小話 難解な二人の、答え合わせ
カラン、と音を立てて、透明な氷は麦茶に半分ほど浸かった。琥珀色のそれを喉に流し込む。熱を帯びていた体の芯が徐々に冷えていく感覚がする。火照ったように思っていたのは気温のせいではない。拙いながらも、目の前に座る友人に先日の出来事を、話し聞かせたことによるものだ。
現に、今いる悠介の部屋にはエアコンから送られる冷気が満ちていた。それでも、ジリジリとした熱さは拭えないので、自身の気分がそれほどまでに高揚していたのを今さらのように思った。
「……こんな感じなんだが」
哲郎は話をそう締めくくるが、なぜか茜と悠介は呆気に取られた表情をしていた。彼は少し不安に駆られ、
「悪い。話、分かりにくかったか?」
「え、いや! そんなことはなかった、けど」
妙に歯切れの悪い返事をしながら、悠介が隣の茜を見やる。その視線を真剣な顔つきで受け取った茜も、哲郎に向かって力強く頷く。
「うん。俺もびっくりしてる」
「だよな……まさか、哲郎が御崎のことをーー」
「哲郎がこんなにいっぱい喋ってるの、初めて聞いた」
「そっちかよ! いや俺も初めてだけど」
「つい珍しくてさー」「気持ちは分かるがそこじゃないだろ」などと言い合う二人を前に、キョトンとしている本人はまったく理解していない様子だ。それに気づいた悠介がわざとらしく咳払いをする。
「とにかく、えっと、どうして御崎といたときに、その不思議な気持ちになったかが知りたいんだよな?」
「あぁ」
「それはだな、つまり、その……」
一瞬の思考の後、言葉がつまる。なぜなら、こちらを見つめる哲郎の眼差しがあまりにも真剣なものだからである。まるで純真無垢な子供だ。そんな彼に、横槍を入れていいのだろうか。彼が自らその気持ちの正体を気づかなければ意味がない気もしてくる。しかし、この鈍感な青年が自ら探し当てられるとは、とてもじゃないが言い切れない。
悠介が迷いを断ち切れずにいるうちに、
「それってさ、神楽のこと好きなんじゃないの。ラブの意味で」
瞬間、部屋の中が沈黙で包まれた。
驚きやら何やらで悠介が口を開閉させる一方、何の躊躇いもなく言い切った茜は不思議そうな顔で「あれ」と呟いた。
「哲郎が固まっちゃった。なんで?」
「当たり前だろ! お前は、本当に! 昔からデリカシーがないな! もう一生デリカシー食ってろ!」
「えぇー、だって言わないと分かんないじゃん。哲郎だってもう子供じゃないんだし」
「そうだとしても、もう少しオブラートに包むとか遠回しに表現するとかあるだろ……!」
言い合いをしているうちに「……ラブ」という呟きが聞こえ、二人は口をつぐんで声のした方を向く。
硬直の解けたらしい哲郎は俯きがちに、短いズボンの裾を握っていた。少し様子を見てみるが、照れたりしているわけではなさそうだ。雰囲気で伝わってくるそれが決して明るくはないものだったため、茜も悠介も大人しくせざるを得なかった。
「……どうしたの?」
茜の問いかけに、か細い声が「自信が、ない」と答えた。それは彼のガッシリとした体格からは似ても似つかぬもので、奇妙な印象を抱かせた。
「こんな、曖昧な気持ちを『好き』って言っていいのか、自信が持てない。俺はただ、神楽と一緒にいることが、他人よりも少し多かったから、何か勘違いしているのかもしれない」
「じゃあもし神楽が悠介と付き合うってなったらどう?」
「え……」
「は!? お前なに言って」
「どんな感じする?」
至って真面目な茜の声色で、悠介も介入しづらくなる。バツが悪そうに目線を泳がせる悠介を、哲郎はしばらく眺めたのち「ちょっと、やだ」と小さく、しかしハッキリした口調で言った。
一瞬、それはもう恋だと言いかけた二人だったが、
「でも、悠介なら神楽のこと、大事にしてくれるだろうから……」
それっきり黙ってしまう哲郎。やはりどこかに遠慮じみた何かがあるようで、あと一歩が踏み出せずにいた。
再び重苦しい空気が流れ始める。茜は小声で「あー、例えが悪かったなぁ」と独りごち、悠介は「余計にダメージ与えてどうすんだよ」と額に手を当てた。困り果てた三人の暗い雰囲気で満ちていく部屋の中ーーふいに、軽やかな音楽が流れる。それも別々のものが三つ同時に、である。
同じリズムを一定間隔で繰り返すそれは、各々の端末から発せられるものだった。互いに目を合わせたのち、内容を確認する。
それは、今まさに話題に上がっていた人物ーー神楽からの一斉送信メールだった。
『兄が勤めている会社と連携しているホテルの宿泊券を貰いました。近くには海もあるので、良かったら行きませんか?』
宛先にはこの場にいるメンバー以外に、理久、真城、凪沙がいた。後輩二人も今年からはそれぞれ専門学校と大学に通っているので、行くなら完全に夏休みに入るはずの八月中だろう。
もちろん行くつもりの茜と悠介だが、肝心の哲郎の方はといえば珍しく苦い表情で画面を見つめ続け、ついに、
「……い、行かない」
「言うと思った」
「行こうよ哲郎ー。海だよ? ホテルだよ? いっぱい遊べるよ?」
「でも神楽が……俺が行ったら、気まずくなるんじゃ」
「俺たち三人とも行くって返信するからなー」
「え、あ、だ、ダメだ悠介」
「じゃあずっとこのままでいいのかよ」
端末から顔を上げた悠介の瞳に、不安げな表情の哲郎が映し出される。それに胸が痛まないわけもなく、けれど、だからと言って放っておくには心配だった。
そうして、あえて淡々とした口調を貫く。
「勘違いかどうかも分からないまま、御崎のこと避けるのか。そんなの、向こうだって傷つくんじゃねぇの? ぞんざいな扱いするくらいなら、マジで俺とかが狙いにいくぞ」
思わず今度は茜が「え!?」と声を上げてしまう。恐る恐る見やれば、もはや絶句に近い反応をしている哲郎が視界に入り、口元を引きつらせてしまった。そんな様子に気づいているのかいないのか、悠介は狭い画面に現れたキーボードに指を這わせながら、
「確かに御崎は可愛いからなー。高校のときも、何だかんだ狙ってる奴、何人かいたし。大学でも噂されてるんじゃねーの。例えばさぁ……ーー放課後の音楽室、ピアノ科の御崎が呼び出されて行くと、そこには作曲科コースで有名な先輩がいて『君にぜひ、僕の曲を弾いてほしいんだ』そこから始まる放課後だけの秘密……二人きりの淡いひと時ーー」
「ちょっと悠介もうやめて! 哲郎の口から魂出かけてるから!」
半ば強制的に参加のメールが送られたのを確認したのち、茜は半分ほど意識のない哲郎を連れて、悠介の家を後にした。これ以上いても、彼の精神を削るだけで、まったく意味がないことを察したからである。
涼しかった室内とは違い、茹だるような暑さの中に放り込まれた二人は駅を目指し、歩いた。しばらくの無言ののち、まだ少なくもよく響く蝉の声の合間に、哲郎の呟きが混じるようになった。しかし、その声も表情も明らかに沈んでいる。
「イケメンの、先輩……放課後に、二人きり……」
「哲郎しっかりして……! 悠介の妄想だから気にすることないよ! それにイケメンって多分言ってなかったし。そんなうまいシチュエーションありえないから。あったらとっくに俺が試してるよ、理久と」
「茜も理久もピアノ弾くって感じじゃない……」
「確かにそれもそうだ。むしろ笑えるくらい似合わない……じゃなくて!」
暑さを跳ね返す勢いで暗い空気を辺りに撒き散らす哲郎に、茜は努めて明るく言う。
「つまり悠介は、恋愛感情を無しに考えても、哲郎が神楽を避けてもう話せなくなっちゃうかもしれないって心配になったんだ。そんなこと悠介だけじゃなくて、俺もみんなも寂しいから。だから、まずは普通に、前みたいに神楽と関われるようになるのを目標にすればいいんじゃないかな?」
遠くの陽炎を見つめながら「前みたいに……」と哲郎は独りごちて、また茜を見た。その瞳は幾分か、柔らかなものになっていた。
「あぁ、頑張ってみる」
「うん。俺も協力するから!」
「それと、あの」
「ん?」
「悠介って、本当に神楽のこと好きなのか?」
「……ごめんね、俺が変な例え使ったせいだと思うんだけど、絶ッ対にありえないから安心して。どう考えてもあの人じゃ、神楽は不満だよ」
「そうなのか……?」
「うん。というか、あの生真面目くんに彼女って俺には想像できないなぁ。しばらくは独り身なんじゃない?」
その頃、自室で片付けをしていた生真面目くんこと悠介は、妙な寒気を背筋に感じたが「エアコンつけてるからか」と、自分が噂されているとも知らずそこにいた。
◇◆◇
悠介の予想通り、出掛ける日にちは八月上旬に決まった。夏本番を思い知らされる気温の当日、神楽の家の前に集合した一同は、現れた黒光の長い外車に絶句したり、目を輝かせたり、苦笑いしたりなど様々な反応を示す。下げられた運転席の窓からは、兄である雅人がサングラスをかけた姿で顔を出し「今日は九条さんが夏休みだから、僕が運転手なのさ!」と、やけにテンションの高い様子で言った。哲郎以外は雅人と会うのも初めてだったため、代表として理久が挨拶を済ませたのち、荷物を積み込むと、車は滑らかに発車した。
