりホットコーヒーを喉に流し込んだ。



 ◇◆◇



 制服を脱ぎ捨てただけで、目の前にいる先輩は随分と大人っぽく見えた。でも、本当はそれだけじゃないのかもしれない。


「冬休み前の全校集会はどうでしたか」

「べつに、特には。いつも通りですよ」


 そっかあー、と隣を歩く理久が気持ち良さそうに伸びをする。変わらないように見えて、けれど凪沙には彼女がすっかり変わってしまったような気がしていた。

 あの人がいなくなった日から、ずっと、そんな心持ちでいた。

 到着した先は近所にある大型ショッピング施設だ。迷うことなく、エスカレーターを上る先輩の後ろを黙って着いていく。最終的に入店した場所は、ゲームセンターだった。理久たちがまだ学校にいた頃、たまに来ては楽しく時間を潰していた場所でもあった。

 そして、ゲームが得意な彼女とは対照的に、あの人は下手中の下手だった。


「珍しいね、凪沙から誘ってくれるの。むしろ初めてじゃない?」

「……まあ、気が向いたので」


 店内は暖房が効いているから、マフラーを外して、学校指定のコートの前を開けた。理久は真っ直ぐに、一番好きだと言っているシューティングゲームへと近づく。凪沙もその隣に立って、おもちゃの銃を手に取る。

 やっぱり違うな、と思った。


「勝ったら飲み物、奢ってあげる」


 ほら。全然違う。前はもっと、挑発的な口調だった。

 凪沙は「そうですか」と適当な相槌を打ってから、眼前の画面を睨みつける。理久も何かしら感じ取ったのか、それきり黙ってしまう。先輩を困らせるのは今に始まったことじゃない。でもきっと、いつもの自分ならもっとうまくやるんだろう。戯れているような、そういう愛情に似たものを、少しでも伝えられるようにするのだろう。けれど、どうにも今は出来そうになかった。

 他人の感情に足を掴まれそうになる自分を鼓舞するつもりで、凪沙は引き金を引いた。

 画面に現れるゾンビを撃退する度、ポイント数が溜まっていく。ゴールまで残り半分になった頃、ふいに左隣から「そういえば、真城から聞いたんだけど」と投げかけられた。


「誕生日にデカイぬいぐるみをプレゼントしたらしいね。すごい喜んでたよ、真城」

「あぁ、あれか……」


 物陰から現れたゾンビも冷静に倒す。一息ついてから、凪沙が問いかける。


「もしかして、俺が照れそうな話をすることで妨害してます?」

「怖ッ! しないよそんなこと! ただの世間話なのに、何さその言い方……機嫌悪いの?」


 質問に、あえてだんまりを決め込む。不服そうな顔をしているであろう理久に、少しの間の後「そうですね、不機嫌です」と告げる。案の定、先輩の口からは驚きの声が上がった。


「な、なんで……? 私のこと呼んだの凪沙だよね……?」

「だって、今の琴平先輩と対戦しても面白くないから」

「ーーえ、それってどういう」


 理久の言葉も虚しく、ゲームが終わりを迎える。リザルト画面が表示される。圧倒的にポイントが高かったのは凪沙の方だった。こんなに差をつけられて負けたのが初めてで、唖然とする先輩を横目に、足元のカバンを持った。

 そのまま出て行こうとすれば「ちょ、どこ行くの!」と引き止められるので、凪沙は「いいから来てください」と半ば無理やり連れ出す。店の外に設置されたベンチに荷物を置き、自動販売機でココアを買う。


「勝ったから奢るよ」

「辛気臭い顔してる人から、お金を搾取する趣味はありません」


 ズバッという効果音が聞こえそうなほどの勢いで言い切れば、理久はたじろぐ。何やら言いたげにしたが、結局何も出てこなかったのか、おとなしく自分のオレンジジュースを買った。

 並んでベンチに座り、缶の熱で暖をとっていたら、ふいに「……そんなに暗い顔してるの、私」と訊ねられたので正直に答える。


「してますよ。ゲームなら気晴らしになるかと思って誘ったのに、おかげで俺まで引きずられて、ちょっとイライラしちゃいました」

「そういうことか。ごめんね。気遣わせて」

「今回は特別に許しますけど、次はありませんから」

「あはは……うーん、困ったなぁ」


 握った紙パックを見つめていながら、しかし理久はずっと遠くの別の何かを見ているようだった。


「なるべく、表に出してないつもりだったんだけどね」

「どうしてそんなこと」

「……だって辛いんだ。それに不安で、すごく怖い」


 情けないな、と眉を下げて微笑んだ彼女の瞳は澄んでいて、同時にぐるぐるといろいろなものが渦巻いていた。きっと、そこをキラリと横切る、茜色の光を待っているのだ。怖い怖いと泣きながら、それでも待っているのだ。

