小話 やっぱりあなたには、敵いません
窓の外では蝉の大合唱が響いている。重なるのは、運動部の掛け声だろう。
それらを聞きながら、冷房の効いた教室で、しかし居心地の悪そうな顔をする二人がいた。
「……分からん」
机の上のプリントを見下ろしつつ、そう呟いた理久の隣で、哲郎も静かに頷く。
夏休みが始まったばかりだというのに、彼らは普段と変わりなく教室にいた。周りには他の生徒もチラホラといる。真面目に鉛筆を動かす者もいれば、プリントなどそっちのけでお喋りに興じる者もいる。二人はその中間あたりに位置していた。つまり、一刻も早く提出したい気持ちはあるのだが、いかんせんどうすればいいのか分からないのだ。
理久は、今日何度目か分からない溜め息をついた。
「こんなことならテスト、ちゃんとやっておくんだった……」
二人がいる教室の名前は『夏期講習』という。
もはや、テストで悲惨な点数を受け取ってしまうのはいつものことなのだが、貴重な夏休みを削られる体験は初めてだった。講習という名の通り、きちんと教師が教えてくれるのだが、今は緊急の職員会議で席を外していた。これ幸いとばかりに騒いでいる生徒もいるが、理久はむしろこの時間でプリントの問題をすべて解いてしまいたかった。なぜなら、今日は部活をする予定だからだ。
「みんな待っててくれてるし、早く終わらせないと」
学校のどこかで時間を潰しているであろう部員を思い、気持ちを奮い立たせる。けれど、気合いだけで頭が良くなったら誰も苦労はしない。一問目でつまずく理久の隣で、哲郎がボソッと言う。
「悠介か神楽、呼ぶか」
「あー、あの二人ね」
文芸部の頭脳である名前が挙がるけれど、俯きがちに理久は答えた。「ちょっと無理かも」
「悠介はパソコン室で原稿書くって言ってたし、神楽も合唱コンのピアノの練習させてもらうらしいから……」
言いながら、朝に見かけた悠介の顔を思い出す。めちゃくちゃ機嫌悪そうだったな……。どうやら原稿が上手く進んでいないようだ。
頷きながら「それは邪魔しちゃ悪い」と哲郎。まったくの同意見であるがゆえに、この状況は余計に厳しい。誰か、誰か助けてくれまいかーー数々の友人の顔が浮かんでは消える中、唯一消えなかった人物がいた。「あ」と口を開ける。
「いるじゃん、隣に」
哲郎は理久の目を真っ直ぐに見た。しばらくそうした後、黙って己の隣を振り返る。
「誰もいないが」
「いや、そうじゃなくて」
席を立ち、理久は「隣の教室ってこと」と言いながら口角を上げた。そうして、なんの躊躇いもなく自分たちの教室を出る。どうせ先生はまだ帰ってこないんだし、と開き直る理久に、哲郎もついて歩く。
隣を覗けば、そこもさっきいた場所とほとんど変わらない様子であった。先生がおらず、浮き足立つ教室の後方にある扉をソッと開ける。目的の人物は案の定、目立たない後ろの席に座っていた。
「凪沙」
小声で呼ばれたにも関わらず、彼は一度でこちらを向いた。少しびっくりした表情の後、しかしすぐに呆れた顔をする。
それでも席から離れて、やって来てくれるあたりが優しい後輩であることを物語っていた。
「どうしたんですか二人して……教室間違えてますよ。ここは一年の夏期講習です」
「間違えてないぞ、俺たち」
「そうだそうだ。わざと来たんだ、わざと」
「はあ……」
まるで今にも「何言ってんだこの人たち」とでも言い出しそうな雰囲気である。
凪沙は、文芸部における頭脳ナンバースリーの実力を持つ。そして運良く今朝、この教室に入っていく姿を理久は目撃していたのだ。しかし、それを頼りに来たはいいが、今更ながらに「なぜ頭脳明晰な彼が夏期講習にいるのだろう」という疑問が湧いてくる。訊ねてみると、
「休んだ分のプリントを貰いに来ただけです」
何とも簡潔な答えが返ってきた。なるほど、納得した。補習などとは無縁で、眉をひそめる後輩に、理久は持ってきたプリントを見せた。