山道を走ったり、時々海沿いに出たりと移動時間がなかなかにあったので、少しくらいはと予想していたが、哲郎と神楽が二人きりで話すタイミングはなかった。久しぶりに集まったメンバーのため、近況報告などのお喋りで大いに盛り上がってしまったのが原因なのだが、それはそれでとても楽しかったので、車内での積極的な行為は避けた。そうこうしているうちに、窓の外には青く広がる海が現れ、ほとんど目の前にあるホテルにも無事到着した。
駐車場に停めるや否や「着いたああ!」と、真っ先に飛び出す真城を筆頭に「はしゃいで転ぶなよー」と、たしなめながらも笑顔で理久や神楽が続いていく。颯爽と現れたホテルマンに荷物を運ぶように頼んだ雅人だったが、ふいに、女子のあとにホテルへ入ろうとする男子四人に向かって、
「あぁボーイズ、ちょっといいかな」
何やら怪しげな言い回しに、恐る恐る振り返った四人。案の定というべきか、雅人が浮かべる笑みはどこか黒く滲んでいた。
「僕は仕事があるから少し離れるけど、夕方にはまた戻ってくるから。海で遊ぶときは気をつけてね。特に、ガラの悪い連中とか」
後半を妙に強調しながらそう言い「可愛いガールズをしっかり守るんだよ。いいね?」と付け加える。その顔には明らかに「うちの神楽に何かあったら……分かってるよね?」と書いてあった。四人は揃って冷や汗を流しながら、力強く何度も頷いてみせる。口元に笑みを浮かべながら雅人は再び車に乗り込み、軽やかな運転さばきで走り去っていった。
神妙な顔つきで四人は自動ドアの先に足を踏み入れる。ホテルの洋風で洒落た内装や、大きなシャンデリアを見て何やら楽しげに会話している女子たちを眺めつつ、悠介がボソリと呟く。
「……すげぇシスコンだったな」
「神楽のことになると性格変わるんだ、雅人さんは」
「何それ怖いよ……俺たちどうなるの? もし何かあったら東京湾に沈められるの?」
「任侠映画じゃあるまいしそれはないーーと信じたいな」
「でも確かに言われた通り、海に変な奴らってのは付き物ですからね。琴平先輩には一応彼氏の出雲先輩がいるけど」
「一応じゃなくて正真正銘の彼氏!」
「はいはい分かりました。小峰には……まぁアイツは一人でギャーギャー騒ぐから近寄ってこないだろうけど、俺が面倒を見るとして、御崎先輩には誰が付きますか」
「それなら哲郎だろ」
「えッ……俺が?」
「当たり前だろ」
言いながら悠介に背中を叩かれる。まるで喝を入れてくれるようなそれが頼もしくもあり、少し不安でもあった。しかし、凪沙には「あぁ、いいですね」と太鼓判を押された。
「和多先輩なら身長も体格もこの中で一番大きいし、威圧感あって何かあったときも反撃できそう。ヒョロい松野先輩よりずっと安心です」
「お前……相変わらず俺にだけ当たりが強いな。凪沙こそ、体薄っぺらいし、この中で一番身長低いじゃねーか」
「身長はもう伸びなくてもいいんです。大事なのは外見より中身ですよ。こう見えても筋肉ありますから」
「俺だってあるし。何なら泳ぎで勝負するか?」
「負けても泣かないでくださいね」
「誰が泣くか! バカにすんな!」
悠介と凪沙の間に火花が飛び交うのを、茜が苦笑いで見守っていたら「ちょっと目を離すとすぐこれなんだから」と呆れた口調の理久が仲裁に入ってくれた。なおも睨み合いを続ける二人を適度な間隔に離しつつ、一同は泊まる部屋のカードキーを受け取り、そこへ向かう。
「荷物置いたら、着替えて海行きましょう!」
「いいよ。行こうか」
「やった!」
はしゃぐ真城を神楽が微笑みながら見つめる。その背後で悠介が「それなら俺たちも行くから、全員で行こう」と続けた。
「疲れてるなら無理しなくてもいいよ?」
理久の優しさに四人は首を横に振る。大丈夫です、行きます。何せ君たちの護衛をしなければならないので。申し訳なく思われてしまうかもしれないので口には出さないが、男子の思いはひとつだった。
ふかふかの感触の床を歩き続けたのち、部屋の前に到着する。四人部屋を二つ予約してもらったので、女子と男子で分かれた。至って常識的な判断に、しかし不満を覚える人物がひとりだけいた。
「えぇー! 俺、理久と一緒がいーいー!」
「ワガママ言うなこの赤毛! お前はこっちだっての!」
「だって悠介怖いもん、すぐ怒る」
「じゃあ俺が出雲先輩に優しくしてあげますよ」
「な、凪沙の優しいって……あとでなに要求されるか分かんないから、違う意味で怖い」
「失礼ですね。犬みたいに可愛がってあげるのに」
「せめて人間扱いして!」
そんなやり取りをしている間に、女子たちは部屋の中へと入っていく。茜の寂しげな目線に、理久は少しだけ申し訳なさそうにしたが「またあとで」と意外にもすぐ顔を引っ込めた。オートロックの音が廊下に小さく響く。あっさりし過ぎた別れがショックなのか、力無く項垂れた茜を悠介は部屋に連れ込んだ。
さすがホテルというべきか、中はやはり綺麗だ。チリひとつ落ちていない絨毯に、ピカピカの洗面台。風呂は大浴場があると聞いたので、そこに行くのも悠介は楽しみだった。
「ほら、さっさと水着の準備しろ」
掴んだままだった茜をベッドへ放り投げる。本人は「うー」と唸ったあと、怠慢な動きで旅行カバンを漁り始める。
各々が準備を済ませる中、何気なくクローゼットを開けた凪沙は発見したものを取り出す。それはシンプルなデザインのパーカーだった。
「何だそれ」
悠介の問いに、凪沙が一緒に置かれていたカードを読みながら、
「えーっと、多分、海に行くとき水着の上に着ていいよって感じのサービスです」
「へぇ、確かにシャツ着るよりは涼しそうだな」
「俺それ着たい」
「あ、俺にもー」
哲郎と茜にそれぞれ投げて寄越す。上手くキャッチした二人は、シャツを脱いでそれを羽織ろうとしたのだが、露わになったその上半身に悠介と凪沙は眉をひそめた。
若干、悔しそうな声で悠介が、
「茜……お前、鍛えたのか?」
「んー? あぁこれ、べつにしてないよ。ただ、来年から専門学校に通いたいからお金貯めるために、引っ越しとか宅配とかのバイトしているうちに、こうなった」
「マジかよ……」
高校の頃は自分と何ら変わりなくーーむしろ華奢だったくらいの彼が、今や適度に引き締まった筋肉をつけているのだから、目を疑うのも無理はないと思いたい。無意識のうちに自分の細い腕を恨めしく見てしまう。
さらに追い打ちをかけるかのように、隣で凪沙が「和多先輩って運動部だったんですか」と半ば睨みに近い視線を向ける。まるでイエス以外の返答は許さんと言わんばかりの質問だが、哲郎は何の悪気もなく、
「いや、やったことない」
だからこそ残酷でもある答えを返した。「文化部じゃ絶対にありえないですよ、あの筋肉」と凪沙は呟くが、あながち間違いでもないことは悠介もよく知っていた。体格にも恵まれているおかげか、哲郎は高校の頃もその締まった肉体美で、よく運動部から勧誘を受けていた。そもそも茜と哲郎といえば運動が得意で、体育祭ではクラスで重宝されていた。なぜ文化部にいるのか、周りはいつも不思議がっていたが、単に二人のやりたいことが文芸部という場所にあっただけの話である。
それはともかく、そんな二人を見てしまったせいで、何となく脱ぎづらくなる。それは隣の後輩も同じようだった。
「……凪沙、さっき筋肉あるっつってたよな」
「見栄張ったって分かりませんか? それより先輩はどうなんです」
「こんな腕じゃアイツらにへし折られるって思ってたところだ」
「そうですね、俺でも折れそうです」
「言うじゃねぇかお前……やってみろよ」
互いに腕を掴み押し合いながら、再び睨み合いの火花を散らす二人に、茜が苦笑いで溜め息を吐く。
「あーあ、また始まった……。ほらもう、早く着替えて海行こうよー」
「裏切り者は黙ってろ!」
「何それ! 俺が何したの!?」
悠介の嫉妬や羨望に気づかないまま、茜はベッドに腰掛ける哲郎に近寄る。
「もうあの二人置いて、さっさと行こう哲郎」
「あ……」
しかし彼はこちらを見たのち、目線を落として「いや、まだ、いい」と答えた。どこか迷っている様子に、茜は神楽のことを思い浮かべてしまい、少しだけ眉を下げる。そして、次の瞬間、
「……悠介、凪沙、ごめん」
いがみ合う二人の首根っこと彼らの最小限の荷物を掴み、廊下へ放り出した。理解が追いつかないのか目を丸くした凪沙に、文句を言いかける悠介。けれど、茜はあくまで笑顔のまま告げる。
「ちょっと哲郎と二人で話したいから、先行ってて!」
有無を言わせない速さで扉を閉められる。鍵のかかる音がしっかり聞こえた。
しばらく無言でいたのち、悠介が大きく溜め息をつく。
「ッたく……アイツも大概、世話焼きだな」
「あの、まったく状況が読めないんですけど」
さすがに可哀想な気もしたので、先日聞いた哲郎の話をそのまま話してみせた。しかし同時に、廊下で渋々着替えの続きや、荷物の準備をしているので、あまり様にはなっていなかった。