 押し潰されそうな心を守るために、必要なものは何だろうと凪沙は考える。そうすると、自然に浮かんでくるのは見慣れた顔ぶりばかりで、無意識のうちに笑みがこぼれた。


「辛いのも、不安なのも、怖いのも、全部先輩だけじゃないですよ」


 激しい波を少しずつ凪いでいくように、心の海へ言葉を投げかけていく。


「だから、ちゃんと隠さないで言ってください。そうしたら俺たちが先輩の手、引っ張ってあげます。それで先輩も、誰かが辛くなったら引っ張ってください。ーーこっちだって一緒に待ってるの忘れんな、です」


 制服を脱ぎ捨てただけで、目の前にいる先輩は随分と大人っぽく見えた。でも、本当はそれだけじゃないのかもしれない。

 きっとたくさんの出来事が、出会いが、別れが、彼女や自分を大人にしていくのだ。けれど、その根っこには変わらない何かがあるはずだ。

 忘れることのない大切なものが、山ほどあるはずだ。

 隣で俯いた彼女が「凪沙、大きくなったなぁ」と僅かに涙混じりの声でぼやく。昔は並ぶと理久よりも低かったのに、今では少しばかりこちらの方が高い。小さく笑いながら、プルタブに手をかける。


「それは多分、先輩が俺を大きくしてくれたからですよ」


 カシュッという音の後、感慨深いもののように「そういえば、育てた覚えがありました」と言われる。そうでしょう。


「ありがとう、凪沙」

「いーえ。……早く、会いたいですね」

「そうだなぁ」

「やっぱり暖かくならないとダメですかね」

「いや、熊じゃないんだから」


 だって、あんなに幸せだったんです。あの人もそれが恋しくなって、すぐに帰ってきますよ。

 いつもの笑顔で、のんきに「ただいま」なんて言いながら。



 ◇◆◇



 麗らかな陽気に町が満たされる、三月の休日。店の前の掃除を終えた紗也は、道具を仕舞うと、自動ドアの中へ戻った。

 クリーム色を基調にした内装が、柔らかく迎え入れてくれる。ピカピカのショーケース越しには、きちんと並べられたスイーツが多くあり、彩りを放っていた。入口の右側にあるイートイン席に誰もいないことを確認した後、ケースの裏に回る。


「暇っすねー」


 背後からの寝惚けたような声に振り向く。ちょうど慎吾がチーズケーキをいくつか持って、厨房から現れたところだった。彼がスポーツマンらしく、その黒髪を短く切り揃えた姿にももう慣れた。


「みんなまだ寝てんのかね。もう十一時だけど」

「この方が楽でいい」

「まあ確かに」


 うまくケーキを並べてから、慎吾はガラスの引き戸を閉める。すると、ショーケースに頬杖をついて、ぼんやりしている紗也の隣で唐突に「しりとりしようよ」と言った。


「えー……面倒。それより、二階行って寝てきてもいいか」

「かー、亀」

「おい、勝手に始めんなよ」

「メンチカツ」

「無視すんな」

「釣り」

「……」

「り、理科」

「……貝」

「いー」


 放っておくと、一人でいつまでも続けていそうだった。それはさすがに可哀想で、仕方なく参加すれば、語尾を伸ばしながら考え始める。紗也は背後の机に置かれたチラシや、メモを確認しながら慎吾の返しがくるのを待った。つーか、『い』なんてそこらじゅうにあんだろ。何をそんなに悩む必要があるのか。おかしな幼馴染みである。


「いー……あ」

「早くしろ」

「出雲茜」

「人名は無し」


 そう言い切った刹那、来店を知らせるベルが鳴った。振り返れば、透明の自動ドアを通って、こちらへ歩いてくる人物と紗也の視線が絡み合う。青年、茜は立ち止まって目を白黒させてから、若干ぎこちなく笑った。