「あのさ、この問題が分からないんだけど」
「はあ?」
今度こそ凪沙は「何言ってるんですか」と返してくる。当たり前である。なぜならば、
「だってこれ、二年生のプリントでしょう。俺は一年ですよ」
そういう凪沙の言い分は最もである。だからこそ、理久も予想済みだった。「ふッふッふッ……」と不敵に笑いながら、後輩に向き直る。
「心配はないよ凪沙くん。これは君ならば必ず解けるトリックさ。哲郎!」
呼ばれたもう一人の先輩は、静かに前へ出てくるとプリントの一番上を指差した。そして、ただ一言きっぱりと告げる。
「凪沙、これは『夏期講習プリント二年生・数学(中学復習編)』だ」
教室の入口と廊下に立つ面々の間を、夏の爽やかな風が吹き抜けていく。それを受けながら、後輩は今が夏であることをも忘れさせるような冷たい眼差しで、先輩二人を見つめた。
「……言いながら悲しくならないんですか、それ」
「これしきで悲しくなるような軟弱な心はとうに捨てた!」
「人は忘れることで、新たな知識を得る」
「和多先輩は、ちょっとカッコいい言いかたするのやめてください」
「とにかくそういうわけだから、教えてほしいんだけど」
お願い! と目の前で手を合わせる理久。その隣で同じ動作をする哲郎。情けないような頼もしいような、でもやっぱり情けない先輩たちを前に、凪沙は一息ついてから「まぁいいですけど」と答えた。
二人の胸に希望が宿る。しかし目を開けた先に飛び込んできたのは、至って真面目な顔をしながら「で、報酬は?」と訊ねてくる後輩の姿だった。
「……え?」
「それなりのお礼はあって然るべきでしょう」
「ちょっと問題教えてもらうだけで!?」
「この世に無料で貰えるものはありませんよ。仮にあったとしても、それも提供する代わりに何かしらの見返りを要求しているに違いありませんから」
後輩からシビアな現実を諭され、言葉に詰まる。やがて理久は項垂れてから「分かった……あとでアイス買ってやる」と白旗を掲げた。凪沙は笑顔で礼を述べ、続いてその隣の先輩に向き合った。
「で、和多先輩はどうします?」
「え」
「ちょ、ちょっと待って!」
慌てて理久が間に入る。
「私と哲郎の二人で、アイスじゃなくて!? 一人ずつ要求してくるわけ!?」
「当たり前じゃないですか。俺は個人を尊重する主義なんです」
「初めて聞いたよそんなこと!」
輝かんばかりの笑顔でそう言う凪沙に、理久も頭が痛くなりそうになる。そんな気も知らず、哲郎は神妙な顔つきで呟く。
「確かに、教えてもらうことには、それなりの対価が必要だな」
「あー、哲郎? あんまり考え過ぎないでね。凪沙は私たちで遊んでるだけだよ、多分」
「先輩たちといると飽きないです」
「ほら! こういうことを平気で笑って言う! まんまと弄ばれた!」
やっぱり悠介か神楽に聞くんだった! と後悔するが時すでに遅し。分かってはいても、今にもハンカチを噛みそうな勢いの理久を横目に、凪沙は哲郎を促す。
「どうします? 和多先輩」
哲郎はしばらく考え込んでいた。そうして悩んだ末に、彼の頭上で豆電球が光った様を、理久は見たような気がした。
「ん、決めた」
「何ですか?」
ワクワクした表情の凪沙に、哲郎は手招きをする。今すぐにでもくれるのか、と不思議に感じながら近づいていったーー次の瞬間。視界が白っぽいもので埋め尽くされた。鼻先に当たるワイシャツのような感触に、背中を優しく叩く大きな手のひら。
呆気に取られたのは、ほんの数秒にも満たない時間だ。しかしそれは恐らく、凪沙の人生で最も油断した数秒だった。
なぜ自分が哲郎に抱きしめてもらったのか、離れた後もまったく理解が追いつかなかった。思考が止まった凪沙の代わりに、理久が口を開く。
「……今のがお礼?」
「そう」
「どうしてハグ……?」
「凪沙は俺たちとの繋がりを尊重して、頼みを引き受けてくれたから、同じ『人との繋がり』を感じられるお礼が一番良いと思った」