一通り話し終えると、凪沙も納得したようだった。
「なるほど。つまり、御崎先輩と顔を合わせにくい」
「みたいだな……。まだ、御崎が好きかどうか分からないんだと」
ふーん、と愛想のない相槌をしてから、後輩は言う。
「真面目なんですね」
「良い奴だからな。珍しく今は考え過ぎて、動けなくなってるけど」
元来、哲郎は「考えるよりも感じろ」という方針を大事にする人物であった。恐らく、芸術家肌特有のインスピレーションにずっと従ってきたらしいのだが、なぜか今回はそれが彼に、一歩踏みとどまるよう促しているようだった。
けれど、だからといって周囲に出来ることは限られている。
「結局、どうするのかは哲郎次第だからな。ここは引き下がってやるか」
「出雲先輩はどうなんです」
「放っとけ。茜は茜で思うところがあるんだろ。ほら、準備終わったら行くぞ。エントランスにいれば、琴平たちもそのうち来るだろ」
「それまで松野先輩と二人きり……」
「おいこら、あからさまに嫌な顔すんな」
◇◆◇
その頃、女子たちの部屋でも、あらかたの準備を終え、すぐに出発できる状態だった。
しかし、神楽だけは様子が違った。着替え終わったにも関わらず、なぜか部屋から出るのを渋るのだ。真城が不思議そうに「先輩どうしました?」と訊ねかけて、すぐにハッとした顔つきになる。
「もしかして哲郎先輩と何かありました?」
「えッ、あ……」
驚いたのは神楽だけでなく、パーカーを羽織った理久もだった。
「だって神楽先輩、朝からずっと哲郎先輩と話したそうにしてるんですもん」
「そうなのか? 珍しいな……ケンカでもした?」
神楽が冷や汗を流しているとも知らず、真城は無邪気な笑顔で爆弾のごとき一言を続けた。
「先輩たちいつも仲良いですもんねー、並ぶとカップルみたいに見えますし!」
それに対して神楽は何の返事もせず、ただ黙って理久の背後に回り、背中に顔を押し付けた。無言で不思議な行動するものだと、思わず笑いながら「どうした神楽、照れてるのかー?」と理久は聞くが、予想外にも頷かれたような動作の感触をパーカー越しに覚える。
思いがけず、表情を固まらせる理久。それにつられて、真城も何かを感じ取ったのか、背後に隠れたままの彼女を見つめた。
「……え、神楽、もしかして……哲郎と、付き合ってる……?」
しかし、理久にとってまったく覚えのないその質問に対しては、背中にグリグリと頭を押し付けられるーー恐らく首を横に振っている動作ーーで否定された。すると今度は真城が、
「じゃあ和多先輩のこと、好きなんですか?」
この質問にはしばらく何の反応も示さなかった。二人が固唾を飲んで見守る中、ついに布ずれの音が僅かに聞こえた。神楽は一度だけ、頷いた。
瞬間、理久も真城もまるで雷が落ちたかのような反応を露わにした。一応ホテルの一室のため、大きなリアクションは避けたが、それでも質問をせずにはいられなかった。神楽を取り囲むようにして、
「い、いいいつから!? 全然気づかなかったんだけど!」
「あ……あの、この前二人で、出掛けたときに」
「それってデートじゃないですか!」
「違うよ、だって、その……カ、カップルですかって聞かれただけで、付き合ってはない、から」
「聞かれたの!? カップルですかって!」
「うわもうどうしましょう理久先輩! あたし何かニヤニヤしちゃう……ていうか緊張してきました!」
「わ、私もめちゃくちゃ胸が締め付けられる……!」
「だ、大丈夫……?」
なぜか情緒不安定になる二人を前に、神楽が心配そうに、でも恥ずかしいのか真っ赤な頰のままオロオロする。「応援するからね!」「何でも協力しますよ先輩!」「まずはその二人で出掛けた話聞かせて!」などと益々盛り上がりを見せ始めた途端、とうとうキャパオーバーになったらしい神楽は、逃げるように部屋から飛び出していった。
「あッ! ちょ、神楽!?」
「わああ! 待ってください先輩ー!」
一人で廊下を突っ走る彼女を、二人も慌てて追いかけた。
◇◆◇
女子三人がエントランスに着く。すると、受付の近くにあるフロアのソファーには悠介と凪沙しか座っていなかった。
若干、息を切らせながら現れた三人に、読んでいた雑誌から顔を上げた悠介が眉をひそめる。
「何してんだ……?」
「いや、ちょっと、準備運動がてら追いかけっこを」
何となく哲郎のことは言わない方が良い気がして、理久は適当な返事をする。
「というか、茜と哲郎はどうしたんだ?」
「後から来るんだと。先に行ってろって言われた」
そっか、と返しながら、答えてくれた悠介と隣に座る凪沙の間に奇妙な間隔があるのを発見する。しかも、両者の顔色は微妙に良くない。ムスッとしているようにも見える。また何かやったな、と内心で呆れながら、理久は僅かに溜め息を吐く。
「いい加減に仲良くしなよ……」
「何言ってんだ、俺たちすげぇ仲良いから。なぁ凪沙」
「そうですよ。めっちゃ仲良しです。オレ、マツノ先輩ノコトダイスキー」
「すごい棒読みじゃないか……そんな見え見えの嘘つかれても困るよ。まずお互いを見る目が怖いし」
一体何があったらそうなるのか、隙あらば相手の急所を確実に仕留めてやろう、という敵意が互いに剥き出しである。ホテルを出てから、海の砂浜を歩き始めても「お前が悪い」「先輩のせいで」などと雲行きの怪しい会話を繰り広げ、こっちがハラハラさせられる。
「こんなに二人を揉めさせる原因は何なんだ……?」
理久の問いかけに答えたのは真城だった。
「大体の事柄において、悠介先輩と凪沙くんの趣味は真逆ですから。どうせ食べ物の好みとかじゃないですか?」
「えぇ? そんなくだらないことで揉めるわけがーー」
しかし、前方から聞こえてきた会話の内容は、
「絶対にこし餡の方が美味しいです」
「いや、俺は粒餡以外は認めねぇ」
「粒が邪魔なんですよ。ザラってするから」
「何にもないと寂しいだろーが」
と、似たような言葉のキャッチボールが延々と繰り返されており、呆れを通り越した無表情で理久はボソリと呟いた。
「ーーあったな。揉めるわけ」
「細かいところにこだわりを持つのは、二人とも同じなんですけどねー。そこがさらに摩擦を生み出しているというか」
おかしそうに笑いながら真城はそう言い、依然いがみ合う二人の間に入り込んでいった。
「はーいもうケンカはおしまい! それよりほら! 海で遊びましょ!」
「いや、このままだと腑に落ちない。凪沙、さっき言ってた泳ぎの勝負するぞ」
「え?」
「受けて立ちますよ。負けた方が、今までのすべての言い争いについて謝るってことで」
「はぁ!? 今までって、そのツケは重過ぎだろ!」
「あれー、先輩負けるのが怖いんですかー?」
悠介の口元が不自然に上がり、凪沙がニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる。一瞬の睨み合いの牽制の後に、二人は揃って海に飛び込んだ。驚いた理久が「こら! 準備運動くらいしろー!」と叫ぶが、すでに遠くへ泳いでいくその姿には無駄だった。
心配そうな表情で神楽が「大丈夫かな……?」と言う。その隣で、なぜか真城はどこか興奮した様子で返した。
「大丈夫ですよ! それに……あれが、男の友情ってやつですから……!」
さらに「あの二人見てると妄想が膨らみます」と続けて、涎を拭う仕草をする。後輩の意味深な一言に、神楽は頭上にハテナマークを浮かべるしかできなかった。
◇◆◇
窓の外を眺めていたら、ふいに名前を呼ばれる。振り向くと何かが眼前に迫ってきたので、反射的にそれを掴む。小さなペットボトルに入った水だ。同じ物を持った茜が「ナイスキャッチ」と笑いながら、隣に腰掛けた。
さっきより少しだけ沈んだベッドのマットレスの分だけ、心も押し潰されるような錯覚に陥る。
大きな窓からは、海岸が見えた。昼時で、海の家に人が殺到しているのか、泳ぐ人はまばらだ。今ならのびのびと遊べるはずだった。けれど、そんな楽しい景色と自分の気分はまったく反対の場所にあった。
「……話せる、のかな」
ポツリとこぼれ落ちる言葉。隣からは、キャップの開ける音が聞こえた。
「神楽は、あの日のことが嫌だったのかもしれない」
「嫌だったらそもそも、ここに哲郎を誘わないと思うけど」
最もな返答に思わずギクリとしてしまう。水を一口飲んだのち、こちらを見た茜はニヤリと口元を歪めている。
「哲郎、もしかしなくてもビビってるね? すごく新鮮」
「……ごめん。意気地なしに、見えるか」
「いやいや、慎重になるってことはそれだけ真剣に考えてるってことだから、良いんだよ」
少し間、沈黙が流れた。それを破ったのは茜で、優しい声で言葉を紡いでくれた。
「でも、哲郎がこれだけ気にしてるってことは、神楽も気には留めてるんじゃないかな。本当はあの日のことも、哲郎と話したくて仕方ないのかも」
だからさ、と彼が立ち上がった。
「そんなに心配しなくても、きっと大丈夫だよ」
「そう……かな」
「うん」