「あれ、こんにちは。久しぶりだね」

「ーーッ!?」


 驚きやら何やらで声も引っ込み、口の開閉しか出来なくなってしまった紗也に代わり、慎吾が明るく出迎えてくれる。


「出雲久しぶりー。元気してた?」

「うん、元気だよ。二人はバイト?」

「まあ、バイトなんだけどそうじゃないっていうか」


 不思議そうな顔の茜の前で、慎吾が隣の男を指さす。


「ここ、紗也の家なんだ。『パティスリー モトキ』って看板見なかったん?」

「え。そうだったんだ……ちゃんと見てなかったや。素敵なお店だなぁって思って入ったから」

「聞いたか紗也。褒められてんぞ!」

「ーーッは!」


 肘で突かれた衝撃により、はっきりと意識が戻ったので、改めて茜を見る。最後に会ったのは随分前だった。その時よりもスラリと伸びたであろう体格に、まずイラっとする。スキニータイプのパンツと、藍色のニットから覗く白いシャツの襟。薄いベージュのコートのポケットに手を突っ込みながら、困ったように微笑んでいる。


「えっと……俺、何か変かな?」


 全体的に雰囲気も大人びたように思えた。前はもっと子どもっぽくて、元気が取り柄といったものだったはずだ。ところが今はどうだ。スマートな男のオーラを何の違和感もなく身に纏っている。

 そんなこいつが、今、あの子の隣でーー。


「見過ぎ」


 慎吾の言葉とともに、後頭部に軽い拳骨を喰らう。思わず睨みつければ「かっこ悪」と鼻で笑われた。うっせー。

 分かってはいるのだ。多分、気まずいのは自分だけじゃない。茜もきっとそうだ。現に、目が合った瞬間からどことなく居心地が良くなさそうである。お互い様なんだから、という慎吾の声がしたように感じた。


「ごめんねー。気にしなくていいから。今日は何買いに来たの?」


 質問しながら慎吾はふと、違和感を覚える。


「てか、あれ? 出雲ってこの辺に住んでないよね。会ったことないんだけど」


 そういえばそうだ。紗也も一緒に彼を見ると、僅かにギクリとしたようだった。


「あー、うん。もっと遠いところにいる」

「じゃあ何でまた」

「今から、理久の家に行くんだ。だからケーキ買っていこうと思って」


 それでも平静を保つ茜に、紗也は再びイラついた。彼と理久がめでたく恋人同士になったのは、紗也も慎吾も知っている。お互いにまだ実家暮らしで近所にいる上、連絡も頻繁に取っているから、当然情報は流れてくる。

 だから堂々としてりゃいいのに、と思ってから、はたと気づく。あ、俺が怖いからか。そうして、今度は心の狭い自分に腹を立てる。


「へえー、良いね! お家デートだ」

「違うよ。高校のときのメンバーみんなで集まるから」

「そうなん? でも良いなぁ、パーティ。俺も行きたーい」


 そこで慎吾はチラリと紗也を見た後、名案とばかりに手を打った。


「あ、そっか、仕事を全部紗也に押し付ければいいのか」

「聞こえてんぞおいコラ」

「ジョークだよ。まったく冗談も通じないのかね、元木くんは」

「変な喋り方……」

「うちの教授の真似」


 ケタケタ笑う慎吾に「慎吾くんも大学行ってるんだ」と言ったのは茜だった。


「そう。りっちゃんとは違うけど、体育の先生になりたいから、スポーツ系の大学にね。だから思い切って髪も切ったんだー! カッコいいだろ! 出雲は学校行ってんの?」

「来月からね。就職向けの専門学校」

「そうか、お互い頑張ろうな! あぁ、ちなみに紗也も四月からパティシエの専門学校に行くんだ。ブランクあって、それでも無事に高校卒業できただけですごいのに、この家継ぎたいんだってさー。立派な一人息子だよねぇホント。中身はともかく顔だけならまずまずだし、あとはその態度と口の悪さをどうにかすれば」

「人の個人情報ベラベラ喋んな! もう黙ってろ!」


 恥ずかしさのあまり、若干顔を赤くなった紗也が叫んだ直後、慎吾は口元でチャックを閉める仕草をする。言ったら言ったで、今度はとことん喋らないつもりらしい。いつもよりボケが多すぎる、と半ば呆れる。そこでふと、場を和ませてくれようとしているかもしれないと思い当たる。気まずい自分と茜の間に入ってくれているのだろうか。