答えを聞きながら理久は黙っていたが、そのうちポンと手を打って「なるほど、確かに一理ある」と感心しきってしまう。
すぐさま「どこがですか!」そう抗議したのは、意識を取り戻した凪沙である。
「なんですか今の! よく男の俺にできますね!? 入部したときから思ってましたけど、この部活スキンシップ過多っていうレベルを超えてることに誰も気づいてないんですか!!」
「おぉ……凪沙が熱くなっている。珍しいな」
「ならない方がおかしいです……!」
とっくに赤くなっているであろう頰を無理やり隠すつもりなのか、彼は必死にまくし立てる。
「大体! そういう理論で礼をするなら、別にハ……ッ今みたいなことじゃなくてもいいでしょう! 例えば、俺の頼みを一つ聞くとか」
よほど恥ずかしいのか『ハグ』という単語もまともに言えないようだ。「こんな姿、悠介に見せたくないだろうなあ」と少し可愛く感じる理久の隣で、哲郎は困ったように自身の首元へ手を置いた。
「それも考えたんだが……あんまり意味がないと思って」
「な、なんでですか?」
だって、と哲郎は至極当然のことを言うような顔をする。
「凪沙が困ってたら、俺は頼まれなくてもどうしてほしいか聞くから」
ーー見返りとか抜きに、いつだって俺たちは、後輩の頼みは何だって引き受けたいから。
しっかりと伝わってきた気持ちに、思わず気圧されて何も言い返せなくなる。悔しいから、凪沙はただ心の中で「ずるい人たちだ」と悪態のようなものをつくだけに留めておく。
「……分かりました。もう、お礼はいいので、特別にタダで教えます」
ようやく出てきた言葉に、理久は驚く。
「え! いいよ凪沙。アイス買ってあげるよ?」
「この流れでまだそれを要求したら、俺がすごいバカみたいに見えるじゃないですか。だからもういいです」
早くプリント見せてください、と続ける凪沙を哲郎が見下ろしていた。
「凪沙、今のお礼は嫌だったか?」
「……」
無言の後輩に対し、あるはずのない哲郎の犬耳がシュンと垂れ下がる様子が、理久には見えた気がした。さらに「茜とか理久は喜ぶから……良い方法だと思った」と言われ、思わず「いやまあ、それは結構特殊だから」と自分で言うのも何やらおかしいような返事をしてしまう。すると、凪沙からも、
「そうですよ。俺と先輩たちを一緒にしないでください」
「な、なんだよその言い方」
膨れっ面の理久の前で、凪沙は黙ってプリントに公式を書き込む。それを哲郎に渡す際に、彼は小声で呟いた。
「……少し、恥ずかしかっただけです。だから、別に」
その先に続く言葉は敢えて飲み込み、凪沙は哲郎を見上げる。一方、やられた側の先輩はどうにも分からないらしく、挙げ句の果てに「別に、なんだ?」と促してくる。自ら聞いておいてこの様である。思わずカチンと来るが、きっと「嫌じゃない」と言っても言わなくても哲郎にとっての自分は変わらないのだろう。それが嬉しくて、先輩をしてる目の前の人がちょっとだけカッコよく見えて、やっぱり悔しいから何も口にはしなかった。
そうこうしているうちに、近くの階段から声が聞こえ始めた。職員会議が終わった教師たちが戻ってくるようだった。
慌てた理久は「早く戻らないと。凪沙ありがとう!」と言い、哲郎もそれに続ける。
「ありがとうな。終わったら迎えに来るから、一緒に部活行こう」
言い終えて、頭を撫でられる。もはや反論する気力も無い凪沙は大人しく享受しつつ、その手のひらが大きく、温かいことにどこか安心していた。顔を上げれば、微笑む二人の先輩と目が合った。
隣の教室に二人の後ろ姿が消えたのを確認した後、自分も元の席に座る。そこへタイミングよく、教師が戻ってきて、生徒たちもざわめきをやや落としながら、それぞれのやるべき課題に向き直る。教師は凪沙の席に近づき「由井」と苗字を呼んだ後、複数の用紙を差し出してきた。
「これが授業プリントで、こっちは保護者向けのやつ。悪いな。ただ渡すためだけに来てもらって」