哲郎は少し俯いてから「そうだったら、嬉しい」と呟いて、僅かに表情を緩ませた。
その後、茜とともに部屋を出て、先に行ったメンバーを追いかけた。砂浜にはたくさんのパラソルや簡易テントが張られていたため、見つけるのに時間がかかったけれど、どこからか現れた真城が「あ! もう遅いですよ先輩!」と、皆がいる場所まで案内してくれた。
そこでは、すでに全身びしょ濡れの悠介と凪沙が砂浜に倒れ込んでおり、茜も哲郎も呆気に取られてしまう。
「え、何これ」
「沖まで行って帰ってくる泳ぎの勝負」
そう答える理久も泳いできたのか、ひとつに結んだ黒髪から水を滴らせながら、呆れ顔で笑った。「結果は引き分けなんだけどね」と言う理久に、悠介と凪沙が眉をひそめて、
「いや、俺の方が速かった」
「何言ってるんですか。俺ですよ」
「ふざけんな俺だ」
「ならもう一回やります?」
「望むところだっての!」
「え!? 今帰ってきたばっかりなのにーー怪我しないでよー!」
理久の声が届いているのかいないのか、二人はあっという間に海へ飛び出し、続いて真城も「あ! あたし審判やりまーす!」と追いかけていく。
「それじゃあ二人とも、用意はいいですかー?」
「絶対泣かす」
「後悔すんのはそっちですよ」
「では、まずは選手宣誓を先輩にしていただきましょう」
「何でだよ!」
悠介のツッコミで、真城は嬉しそうに大きく笑う。つられて肩を震わせる凪沙も見ていると、まるで仲の良い兄弟のようにも思えた。
「何だかんだ、悠介は面倒見がいいからなぁ。凪沙も毒舌ばっかりだけど、あれで構ってほしいんだろうね」
理久の言葉に茜が「懐いてるねぇ」と返す。そのとき、哲郎の背中に誰かがぶつかった。振り返ると、そこにはアイスキャンデーを持った神楽がおり、慌てた表情で、
「ご、ごめんね。ちゃんと周り見てなくて」
「あーーいや、神楽こそ大丈夫か?」
「ッ! うん、平気!」
なぜか彼女はやけに嬉しそうにそう答えてくれた。よく分からなかったが、哲郎は神楽と普通に言葉を交わせて安心した。
すると彼女が思い出したように、理久の方を見た。
「あ、ことりちゃん。海の家のかき氷、オレンジの味があったよ」
「え! 食べたい! 買いに行く!」
「じゃあ俺も行こうかな」
財布を持った理久と並んで茜も歩いていく。「荷物番お願いね!」という声に「分かった」と哲郎は答えた。やがて人混みの中に二人は消えていき、気がつけばパラソルの下は自分と神楽だけになっていた。
急に静かになり、周りの喧騒も遠ざかったような感覚になる。少し焦る哲郎は、神楽も同じく焦っているなんて気づきもしなかった。
◇◆◇
後ろを振り向きたい気持ちを一心に堪える。予想外とはいえ、いきなり二人きりにさせてしまい、少しだけ神楽に罪悪感を抱いてしまう。大丈夫かな、なんて悶々とした思考に浸っていたせいで、海の家へ着いたことにまったく気づかなかった。
「理久、大丈夫?」
「あ、うん、大丈夫!」
慌てて財布から小銭を取り出す。いつの間にか順番が来ていて茜が「オレンジのかき氷ひとつ」と注文してくれる。
「はいよオレンジね! あら、お兄さんカッコイイー!」
レジにいた女性が茜を見て、目を丸くする。そのテンションの高さは海の家独特のものだ。もう何年もここにいるのかも、と理久はぼんやり考えた。
「外国人!? イカした赤毛じゃないの!」
「いやいや、違いますよ。でも、ありがとうございます」
笑顔で受け答えする茜に気を良くしたのか、今度は理久を見て口元に手を当てる。
「まぁ彼女も一緒なのね!」
「え!? その、えっと……」
突然、矛先がこちらに向き、何を言えばいいのか分からなくなる。しかしそんな理久の肩を、茜が引き寄せて、
「そうなんですよー。可愛いから、変な奴にナンパされないか不安で」
「あら、それは大変。気をつけなきゃね! はいオレンジかき氷!」
「どうもー」
「まいどあり!」
一瞬、意識が飛んでいた理久だったが、そこで我に返り慌てて手の中の小銭を置いた。レジから離れ、かき氷を持った茜の後ろをついて行きながら、頬が熱くなるのを感じた。可愛いから、というさっきの言葉ばかりが頭を駆け巡る。加えて、心なしか触れられた肩も、ずっと熱を帯びている気がする。
目を回しそうになっているうちに、ちょうどパラソルの下にある空のベンチを茜が見つけてくれた。岩場の近くのせいか、人通りも少ない。腰掛けると、隣からかき氷を差し出された。
「向こうに戻ってたら溶けちゃうし、ここで食べたら?」
「あ……う、ん」
ーーあれ! 何をテンパってるんだ私は! ちょっと褒められたくらいで舞い上がって……!
受け取る手が無意識に震えそうになる。すると優しい声で、
「理久は可愛いよ」
心の中を見透かされ、驚きのあまりかき氷を落とすところだった。今度こそ、顔が真っ赤になった自信があった。茜の目を見ることができない。
「俺が言葉にしないだけで、いつも思ってる」
「……そ……う、なんだ」
「うん」
胸がキュウッと締め付けられる。苦しくて、器を持つ手に力が込もる。誤魔化すかのように、プラスチックのスプーンで、すくった半透明のオレンジ色を口に入れるけど、もちろん味なんてよく分からない。加えて、いくら冷たい氷を食べても、この体の熱を逃がすことはできない気がした。
しばらく無言で、周りの喧騒や波の音を聞いていたが、理久は意を決して口を開く。
「わ、私も、茜のこと、か……かっこいいって思う」
スプーンを支える指先にまで、たくさんの血が巡っているのが分かった。さざ波を覆う勢いで、心臓の音が耳元でダイレクトに鳴り響く。
チラリと横目に窺う。茜は一瞬びっくりしたようだったが、すぐにふわりと笑みを浮かべた。
「ほんと? 嬉しいなぁ」
それが本当に、心の底から、嬉しくてたまらないという声色をしていてーー思わず見惚れてしまう。しかし、上機嫌の彼が小首を傾げたことで我に返り、すぐさま目線をかき氷に落とした。
今日は真夏日のため、あっという間に、半分ほどの氷がもう溶けてしまっていた。さっさと食べよう、と僅かに先ほどよりも速くスプーンを動かす理久に「それ美味しい?」と茜が訊ねてきた。
「美味しいよ。食べてみる?」
そう返して、器を渡すために視線を上げた瞬間、すぐ目の前には茜の顔があって。
唇に柔らかい感触を覚えたのは、ほんの数秒だった。
呆気に取られているうちに、彼はまた眼前でこちらを見つめており、
「ん、ごちそうさま」
微笑んだその表情は、いつもとは少しだけ違う、魅惑的な雰囲気を纏っていて。
心臓が止まった錯覚さえ感じた。今日は何て暑い日なのだろう、と天気のせいにしたいほど、この体の熱を恨めしく思う。変わらず惚けたままの理久を、茜はまた「可愛いね」と言った。ダメだ。これ以上まともに聞いていたら、胸が焼け焦げてしまいそうだ。そんな思いがしたため、早く冷やしたい一心で、すっかり溶けたオレンジ色をグッと飲み干す。どこかの誰かさんのおかげで、殊更、甘ったるく感じる味が口いっぱいに広がった。
◇◆◇
レジャーシートに並んで座って、何も話さないまま何分が経過したのだろうか。隣を一瞥する。神楽は残されたあと少しのアイスキャンデーを齧っていて、時折こちらと視線が交わっては逸らす、という同じ動きをずっと繰り返していた。どことなくハムスターを彷彿とさせるそれが、可愛くもあり、気まずくもあった。やはり自分とは話したくないのかもしれない。さっさは少し話せたけれど、また、カップルに間違われるのが嫌なのかもしれない。
ごめん、神楽。俺はあのとき、嫌じゃなかったんだ。むしろ、俺はーー。
心の中で言ったところでどうしようもないセリフを呟いていると、突然、子供の激しい泣き声が耳をつんざいた。何事かとそちらを見る。
「おにいちゃんのばかああ」
「しょうがねぇだろ! おれのせいじゃねーし」
泣いているのは女の子で、その隣には男の子がいた。兄妹のようだが、どうやら親は近くにはいないらしい。泣き止む気配のないそれに周囲の人々が若干鬱陶しそうにしていた。
哲郎は立ち上がると、神楽に「ちょっと行ってくる」と返事も聞かずに言い残し、子どもたちのそばにしゃがみ込んだ。
「どうした、迷子か」
いきなり話しかけられたことに驚いた兄は固まってしまったが、泣きじゃくる妹の方は海を指さした。
「バケツが」
か細い声に促されて見ると、小さな黄色い何かがプカプカ浮いていた。遊んでいるうちに流されてしまったのだろう。
そう遠くはない場所を確認したのち、
「俺が取ってくる。危ないから、ここにいるんだぞ」
目を丸くした二人の頭を軽く撫でたあと、哲郎は何の躊躇いもなく海に入り、黄色い目印を頼りにひたすら泳いだ。水を掻き続け、だんだんとそれが冷たく感じてきたところで、目当てのそれを掴むことに成功する。何となしに辺りを見渡すと、なぜかスタートした場所とは程遠い位置に悠介たちを発見した。泳ぎの勝負は忘れ、遊んでいるうちにどんどん流されていったらしかった。
このバケツと一緒だな、と少し笑ってから、再び陸を目指し泳ぎ始めた。