 無表情の慎吾からは何も読み取れない。しかし、何となくバツが悪くなる。誤魔化すように首に手を当ててから、紗也は茜に向き直った。


「……注文は」


 急に問いかけられて、茜も驚いたようだったが、慌てて口を開く。


「あ、えっとーーおまかせしてもいい?」

「いくつ」

「七個」


 ショーケースを開けて、品定めをする。人気あるやつ、適当に入れておくか。銀色に輝くトングでケーキを丁寧に掴んで、そっと箱に入れる。

 無言で作業する紗也の様子を、茜がジッと見つめる。しばらくの間、ゆったりと漂う沈黙を破ったのは、我慢が効かなくなった慎吾だ。


「ところで何のパーティなの? 同窓会的な?」

「んー、理久曰く、俺が主役らしい」

「え! 主役がケーキ買いに来ていいの!?」


 当然のように目を丸くされ、茜は苦笑する。


「分かんない。でも、べつに誕生日じゃないし、いいんじゃないかな」

「一体、どういう会なんだ……」

「俺、しばらく遠いところにいて、去年の春に帰ってきたんだ。だから、それの一年記念を少し早めにやろうって、理久が言ってくれて」


 紗也も手を止めて、耳を傾ける。思い返してみれば、以前に理久もそんなことを言っていた。今は会えないけどいつかきっと会えるから、と。気丈に振る舞っていたようで、本当は一番辛かったはずだ。赤く染まっていく夕焼け空を見上げる彼女を、目にしたことがある。どこか遠くに想いを馳せている背中は強くもあり、儚げにも思えた。

 雑談を続ける二人の間に、ゆらりと紗也は入り込む。茜に対して「おい」とぶっきらぼうに声をかけた。


「理久の好きなケーキ、どれだと思う」


 唐突な質問に、茜は豆鉄砲を食らったような顔をする。慎吾も似たようなもので、ただ黙って幼馴染みを見つめていた。誕生日も、他の祝い事でも、小さい頃から自分たち三人は、この店のケーキを食べてきた。美味しそうに頬張って、笑顔を見せた理久が思い出される。

 店内に静寂が訪れる。やがて紗也からショーケースへ移動した茜の視線は、ガラスの中央のあたりで止まる。彼が指をさしたのは、オレンジピールの入ったチョコレートケーキ。


「はずれ」


 正解はこっち、と紗也が掴んだのは、フルーツがたっぷりのせてあるタルトだった。いちごとバナナ、キウイに桃、そしてオレンジが宝石のように光り輝いている。最後にそれを詰めて、箱を閉じる。

 レジに置いて顔を上げれば、見るからに茜はシュンとしていた。よほど不正解が悲しいのか。もしも耳と尻尾があったら、垂れ下がっているに違いない。あまりに素直なそれに、あの子はこういうところを好きになったのかもしれない、と思い、ほんの少し面白く感じた。


「チョコのケーキは、理久が二番目に好きなやつ」


 会計をしながら、紗也はそう言って茜に僅かだが笑ってみせる。眉を下げていた彼も、やがて微笑みを浮かべる。


「もう二度と間違えんなよ」


 ケーキも、理久を幸せにするための選択も。

 おつりを受け取った茜が力強く頷く。しかし、なかなかケーキを持とうとしないので、不思議に思っているとふいに、目の前の体が近づいてきて、抱きしめられた。

 ーーは?

 体だけでなく脳も石化した紗也は、ただただ固まることしかできない。隣で慎吾が吹き出していたが、それ以上に「ありがとう、紗也くん」と呟かれた言葉の方に気を取られていた。けれどそれすらも一瞬で、茜はすぐに離れると「ケーキありがとう! じゃあまた!」笑顔でそう言い終え、袋を片手に店を出て行った。

 呆然と立ち尽くす紗也の肩に慎吾は手を乗せる。


「良かったね。嬉しそうで。頑張った頑張った。しかし、出雲はスキンシップが海外流だな。やっぱ彼女いる男は違うね」


 ひとりでしきりに頷くのを横目に、紗也は恥ずかしさやら怒り、呆れが次々に湧き上がってくるのを感じたけれどーー溜め息をつくことで諦めた。もう、いい。こんな陽気の日にイライラする必要なんて、きっとない。

 外は快晴で、時間の流れは穏やかだった。ドアが開いた拍子に入り込んだ暖かい風に混じった、甘い香りは花だろうか。

 一足早くやってきた春一番だと思えばいい、そう自分に言い聞かせれば、幾分か気分も和らぎ、小さな笑みがこぼれるのだった。


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