「いえ。ありがとうございます」
「中間テストも特に問題はなかったから、今日はもう部活でも何でも行っていいからな」
そう言い残し、彼は教卓へ戻っていく。受け取ったプリントを眺めていると、隣の席から「いいなあ由井、もう帰れんのかよー」というクラスメイトの声がした。凪沙は「うん、まあ」曖昧な返事をしながら、鞄から文庫本を取り出す。
「あれ、帰んねーの?」
席から立つ気配のない自分を、彼は不思議に感じたようだった。当たり前だろう。もし自分が彼の立場にいたら、同じことを質問するに違いない。
「あぁ、うん」
「誰か待ってる感じ?」
「そんなところ」
何気ない、どこででも交わされるような会話だ。けれど今は、それが意味する『待ち合わせ』というものがどうにも、凪沙の心をくすぐらせた。
大きな手から、伝わる温かさ。それに、優しい眼差し。
「……あんまり遅いようだったら、置いていくけど」
小さく付け足された言葉に、彼は首を傾げた。しかし、すぐに耳元で囁く。「なあ、暇なら教えて」「やだ」「えぇー! おーしーえーろーよー! 俺は早く部活行きたいんだ、走りてえよー!」「おいそこ、分かんないなら先生のところに来い!」教室の笑い声や、冷房の風を感じながら、薄いページをめくる。
待ち遠しい、なんて柄にもないけれど、先輩二人が扉を開ける瞬間を想像しまう。そんな自分がいることが面白くて、気づけば少し笑っていた。
◇◆◇
「あッついぃー!」
ジメッとした空気が満ちた廊下を、早歩きで進んでいく。緩い風が耳元を過ぎ去っていった。文句を言っても涼しくなるわけではないので、一応手で扇ぐ仕草をしてみるものの、気休めにもならなかった。どうにも暑くて仕方ない。
歩いて学校に来たのだから、その分上がった体温をどうにかして下げたい。ただその一心で、冷房の効いた図書室を目指していた真城は、しかし途中で見知った後ろ姿を発見する。そこはパソコン室だった。ガラスの壁の向こうで、こちらに背を向けているのは、
「悠介せんぱーい! こんにちはッ」
勢いよく扉を開けるーー瞬間、冷気が全身を包み込み、思わず幸せの溜め息をついてしまった。文明の利器って素晴らしい。一人で感動を味わった後、しっかりと扉を閉めてから、悠介の近くまでテクテクと進む。パソコン室には彼以外に人はいなかった。
「めっちゃ涼しいですねー、ここ。外、超暑かったですよ。でも小峰、夏は嫌いじゃないです。なんかこう、一年で一番ワクワクするので! 悠介先輩はどうです? 夏苦手そうでーー」
言いながら顔を覗き込んで、真城は固まった。先程から黙ったままの彼は、その虚ろな目でパソコンのブルーライトをきちんと浴びており、ぼんやりとした表情をしている。そんな彼の横顔は、あまりにも普段のものとはかけ離れていた。
たっぷり十秒ほど経った後、ようやく彼はこちらを見た。思わずビクリと肩を上下させた真城に「あぁなんだ……いたのか」と告げる。その声の低さたるや、テンションの有無を物語る証拠ともいえた。
「ど、どうしたんです先輩……ゾンビみたいになってません?」
恐る恐る問いかけたところ「原稿が……進まない、頭……」などという、途切れ途切れの単語で返される。それでも、眉間を押さえて苦しそうな顔をしているあたり、悠介が大変な作業の渦中にいることは、真城にも理解できた。
「目、痛いんですか? 少し休憩した方がいいんじゃーー」
「んー……」
そうする、と悠介は怠慢な動きで、一旦画面をシャットダウンさせる。天井を仰ぐ様子に、少し安心してから真城は置きかけた鞄を持ち直す。「じゃあ、あたしは行きますね」
「……あ? なんで」
しかし、返ってきたのは予想外の反応だった。いつもより目つきの悪さが、倍増された悠介から視線を向けられ、何もやましいことはしていないのに、しどろもどろになる。
「え、いや、だってーーお仕事の邪魔しちゃ悪い、ですし」