時間はかかったが無事に砂浜に上がり、駆け寄ってきた二人の前に哲郎はバケツを差し出す。
「これで大丈夫か?」
すると二人はキラキラとした眼差しをこちらに向け、力強く頷いた。
「すっげぇ! おにいちゃん、泳ぐの得意なの!?」
「あー……まぁまぁ得意、かな」
「めちゃくちゃカッコよかった!」
やけに楽しそうな兄の隣で、バケツを受け取りながら、妹が満面の笑みで「ありがとう、ヒーローのおにいちゃん」と言った。恐らく今まで生きてきた中で初めて言われた言葉だったそれは、むず痒いようで、でも嬉しかった。
哲郎は微笑んで、
「どういたしまして。また流されないように気をつけてな」
そうしてまた二人の頭を撫でた。
きちんとお礼の言葉を述べてから走っていく二人を見送ったのち、先ほどより明るい気分でパラソルの下へと戻る。けれど、
「あ、れ……神楽……?」
そこにはただ荷物があるだけで、誰もいなかった。
◇◆◇
泣いている子どもに話しかけた哲郎は、神楽にとっては好意を通り越して、尊敬すら抱く対象だった。本人は至って当たり前の行動をしているだけなのだろうが、それは皆が皆できるわけではないことに、果たして彼は気づいているのだろうか。恐らく、答えはノーだ。でも、そんな鈍感な部分も哲郎を哲郎たらしめる一部だった。
子どもと会話したのち、彼は海にジャブジャブと入っていき、やがて沖へと泳ぎ始める。突然のそれに、何かあったのかな、と僅かに不安を感じてしまう。紛らわすように、食べ終えたアイスキャンデーの棒を弄ぶが、それだけでも落ち着かないため、ついに捨てに行こうと立ち上がった。動けば気も紛れるはずだ。
空いていた昼時も過ぎ、海岸には人が増えてきた。水着姿のカップルや家族連れの合間を縫って、ようやくゴミ箱まで辿り着く。
当たり付きでも何でもなかった木の棒を投げ入れる。ただそれだけなのに、なぜか切ない気持ちになってしまった。
戻ってきた哲郎と、自分はちゃんと話せるのかな。
「おねーさん」
突如、背後から肩に手を置かれ、驚きながら振り返る。声が似ていたから茜かと思ったけれど、違った。まったく知らない男性が二人、立っていた。
「あれ、この辺じゃ見ない顔だね。ひとりなの?」
「あ……いや、友達が」
「そうなの? 俺たちもさぁ、友達と来たんだけどはぐれちゃってー。ね、良かったら一緒に遊ばない?」
二人の向けてくる笑顔が、神楽は怖いと思った。無意識のうちに後退りするが、背後にはゴミ箱しかない。周りの人間に助けを求めようとしたが、恐怖で上手く声が出ない。
ーーやだ
沈黙を肯定と受け取ったらしいひとりが、手を伸ばしてくる。
ーーやだ、誰か、誰か
そう思いつつ、頭に浮かぶ人物はひとりだけだった。だから、
「ーー神楽ッ!!」
その声がしたとき、一瞬のうちに、まるで魔法にかけられたかのような安心感を強く覚えたのだ。
◇◆◇
混雑してきた砂浜を歩き回りながら、哲郎は必死に人の合間へ目を凝らしていた。クリーム色のパーカー。薄い茶色で、ほんのちょっと癖のある短い髪。しかし、いくら掻き分けてもその姿は現れない。
放送で呼び出してもらう? いやそれより、何かに巻き込まれた可能性だってないわけじゃない。悪い方向に想像が偏る中、金髪に派手な水着といういかにも危なそうな男二人を視界の端に捉えた。
『特に、ガラの悪い連中とか』
『海に変な奴らってのは付き物ですからね』
雅人と凪沙の声が、脳内に蘇る。
彼らは誰かを囲んでいるように見えた。
「神楽ッ!!」
そう叫んだのはほとんど無意識だった。だから、彼らが振り返ったときの僅かな隙間から、彼女と目が合ったとき、ひどくホッとした。ひとまず、海岸にいてくれて良かった。
真っ直ぐにそちらへ進むと、二人のうちのひとりに睨まれる。
「なに、彼氏?」
刹那、先日の光景がフラッシュバックした。思わず立ち止まってしまう。また、その質問。どう答えるのが正解だ? 何が自分と神楽のためになる? 一瞬の迷いうちに、様々な思考が頭を駆け巡りーーそうして映し出されたのは、神楽の笑顔だった。
『ヒーローのおにいちゃん』
くすぐったい響きの言葉も背中を押してくれる。グッと体に力を込めた。
ーー大丈夫だ、いける。
哲郎は意を決して、男を睨み返した。
「そうだけど」
凪沙の言った威圧感が出るよう、なるべく強い口調で言い切る。
「その子の彼氏だけど。俺の彼女に何か用でもあるのか」
驚きや気まずさからか、男たちはたじろいだ。その隙を見て、間に入り込み、神楽を背後に隠す。何か言いたそうにする二人だったが、負けじとこちらも見下ろしながら睨みつけてやる。よく悠介がしている顰め面を思い出しながらやっているうちに、男たちは忌々しげに舌打ちを残し、渋々どこかへ去っていった。
完璧に人混みに紛れて見えなくなるまで待っていたら、背後でパーカーの裾を掴まれた。覗くと、俯いた神楽が微かに体を震わせていた。
どうするべきか考えている脳内に「ごめんね」という小さな声が流れてくる。哲郎はすぐに言葉を返した。
「謝らないでくれ、俺は何ともない」
迷った末、行き場のない手のひらを、彼女の頭に優しく置いた。
「神楽の方こそ、怖い思いしたよな。ごめんな。もう大丈夫だから。ほら、誰もいないぞ」
だから大丈夫。
俺がいるから、大丈夫。
俺が、君を守るよ。今日だけじゃなくて、これから先、君が困ったときはいつだって。そう言えたら、どれだけ良いか。でも今はまだ言えないから、胸にしまっておく。
ひたすらにフォローし続ければ、彼女は涙目で頷き「ありがとう」と微笑んだ。それに安心しつつ、さっきの自分の言葉を思い出して、哲郎は僅かな罪悪感を抱いた。
「あと、彼氏とか言って、その……ごめん」
すると、神楽が勢いよく首を横に振り「違う!」と叫んだ。こちらが圧倒されるくらいだった。
「そんなの、謝ることじゃないよ。今も、この前のやつだって! 全然、嫌なんかじゃない! 哲郎なら、私ーー」
そこで、つい普段はしない名前呼びをしたことに気づいたのか、押し黙ってしまう。哲郎は言われた内容をゆっくり噛み締めながら、あぁそうかと大きな安堵に包まれる。
彼女の言葉に、行動に、感情を振り回される自分が心の中にはいる。きっとこれが恋だ。
俺の見つけた『愛しい』気持ちだ。
「……嫌じゃない、俺も。恋人みたいに思われることも、名前で呼ばれるのも」
思わずはにかみながらそう返すと、神楽は真っ赤な顔を隠すようにまた俯いてしまった。可愛い、という感想は敢えて口には出さないでおいた。言ったら、神楽は恥ずかしがって、この場から逃げ出してしまうかもしれない。もういなくなられるのは御免だ。
だから、せめてもの代わりに、手を差し出した。
「戻ろうか」
何の飾り気もない一言に、しかし彼女は頷いて、その手を取ってくれた。触れ合ったところから生まれる熱は、どこか心地よいものだった。
◇◆◇
「ーーで、そのあとどうしたんだよ」
「普通に、遊んだ。海で」
「なんで!? そこは告れよ!」
「うわ、松野先輩の声めっちゃ響く……」
湯けむりの向こうで顔を顰める凪沙がそう言って、気だるげに息を吐く。
夕方より少し早い時間に海から引き上げた一同は、ホテルの大浴場に来ていた。微妙な時間帯のおかげか、客はおらず、ほとんど貸切状態だ。
背後で頭や体を洗っている茜が「悠介声デカイからなぁ」とケラケラ笑う。それに対して、言われた本人は低い声色で「悪かったな」と返す。
湯に浸かりながら、哲郎が困ったように俯いて、
「言うタイミングが分からないんだ。いつが良いんだろう」
「それはもうお前次第だろ。まさか、俺たちが合図とか出すわけにはいかないし」
「……出してくれないのか?」
「出さねーよ! つーか普通に考えて、出すわけないだろ!? ……そ、そんな子犬みたいな目したって、協力しないからな!」
「俺たち、友達なのにか……?」
「うぐッ……!」
たじろぐ悠介と濡れた瞳で彼を見つめる哲郎の間に「こら哲郎ダメでしょー」と、茜が入り込んできた。
「自分で全部やらなきゃ意味ないじゃん。それに、悠介は友達っていう単語に弱いから、さすがに可哀想だよ」
「そうか……ごめん」
「べ、別に弱くねーし」
「よく言いますよ、動揺したくせに。先輩、もし女に『彼女のお願いだから聞いてくれるでしょ?』って迫られたら断れないタイプですよね」
「おい、勝手に人の分析すんな」
「あぁー、ちょっと分かるかも」
「同意してんじゃねぇ!」
全員が湯に浸かった状態になったところで、ふと茜が問いかけた。
「ていうかさ、タイミングもそうだけど、言う内容の方が大事じゃない?」
「言われてみればそうですね。ちなみに和多先輩、何て言うつもりなんですか。告白」
一瞬にして体を強張らせた哲郎を前に、三人は確信する。本当に何にも考えないで行く気だったんだ、と。
哲郎の『考えるよりも先に行動』は今に始まったことではないが、今回ばかりはそれが逆に不安要素にも思えてくる。
しばらく考え込む素振りを見せたのち、鋭い眼差しで彼は口を開いた。
「好きだ、神楽」
おぉ、と三人の期待が急上昇したところで、
「俺と同じ墓に入ってくれ」
「重いわ!!」
一気に落とされる。
思わずツッコミを入れた悠介と、大笑いし始める茜、さらに若干ドン引きしたような表情の凪沙に、哲郎は首を傾げた。
「前にドラマで聞いた言葉なんだが、ダメか?」
「いや、ダメっていうか……俺が女だったら正直、怖いです」
「それを選択したセンスはともかく、ドラマのセリフじゃなくてお前の言葉で言えっつーの!」
「俺は好きだなあ。死ぬまで一緒、死んでも一緒、みたいな」
「聞いたか哲郎、茜が言うと本気でやりそうで怖いだろ」
「あぁ確かに……このセリフは俺じゃなくて、茜に似合うな」
「えぇ……? 何これ、褒められてるの? そんな微笑みながら言われても……でもちょっと嬉しいかも。今度、理久に言ってみようかな」
そのとき、凪沙の脳内には『言葉の意味は分かっても、なぜ茜が急にそんなことを言い出したのか理解できずに困惑する理久』が容易に想像できたのだが、敢えて口にはしなかった。代わりに、
「あの、そもそもそのセリフって、告白じゃなくてプロポーズに近いんじゃないですか」
後輩の最もな指摘に、先輩たちはピタリと止まり、やがて口を揃えて「ーー確かに」と呟いたのだった。
◇◆◇
「神楽先輩、いい感じになれて良かったですね!」
一方、時を同じくして男湯の隣、女湯には女子三人もいた。やはり人は少なく、広い大浴場に響いた真城の言葉に、神楽が恥ずかしそうにする。
「哲郎先輩と結構二人きりでいましたよね?」
「ち、ちょっと話しただけだよ」
「でも嬉しいんじゃないの?」
理久のニヤついた笑みに、今度こそ顔を真っ赤にさせる。はたから見れば逆上せたようにも思えたが、まだ湯に入ってから五分も経っていなかった。
そんな彼女の顔を覗き込みながら、真城は楽しそうに、
「で、告白とかしないんですか?」
「こッ……!?」
目を見開いて驚いたのち、そんなことはできないと言わんばかりに首を振るけれど、理久には苦笑いを浮かべられる。
「いや、ビビり過ぎだから。何も戦場に行くわけじゃないんだし」
「押せ押せ先輩! ゴーゴー!」
しかし、いくら励ましても頷かない彼女に、閃いた真城がポンと手を打った。
「あ、なら練習しましょう。告白の」
「え、む、無理、無理……!」
「大丈夫ですよ。ほら、理久先輩を、哲郎先輩だと思って」
「私でいいのか……? 性別とか、何もかも哲郎とは違うけど」
半ば無理やり、神楽を苦笑いの理久の方へ向かせる。「はい、よーいスタート!」という元気な後輩の合図で、いよいよパニック度が限界値にまで達したらしい神楽は、一瞬の思考の末、ほとんどやけくそのような勢いで叫んだ。
「ーーま、毎日お味噌汁を作らせてください!」
「予想の斜め上を行く告白だな!? 初めて聞いたよ!」
「可愛い! 採用! 本番もそれで行きましょう」
「いや採用しちゃダメだから! まぁ可愛いけども!」
続けて理久は言うが、
「そもそも『好き』って言ってないよ。一番大事なところ抜けちゃってるよ」
「うぅ……恥ずかしくて言えない……」
「ーーあれ、そういえば」
ふと思い出したかのように、真城が理久を見た。
「理久先輩と茜先輩の告白はどうだったんですか? あたし、聞いたことないんですけど」
言われた瞬間、硬直した理久に気づくことなく、神楽も「私も知らない」と呟き「ていうか、理久先輩って茜先輩のことあんまり話さなくなった気がーー」なんて、真城が言いかけたころには、さっきまで理久がいた場所には誰もいなかった。ただ、その代わりに、脱衣所への扉が閉まる音がやけに響いた。
「あッ逃げた!」
その後、着替えながらいくら問いただしても「嫌だ」「話したくない」「小っ恥ずかしい」の三点張りだった理久だが、ついに真城と神楽の質問攻めに堪えたのか、一息ついてから、
「分かった、降参。言うよ。……告白してくれた茜の方、だけど私も言いかけたことあるから、うーん……両方、になるのかな」
しかし、言い終えるや否や、なぜか彼女は少しだけ疲れた笑みを浮かべ、静かな口調で呟いた。
「頼むから、これ教えたの私だっていうことは内緒にしてね」
「何でですか?」
「絶ッ対調子に乗るから、茜が」
その答えに二人は妙に納得してしまった。言葉通りの光景が易々と想像できたからである。だから嫌がってたのか、と理解はしたが、やはりそれでも僅かに照れている理久を見れたのは、同じ女子として嬉しかった。
ホテルでの揃いの浴衣に着替え、脱衣所を後にする。三人が廊下を歩いていると、どこからか、カコン、カコン、という規則正しく鳴る音が聞こえてきた。音のする部屋を覗く。プレイルーム、と書かれた表示があるそこには、同じく浴衣姿の男子たちが卓球に勤しんでいた。
「おりゃッ!」
茜の掛け声とともに跳ね返された球は、台へ鋭くバウンドし、悠介の持っていたラケットには当たることなく、床に落ちた。
「あッ、畜生……!」
「ほらほら悠介ー、もっと本気で来なよー」
「腹立つ顔しやがってこの野郎……!」
向かいに立つドヤ顔に、引きつった笑みでサーブを打ち込む。再度、白熱した戦いが繰り広げられるのを横目に、理久たちも部屋の中へと入っていった。
自販機の横にあるベンチには、こちらに気づいた凪沙と哲郎がいた。
「ここにいたんだ」
「夕飯までまだ時間があるから遊ぶって、出雲先輩が聞かなくて」
「あはは……なんか、ごめん」
「まるで大っきな子どもみたいですね」
「これでも昔よりは成長してるんだけどね……」
そうこう話しているうちに勝負がついたようで、疲れ切った表情の悠介がこちらにやってくる。ベンチに座り「アイツは化け物か」と吐き捨てた。
「もう八回も相手してやったのに、全然バテてねぇ」
「先輩が体力無いだけじゃないですか」
「俺はインドア派なんだよ」
「しょうがないですね……次どうします。俺ももう限界なんですけど」
すでに四連戦を乗り越えた凪沙の言葉に、悠介がチラリと隣を見た。
「ーー哲郎、行ってこい」
「え」
「体育、得意だろ。それに、まだ一回も茜の相手してねーじゃねぇか。子どものお守りは全員で公平にやるべきだ」
「そうだけど……卓球は、ちょっと」
「大丈夫だって。それに」
そこで、コッソリと耳元に口を寄せられて、
「御崎に、カッコいいところ見せるチャンスだぞ」
少しだけ驚いたように見るが「だから行ってこい」と背中を叩かれた。思わず一歩踏み出したものの、戸惑いでいっぱいのままの心情で振り返ってしまう。しかし視線だけで、早く行けと強く促される。
彼なりの優しさなのだろうか。それなら無下に逆らうのも気が引けた。恐る恐るといった調子で、卓球台のそばに立った哲郎に、茜は口の端を上げた。
「やっと来たか。俺、哲郎とは一回、本気で勝負してみたかったんだよね」
楽しそうな茜とは裏腹に、哲郎は少し悲しそうな顔と声で、
「……友情が壊れない程度に、頼む」
「そ、そんなにしないよ! もしかして俺って極悪非道な人間に見えるの!?」
「いや、でも本当に、俺は、卓球だけは苦手で」
力加減が難しいんだ、という不安によって目線を落とすより早く、ラケットを投げ渡される。茜が言った。
「じゃあさ、ご褒美つけようよ。そうだなぁ。あ、勝った方は、何か自分の願いをひとつ叶える権利を得るとかどう?」
「願い……」
「そう。この方がモチベーション上がるでしょ? ちなみに俺は、理久に言いたいこと言う」
笑顔でそんな願望を口にされる。一方、急に名前を出された本人は、頭の上にハテナマークを浮かべる他なかった。「言いたいことって、私、何かしたかな」と首を傾げる理久とは対照的に、悠介と凪沙は複雑そうな表情を露わにする。
「マジであれを言うつもりみたいですね」
「だな。こう言っちゃあ何だが、お前の彼氏って単細胞なところあるよな」
「え、ちょ、何!? 私本当に何言われるの!? 怖いんだけど!」
盛り上がる外野を一瞥する。「先輩たち頑張ってくださーい!」と笑う真城の隣にいる神楽と、ほんの一瞬だけ目線が合った。特に笑顔を向けるでもなく、無意識のうちに逸らしてしまったが、おかげで願いは決まった。
箱の中から球を拾い上げて、真っ直ぐに茜を見据える。
「哲郎はどうすんの、お願い事」
「勝ったら、頑張る」
あまりにも漠然としたそれに、女子陣は不思議そうにする。しかし、哲郎は至って大真面目に続けた。
「頑張って、勇気出す」
「……そっか」
茜はそう短く返して、優しい微笑みを浮かべた。まるで、こちらの気持ちを痛いほど汲み取ってくれたかのように。けれど次の瞬間には、さっきまでの挑戦的な顔つきに戻っていた。
「でも、俺だって負けないから。ーー最初に一点取った方が勝ちでいいよね」
黙って頷いた哲郎からサーブだ。ラケットを持つ手に自然と力が込もる。オレンジ色の球を宙に放り上げーー思いっきり打つ。その力加減には外野にいたメンバーも唖然となり、いきなりの猛スピードはさすがに予想していなかったらしい茜も驚きつつ、何とか返す。しかし、