目線を泳がせていたら、ふいに「悪くねーよ」という声がした。悠介は眠たげな目で、こちらを見て言う。
「少し休憩するし、ちょうど話し相手が欲しかったところだ。小峰も涼んでいけばいい」
その優しい口ぶりに、真城は何かを感じ取る。な、なんだこの雰囲気は……! 立ち尽くしていると、目の前で悠介は「座らないのか?」と僅かばかり首を傾げた。刹那、胸を矢のようなもので射抜かれた。もちろん想像上の矢である。
真城は気づいた。今、目の前にいる悠介は多分、いつもよりも素直だ。つまり可愛い。なぜかは分からないが、滅多にないチャンスの到来だ。ここは存分に堪能したいところだった。
「いえ、座らせていただきます」
穏やかではない心中とは裏腹に、キリッという効果音が聞こえそうなほどの真面目さでそう答える。大人しく隣の席に腰掛ければ「ん、それでよし」とお褒めの言葉をいただけた。なんだこれ、すごくーー楽しい。
ニヤけてしまわないよう、誤魔化すように鞄の中から、レジ袋を取り出す。
「先輩、ゼリー食べません?」
訊ねると、それまで眠たげだった目が少しだけ開かれる。
「いいのか」
「はい! さっきコンビニ寄ったとき、二個買ったら安くなるって売ってて、つい買っちゃったんで。あ、どっちが好きですか?」
みかんとぶどうの二種類を置く。悠介は考えることなく「どっちも」と答えた。さらに、
「だから小峰が先に選んで」
なんて、優しい声色で続けるものだから、再び体が硬直しそうになる。しかしそこはグッと堪えて「ありがとうございます……」と言いつつ、みかんゼリーを手に取った。同じように、悠介がぶどうゼリーへ手を伸ばしたとき、ふとあることを思い出した。
「そういえばここ、飲食禁止でしたねーーって、え!」
気づいたはいいが、すでに隣の先輩は蓋をペリペリと剥がしている最中だった。驚きのあまり口を開閉させてしまう。
「せ、先輩……今のあたしの言葉、聞こえてました?」
「べつにいいんじゃねーの。誰もいないんだから」
あまりにも雑な返答をしてから早速、プラスチックのスプーンですくったゼリーを口に入れる。それを眼前に、軽い衝撃のようなものを受けつつ「この人たまにこういうことするよなぁ」と改めて感じる。真面目なのだろうが、ごく稀にそれが吹っ飛ぶ瞬間があるというか。ずっと真面目でいられる人間などいないことは、分かっている。分かってはいるのだが、やはりこうも見せつけられると、拭いきれない違和感を覚えるのもまた事実だった。
黙々と食べ続ける悠介を横目に、真城も蓋を剥がし、スプーンで透けたオレンジ色をすくった。口に含めば、爽やかな柑橘の香りと、甘いシロップが舌の上を流れた。奥底に転がる、たくさんのみかんが早く食べたくて、夢中で食べ進めていく。半分ほどになったころ、ふと横を向けば、悠介が頬杖をつきながら、こちらを見ていた。びっくりして、食べる手が止まった。
「な、なんですか」
「……いや。今日は静かだなぁと思って」
それは先輩のせいで調子が狂うから、とはさすがに言えず、適当に相槌を打ってみる。「そうですかねー」
悠介のゼリーの容器はもう空っぽになっていた。
「でも静かな方が、先輩もゆっくり休めるでしょう」
「そう、かもしれない」
「そうですよ」
しばらくの無言の後「でも俺は」と彼は言った。
「いつもみたいな、小峰の変な話、聞きたい」
「はえ?」
動揺のせいか、スプーンの上からみかんが落ちて、再び透明な容器の中に戻ってしまう。
へ、変な話……。確かにいつも、何でもかんでも部活で喋っているので、そういう認識はされていてもおかしくない。しかし、まさかそれをわざわざリクエストされる日が来ようとは、思いもしなかった。
「なんかないのか」
「え! えッとぉー……?」
わあどうしよう! こっちを見てくる! というか、悠介先輩って意外とまつ毛が長い……いやそうじゃなくて、何か、何か話をしなければーー!