「ッしまった!」
手元の不安定さから、球は大きく弧を描いていく。構えた哲郎のラケットへ、吸い込まれるように飛んだ球が弾かれる。先ほどよりも勢いを増したそれは、すばやく台の上で跳ね上がり、そのままーー、
「あだッ」
茜の眉間に、突っ込んだ。
驚いた哲郎と外野が口を開けると同時に、若干芝居じみた動きで彼は後ろへ倒れ込む。僅かな衝撃音も、床に跳ねる球の音も、しばらくの沈黙の後にやがて消え去った。
「ーーあ、茜ッ!」
真っ先に駆け寄った理久は、本気で心配している様子だ。比べて、神楽以外の外野の三人は笑いを堪えるのに必死なようで、肩を震わせてばかりいる。
しばし呆気に取られていると、低い位置から名前を呼ばれた。「てつろー」
「強いなぁ、負けたよ」
そっと覗き込んだ彼の表情は穏やかだった。さらに「頑張って、勇気出してね」なんて言ってくれるものだから、思わず胸が熱くなる。湧き上がるそれに突き動かされるまま、ラケットを台の上に置く。ベンチに近づき、哲郎は彼女の手を取った。
「神楽、話がある」
ポカンとした反応にも構わず、その手を引いて歩き出す。ようやく今の状況を理解したらしい神楽は、何に対して言葉を発すればいいのか分からず、ただされるがままに着いて行った。
そうして二人の姿が廊下へ消えたのち、寝転んだ体勢の茜はまた「がんばれ」と小声で呟いた。誰に聞こえたわけでもないそれはゆっくり、宙に溶けていく。改めて意識を戻すと、眉を下げた理久と目が合った。滅多に見られないそれに、口元が緩んでしまう。
「なあにその顔。大袈裟だなぁ、理久は」
「だって急に倒れたから……茜、大丈夫か? 痛くないか?」
「全然平気。ほぼ、わざとみたいなものだし」
「へ?」
「でもあのスピードは凄かったー。力加減が難しいってそういうことかよ! って思っちゃったよね」
よっこいしょ、と起き上がった茜に目を丸くする。理解が追いつかず、何も言えなくなった理久に、続けて彼は、
「まぁ、お膳立てみたいなものだから」
ただ短く答えた。それでも分からない理久には、しかしもっと頭を悩ませるものがあった。恐る恐る口にしてみる。
「あのさ、さっきの『私に言いたいこと』って……何?」
すると背後から、悠介の「聞いても混乱するだけだぞ」という呆れた声がした。少し迷うが、でも気になる。目線を泳がせる理久に、茜は苦笑して、
「いや、本当に大したことじゃないんだよ。ただ……いろんな話の流れで『お前が好きだ、だから一緒の墓に入ってくれ』って理久に言ってみたかっただけ。くだらないでしょ?」
いろんな話の流れ、も気になったけれど、それより、冗談っぽく流したわりには、目の前の茜が少し寂しげに見えたことの方が気掛かりだった。だからしばらく考えたあと、理久はゆっくりと口を開いた。
「……お墓は、ちょっとよく分かんない、けど。でも私は、茜と一緒に長生きしたいな。つまり……あの、私も、茜とはなるべく長い間、一緒にいたいなぁってことを言いたくて」
その言葉に、今度は茜が目を丸くさせる番だった。「だから、全部が全部、くだらなくなんてないよ」と微笑んだ理久に、何も返事がないまま数秒が経ちーーやがて、ただ黙って、抱き寄せられた。
顔だけじゃなくて、全身が燃えるように熱を帯びる。肩に腕が回ってくれば、いとも簡単に茜の胸元へ収まってしまう自分の体。いつの間に、彼はこんなに大きくなってしまったのだろう。けれど、優しく力を込めてくれるところは、昔からちっとも変わらない。
「……うん、そうだね」
耳元で囁かれる声が、いつもより少しだけ低い。身体中の血が沸騰しているような気がした。
「俺も、一緒にいたい」
恥ずかしさと、嬉しさと、愛おしい気持ちが一気に溢れ出てきて、どうすればいいか分からなくなる。とりあえず、真っ赤に染まっているであろう顔だけは見られたくなくて俯くと、茜はさらに体を引き寄せてきた。
「ちょ……も、もういいから、分かったから、離れて……!」
「え、もっとして欲しいのかと思った」
「違います!」
「遠慮しなくていいのに……おりゃッ」
掛け声とともに、両腕で抱き締められた体勢になってしまう。理久の額はほとんど、茜の胸元にくっ付いていた。そのあまりの近さに、向こうの心臓の音も聞こえ、それなら自分のものも聞かれてしまうのでは、と余計に心拍数が上がった。じんわりと感じる体温、着ている浴衣の知らない香り。すぐそばにある何もかもに、目を回しそうだ。ジタバタもがいても、抜け出せない。「え、な、は!?」とパニックに陥る理久の頭の上で、楽しそうに笑う茜の声がした。
「わッ、笑うな! というか、真城とかそこにいるんだろ!? 見てないで助けーー」
「よぉし、凪沙と小峰。アイツらは放っておいて、俺がアイス買ってやるからなー。こっちに来ーい」
「は!? ちょっと悠介!」
「わあーい! 先輩の奢りー」
「一番高いの買ってもらおう」
「あぁぁ待って! 行かないで真し」
ろ、を言い終える前に、足音は去っていった。空気を読んだのか、はたまた呆れ切ったのか不明な悠介の突発的行動。そのおかげで、わざわざ後ろを見なくても、どうしたって分かってしまう。
今、このプレイルームには、理久と茜しかいない。
急に静まり返る室内。冷や汗を流しているうちに、回されていた腕の力が弱まったため、この隙にと言わんばかりに少し距離をとる。しかし、今度は「下手に動いたらどうなるか分からない」という意味で顔を上げられなくなってしまった理久に、目の前の男はなぜか部屋同様に静かな口調で言う。
「皆いなくなっちゃった」
「……そう、ですね」
「りーく」
呼びつつ、行き場のない手の上にそっと自分の手を重ねてくる。じわじわと温もりが生み出されていく。
「俺、理久の顔が見たいなぁ」
殊更、優しい声色をしておきながら、逆らえば何をされるか予想できない危険な雰囲気も纏っているお願い。早鐘を打つ心臓を必死に抑え込み、理久はチラリと目線を上げる。
お互いのそれが絡み合った瞬間、茜は目尻を下げて微笑んだ。甘くて、溶けてしまいそうな、そんな何かを前にしていると錯覚する。また顔が熱くなった。節くれだった手が頬に触れて、熱は止まることを知らない。
「……ね、昼間の続き、していい?」
「ッ……!?」
内緒話をするときの、潜めた声。でも、こちらを見つめる眼差しには悪戯っぽさなんて微塵もなく、むしろ鬼気迫るものさえって、
「何も言わないなら、しちゃうよ。キス」
本気だと分かった。だからこそ、震えそうな体を叱咤した理久は腕に力を込めると、近づいてきた茜の、
「ーーは、離れてって言っただろおぉぉッ!!」
「うぐッ!」
胸を思いっきり突き飛ばした。
再び背後へ倒れ込む茜。しかし、思った以上に受けた衝撃が大きかったのか、胸に手を当てながら数度、噎せた。その後、息も絶え絶えに、
「し……ッ心臓は、反則、でしょ……。ビビった……」
だが、苦しそうな恋人を眼前にしながらも、真っ赤な顔をした理久の態度は変わらない。
「こ、こんな、人がいつ来るか分からない場所で、な、なな何を考えてるんだ!」
「えぇ……だって理久が可愛いから」
「可愛いって言えば何でも許されると思うな!」
「うわぁ、だいぶパニックになってますねー」
苦笑しつつ起き上がり、茜は落ち着かせるように頭を撫でてくれた。「ごめんね、もうしないよ」という言葉には若干の不信感を抱くが、別に理久だってもの凄く怒っているわけではないのだ。ただ、場所をわきまえてほしいことを伝えたかっただけで。
でも、ストレートにそう言えば「じゃあ、ちゃんとした場所ならいいんだよね」などと返されそうな気がしたので、口にはしないでおく。
膨れっ面で黙り込んでいれば、茜が困った口調で「機嫌直してー」と言ってくる。わざとやっている、なんてことくらい恐らくお見通しなのだろう。それでも優しくしてくれるので、つい甘えてしまう。
それならば、今だけは、もう少しワガママでいたいと、温かな手のひらに身を委ねた。
◇◆◇
勢いのまま出て来てしまった。さて、どうしたものか。
後ろ手に神楽を引き連れながら、哲郎は心の中でそんなことを考えた。そうこう歩いているうちに、ホテルのエントランスに着く。夜に近づき、夕食を提供してくれるレストランが開店したせいか、まったく人がいなかった。待ち合う客が座る用のソファに、腰を下ろす。神楽も少しだけ距離を置いたものの、隣に座ってくれた。
しばらく沈黙が流れる。哲郎は、自分で宣言したのだから、と腹をくくるつもりで自らを鼓舞し、ゆっくり口を開く。
「急に連れてきて、ごめん。俺、神楽に言いたいことが、あるんだ」
反応を待つ。神楽は黙って、頷いてくれた。膝の上に置かれた彼女の手は、どこか震えているようにも見えた。
そのとき、もし今神楽が何かを不安に思っているのなら、他の誰でもない自分が、どうにかしてあげたいと感じた。そんな心情もあってか、続きの言葉は意外にもすんなりと声に出すことができた。
「今日、楽しかった」