謎の使命感に駆られた結果、真城は苦し紛れのように言った。
「今朝、電車の中で高校生の男女が、壁ドンして遊んでました」
ーー無言。
真城は自分の笑顔が引きつったのを感じた。一方、ジッとこちらを見つめてくる悠介。残念ながらその瞳からだけでは、どういった感想を抱いたのかまったく読めない。お気に召さなかったのか、それとも、これは続きを促されているのか。しかし続きなどない、話はこれで終わりだ。ならば違う話を求めているのか。
グルグルと巡る思考回路に割り込んできたのは、のんびりとした先輩の声だった。
「そりゃ変な話だなぁ」
食いついた! まさかのホームラン! 基準がよく分かんないけど勝った!
心の中でガッツポーズをしていると、さらに「流行ってるよな、それ」とまで言われた。
「少女漫画とかで、よくあるシチュエーションですから。女の子にとっては、憧れだったりするんでしょうねー」
「へぇ……」
「あたしの好きな作品にも結構取り上げられていますよ」
一人で頷きながら勝手に納得する。しかし、次の瞬間「じゃあ小峰も憧れなのか」と訊ねられ、思わず勢いよく隣に向き直った。
「え!? いやちが、あたしは違いますよ!」
「そうなのか」
必死の形相で訴えるが、ぼんやりとした表情の悠介にはどれだけ届いているのやら、分からないところである。
「あれは見てるから良いんです! 自分がされるのは何というかこう……怖いです!!」
「怖い……」
納得してもらえたようなそうでないような、微妙なおうむ返しをされる。けれど「まぁ別にいいか、今日の先輩ちょっと疲れてるみたいだし」と思い直していたら、
「じゃあ試しにやってみるか?」
「は!?」
斜め上にかっ飛んだ言葉が耳を突き抜けた。
今とんでもなく大変なことを言われた気がした……気のせい? いくらなんでも、悠介先輩が自分からそんなことを言うわけがーー。
「やってみたら意外と良いかもしれないな」
ダメだ本当に言ってる! しかも、これはやる流れになっている!
さすがの真城もパニック状態に陥った。
「ゆ、ゆゆゆ悠介先輩、だいぶお疲れのようですしもう今日は帰った方が良いのでは!?」
まさか、ぶどうゼリーで酔ってるわけじゃないよね!? などと考えているうちに、悠介の手はゆっくりとだが確実に伸びてくる。ひえッ! この人マジだ!
真城は反射的にギュッと目を瞑った。しかしーー静寂だけが耳を通り抜け、一向に何かが起きる気配すら感じられないまま、時間は過ぎていく。頭の中にクエスチョンマークを浮かべながら、こわごわと目を開けた。
手を伸ばしかけたままの悠介と、視線が合う。そうして向けられたのは、そよ風に揺れる花のような優しい微笑みで。
「うーそ」
冗談に決まってんだろ、と彼は真城の頭を軽く叩いた。いつもと何ら変わりないその手つきに、安心した後、体中から蒸気が出そうなくらい、体温の上がっていく様が分かった。なーー何なんだ今日の先輩は本当に!
意識していなくても、恥ずかしさやら怒りやらで震えてしまう。そんな後輩を知ってか知らずか、悠介は手を離すと少し舌足らずに「こみね」と呼んだ。
「な、何ですか……」
「ごめんーー俺」
もう、限界。
言い終えるや否や、ゴンッという音を立てて、机に突っ伏したままピクリとも動かなくなる。その唐突さに面食らいつつも、耳をそばだてると、静かな呼吸音が聞こえた。どうやら眠ってしまったようだった。瞬間、真城の頭脳に電流が走る。
ーーもしかして、今までのは全部、眠気から来る朦朧とした意識のせいなのでは?
取り残された哀れな後輩は、行き場のないこの心情をどうにかしたくてたまらなくなる。しかし、ここには誰もいない上に、寝ている先輩を置いてはいけないので、
「〜ッもう! あたしも寝る!」
何の解決にもならないであろう手段を採用した。
けれど無理やり視界を閉ざせば、悠介の少し意地悪く微笑んだ表情がそこには焼きついていて、ガバッと起き上がってしまう。隣でスヤスヤ眠り込んでいる姿を、恨めしく思いながら「さっきの顔、写真に撮って先輩たちに配れば良かった」と呟く。でも、
「……ちょっとだけ、カッコよかったですよ」
悔しいですけど、と真城は立ち上がって、冷房の電源を切った。部屋はもう寒いくらいだった。空気を入れ替えるために、窓を開ける。カーテンを少し開けて、寄りかかりながら、背後に蝉の声を聞く。
微笑みながら、そっと呟いた「いつもお仕事、お疲れ様です」という言葉が、生温い風に乗って部屋を吹き抜けていく。
◇◆◇
「ありがとうございました」と頭を下げてから、音楽室の扉を閉める。神楽は小さく息を吐き、足を部室のある方へと向けた。涼しかった音楽室を出たおかげで、廊下の熱された空気が、むしろ心地良い暖かさを与えてくれる。半袖のワイシャツから伸びる腕を少しさすった。
みんなもう来てるかな。廊下の曲がり角を過ぎ、部室が見えてくる。楽譜の入った手提げ鞄を持ちつつ、扉の前に立ったところで、しかし室内から何の音もしないことに気がついた。どうやらまだ誰もいないようだ。
そう思ったから余計に、扉が自然と開かれていく目の前の光景に驚いてしまった。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
そうして現れた人物によって、扉は勝手に開いたのではなく、室内から開けてもらったことに気づく。やけに恭しい口調で出迎えてくれたのは、茜だった。
跳ねる心臓を落ち着かせながら、神楽は声を出せない。口を開閉させたり、視線をあちらこちらへ泳がせたりしているうちに、なぜか室内へと促される。「さあ、こちらへどうぞ」
「あ……えッと……?」
ようやく絞り出せた声と、見上げる表情から神楽の困惑さを感じ取ったらしい。茜は笑みを浮かべながら告げる。
「ずっと一人でつまんなかったからさ。次、部室に来る人に遊んでもらおうと思ってたんだ。ちなみに、執事喫茶ごっこね」
だから神楽はお客さん、と背中を優しく押される。少し戸惑いはしたものの、茜が悪い人ではないことくらい、とうに知っている。本当に暇を弄んでいたのだろう。その上、まだみんながここへやって来るには時間がかかる気がした。神楽は彼の遊びに付き合うことにした。
「じゃあ、お邪魔します」
踏み入れた部室はいつもと変わりない景色である。よくよく見れば、当たり前なのだが茜も普段通りの制服姿だ。半袖のワイシャツに指定のズボンという、執事とはかけ離れた格好が何だかおかしかった。
「お好きな席へどうぞ」
言われた通り、手近なイスに腰を下ろす。鞄を隣の席に置いたところで「お飲み物はいかがですか」と声をかけられる。神楽はクスクスと笑いをこぼしながら、首を横に振った。
「さっき買った紅茶がまだあるので、大丈夫です」
「おや、そうでしたか……ではお菓子はいかがでしょう?」
それならば欲しいかもしれない。ちょうど昼前で、小腹が空いていた。その旨を伝えれば「かしこまりました」という、すっかり執事になりきった言葉遣いで返された。意外にも早く運ばれてきたのは、大きめのビニール袋だった。茜の手によって傾ければ、その中身は長机の上に流れ出て来る。あっという間に、駄菓子の山が出来上がった。
思わず小さく吹き出す神楽に、茜はニヤリと口角を上げた。
「お待たせいたしました。ご注文のお菓子です」
「ッ……これ、どこからこんなに」
「それは企業秘密でございます」
本当は拓人さんから貰ったんだけどね、という一言は聞かなかったふりをしておく。どうやら、たい焼き屋の店主はお菓子を溜め込む天才らしい。
もはや即席すぎて、統一感のない喫茶である。駄菓子を運ぶ執事がいる店。実際にあったら、すぐに潰れてしまいそうだ。どこの誰に需要があるのか、検討もつかない。
「お嬢様、他に何か御用はありませんか?」
そう笑顔で訊ねられる。神楽は「いえ、もうありません。ありがとうございます」と言ったが「それでは困るので何かお申し付けください」と、思わぬ無茶振りで返されてしまった。お客は考える。飲み物とお菓子以外で、必要なものーー。
しばらく悩んだ末に、
「じゃあ、私と一緒にお茶してください」
告げたお願いに、執事は最初キョトンとしたが、しかしすぐに「お安い御用です」とお客の向かいへ座った。神楽は眼前の山から、小銭ほどの大きさのチョコレートを手に取る。茜は、あられせんべいが入った袋を開けた。
「お嬢様、お名前は何とおっしゃるのですか」
「えッ、と……神楽です」
ふいに聞かれた質問に答えれば、茜は頷きながら「素敵なお名前ですね」と呟く。少しだけ頰が熱くなるのを感じた。
「歳はいくつなんですか」
「十七です」
「へえ、お若いですね。本日はどちらからいらしたんでしょう?」
自分も同学年なのに、不思議な言い方である。神楽は笑いを含みながら「音楽室です」と返す。駄菓子の山の向こうで、茜が吹き出したのが分かった。
見ると、彼は俯いて肩を震わせていた。ひとしきり笑った後「じゃあ、お嬢様は楽器を演奏なさるのですね」新たに質問を投げかけてくる。
「そうです。……できるのは、ピアノだけですけど」
「いいじゃないですか、ピアノ。俺も好きです」
演奏会などはされているのですか? と続けられた言葉に、神楽は少しだけ喉が詰まる気がした。返事に困って、しばらく無言が流れる。茜は何も言わない。
冷房がないこの部室では、夏は窓を開け放っている。今日も僅かだが、校舎の緑を揺らす風が流れ込んでくる。
「……秋の、合唱コンクールで、伴奏をします」
鼻先を夏草の香りがかすめた。もうしばらくすれば、それが移り変わっていく。秋のどこか物悲しい風になる様子を想像するだけで、最近は不安に感じていた。
今日の練習も、先生には大丈夫だと言われた。けれど、いくら弾いても拭いきれない恐怖のようなものはある。失敗したら、間違えたらーー考え始めれば、キリがなかった。
ピアノは好きだ。でも、ほとんど趣味だったから、大勢の前で演奏したことはあまりない。伴奏の立候補が募らないから、先生に頼まれて、半ば流されるように引き受けてしまったのは、やはりーー。
「大丈夫だよ」
その声に、一瞬誰のものか分からなくなる。崩れた山の脇から、茜がこちらを真っ直ぐに見据えていた。
「ステージの上で、神楽はひとりじゃないんだから」
言われて、想像してみる。ピアノを前に座る自分。近くにはたくさんの生徒の後ろ姿があった。目を逸らしてしまいそうになる、瞬間、そのうちの一人が振り返って、ニカッと笑った。理久だった。
よく見れば、茜も、悠介も、哲郎もいる。観客席には、家族の姿も浮かんで見えた。
本当だ、と神楽は思った。私はもう、ひとりじゃなかった。孤独な舞台だって、周りを見渡せばいつもいる、心強い仲間たち。
「ーーそうだね」
神楽は微笑んで「何にも心配、いらないね」と呟いた。茜も頷き返してくれる。
「俺、神楽のピアノ好きだよ」
優しくて、でも元気な音符が見える気がする。
その言葉に胸があったかくなる。大切に抱きしめながら「ありがとう」とだけ言うのが精一杯だった。
すると、何やら廊下の方から、騒がしい声が聞こえ始めた。初めは遠かったそれは、だんだんとこちらに近づいてくる。
「はあーやっと補習終わったあ!」
「凪沙のおかげだな」
「今さら中学の数学って……先輩たち大丈夫なんですか」
「あー……ねむ……」
「悠介先輩しっかり! 歩きながら寝ないで!」
聞き慣れた声を耳に、二人は顔を見合わせて微笑む。席を立った茜に倣って、神楽も扉の前に向かう。外から開けられるより早く、こちらが開けたらみんなはどういう反応をするだろうか。
確実に大きくなる話し声が、廊下に反響している。隣で、茜が人差し指を自身の唇に当てる。神楽は首を縦に振って、一緒に扉へ手をかけた。
たくさんの足音が、たった一枚の板を隔てた向こう側で止まる。二人は指先に力を込めた。