人は言葉に表すことで、初めてそこにあるものを実感する。今、哲郎が感じたものは、明るく、自然と溢れる笑みだった。
「海で泳いだり、砂の城作ったり、すごく楽しかった。……でも、俺は、神楽と一緒に砂浜に座ったりしてたときが一番、幸せな気持ちになれた」
彼女は下を向いたまま、何も言わない。でも微かに、また頷いてくれる。
ちゃんと、君の言葉を受け止めてるよって、言ってくれているみたいに。
だから自分は、今日も言葉を描くことができる。
「この前の、二人で出掛けたのも、本当に楽しかった。神楽と一緒にいると、すごく幸せになれるんだ。ずっとこのままがいいって、そんな夢を見る」
心の底から安堵して、いろんな色の、形の、言葉をたくさんたくさん描けるんだ。
そうして出来上がったものを、一番に、君に見せたいから。
「神楽のことが、好きなんだ」
訪れた静寂の中、空調の音だけが僅かに聞こえ続ける。時間にしてほんの数十秒にも満たないそれを、永遠とも感じられるのは多分、心にあったものを曝け出したことによる反動なのだろう。
満足したようで、でもどこか寂しさの色も含んだ感情に浸っていたら、ポタリという小さな音を耳が拾った。思わず隣を見る。
俯いた彼女の膝で固く握り締められた拳。その上に、いくつもの水玉が落ちていく。泣いているのだと気づいたときには、神楽が言葉を紡ぎ出していた。
「私も、言いたいこと、ある」
涙に滲んだ声は、必死で立ち上がろうとしているようにも思えた。
「楽しかったよ、今日も、この前も。だから、また海に来たい。二人で」
きっとそこで、真っ直ぐに立てる君は強い。
色鮮やかなこの世界で、一際輝き、こちらの視線も心も奪っていく。
「好きです。私は、哲郎が、好き」
あぁ、すごいな。ただでさえ極彩色の世界は美しくて、永遠と描き続けたいのに、そこへ君がやって来てしまったなら、一体どうすればいいのか分からなくなる。
でも、やっぱり、自分には筆を運ぶことしかできないから。
声に出そうとした途端、自然と笑みが溢れる。
「……うん、行こう。海も、もっといろんなところにも。それで今度は、ちゃんと『恋人同士』ですって言おう」
目の前にある景色、そばにある大切なもの。それらを切り取って、描くことが自分の生き甲斐だ。今日からは、そこに君も入るのかな。
君と俺が、並んで笑っているのかな。
もしそうだとしたら、その絵には『幸福』と名付けよう。
きっとこの世界に一枚しかない、大傑作になるはずだ。
ようやくこちらを見てくれた神楽の目には、まだ涙が溜まっている。今にも溢れ出しそうなそれを、指の腹で拭ってあげたら、くすぐったそうに笑ってくれた。
しばらく座っているうちに、哲郎の端末に電話がかかってきた。悠介だ。もうレストランに行くから戻ってくるように、と待ち合わせの場所を告げられる。了承してから、神楽にもその旨を伝え、揃ってソファから立ち上がる。しかし、受付の前に出たとき、そこに立つ男性を目にした哲郎は先ほどまでの明るい気持ちを忘れかけた。その人物はこちらに気づくと、花が咲いたかのように笑い、駆け寄ってくる。
「神楽! お兄ちゃんが帰ってきたよー!」
今にも抱きついて、頬ずりせんばかりの勢いである。上機嫌な様子で、仕事のことを話したり、今日あったことを聞いてくる兄に、妹は初め笑顔で接していたが、あまりにもそれが長かったからなのか、ついに「恥ずかしいからもうやめて」ピシャリと言い放った。一瞬、停止した雅人は、若干しょんぼりしつつも「ごめん……でも怒ってる神楽も可愛いよ!」相変わらずの調子で、妹は小さく溜め息さえ吐く。
そんな雅人が急に口をつぐみ、神楽と哲郎を交互に何度か見る。首を傾げながら、
「……二人とも、何かあった?」
思わず体が強張った。さすが兄の観察眼。この人の前で隠し事をするのはやはり難しい。緊張感が高まっていく。さっきのことを言わなければ。けれど、そう思うだけで、渇いた口からは一向に言葉が出てこない。不審そうに目を細めた雅人に、心臓がドクリと脈打つ。
左手に温もりを感じたのは、そのときだった。
「お兄ちゃん、私、哲郎と付き合うことになったから」
言いながら手を繋いだ神楽に、雅人も哲郎までもが目を見開いた。彼女は真剣な眼差しで続ける。
「小さい頃のこともあって、お兄ちゃんが私を心配してくれてるのは知ってるよ。ありがとう。でも、私もう平気だから」
チラリとこちらを一瞥したのち、柔らかく微笑む。
「哲郎となら、平気。何にも怖くないから」
そう言い切ってくれて、心の中を驚きと嬉しさが混ざり合う。繋いだ手に力を込めた。
意を決して、哲郎も雅人を見据えた。
「どうか、よろしくお願いします」
頭を下げて反応を待つ。心臓が破裂しそうだ。ピカピカに磨かれた床と睨めっこしていると、頭上から「顔を上げなさい」と声がした。
苦笑した顔つきの雅人がそこにはいた。
「いやー、まさか本当にこうなるとは」
「ーーえ?」
意味深な言葉に、哲郎と神楽は同じ反応を露わにする。一方、雅人は困っているようで、どこか楽しげだ。
「いや、ね? 実は、和多くんと車の中で話したときから、この子が神楽の彼氏だったらなぁとは考えていたんだよ。真面目で、思いやりがあって、何より、僕が今まで見てきた男の中で、とりわけ神楽を大切に思ってくれていたからね」
彼はおもむろに端末を取り出し、こちらに差し出してくる。覗き込むと、見たことのないページが表示されている。たくさんのスーツ姿の男性の写真と、その名前。どれだけスクロールしてもそれしかない。
頭の上にハテナマークを浮かべる。
「これね、神楽とお見合いしたいって言ってきた人たち、全員をリストアップしたもの」
「え!?」
驚きに声を上げたのは神楽も同じだった。そこで初めて、彼女も知らなかったのだと分かった。
「うちは会社をいくつか経営しているから、相手はその伝がほとんどなんだけどね。お得意様の息子とか。半分くらいの人たちとは、僕も話をしてきたよ」
「……い、いつの間に、こんな……」
もはや絶句に近い状態の神楽に、雅人は困ったように、
「言っておくけど僕は反対したんだよ? 神楽が良い人をちゃんと連れてくるまで待とうって。でも、父さんが聞かなくてさぁ」
「パパが?」
「そうそう。父さんってば『大学なんて遠い場所で神楽に何かあったらどうする!? 放課後の音楽室に連れ込まれたりでもしたら大変だ! 即刻、彼氏かボディーガードをつけろ!』とか言い出して」
放課後の音楽室、というどこかで聞いた話の断片に、哲郎は悠介を思い浮かべた。一方、隣では神楽が恥ずかしくてたまらないと言わんばかりに、
「そッ、そんなことあるわけないじゃない! 生徒のほとんどは女の子で、少なくとも私がいるクラスには男の子が一人もいないのに!」
「僕じゃなくて父さんに言ってくれよ……。まぁ、内緒にしてくれとは頼まれたけど、あの人も大概、過保護だよなぁ」
でも、と雅人はこちらを見た。
「こうして無事に、和多くんが彼氏になってくれたわけだし、見合いの話は全部断るとしよう! ーー正直、この中には僕も九条さんも気に入った男は一人もいなかったし」
後半部分をやけに低い声で言い切る雅人。彼も父親同様の過保護であることは、何か怖いので口にしないでおく。娘の見合いのはずが、その家族と家政婦の面接を通過できない限り、話すことさえ許されない御崎家の制度には、哲郎も少しばかり同情するほかなかった。
顔を両手で覆い隠しながら神楽が「変な家でごめんね……」と呟く。哲郎は黙って首を横に振りながら、心中で言う。いいんだ、別に構わない、けど、さすがに俺でも分かるくらいーーちょっと変わった家族だな。それと同時に、分かるよ。
「でも、我が子を大切に思う、とても良い家族だと思うぞ」
九条さんも含めてな、そう小声で返す。目が合った神楽に微笑みかけると、安心したように口元を緩ませてくれた。すると手招きされたので、中腰になると耳元で内緒話みたいに囁かれた。
「ありがとう、哲郎」
横目で見る、へらりと笑った顔はすごく可愛かった。幸せな気分に浸っていたら、唐突に雅人が、
「で、婚約はいつするの?」
なんて言い放ったものだから、面食らって今度こそ声も出なくなる。氷漬けにされた気分だ。目線を泳がせ、体を強張らせ、明らかに動揺の様子を露わにする哲郎を、神楽が守るように言う。
「やめてよお兄ちゃん! 今日、お付き合いするって言ったのに、こ、婚約なんて早いから」
「そうなのかい? てっきり、結婚を前提にしたものだとばかり思っていたのだが」
「ッ……!?」
「て、哲郎? しっかりして! もうお兄ちゃん何も言わないで! 干渉してこないで!」
「え? な、何かよく分からないけど、ごめんね……?」
ますます挙動不審になる哲郎に、神楽が必死に声をかけ続ける。
一方、三人のいるフロントから少し離れた場所には、そんな光景をこっそり眺めている五人がいた。
「先輩たち、良かったですね」
チョコレート味のアイスを片手に真城が小声でそう言った。同意を示すように頷く周囲。
「……でも、この先苦労しそうだな。いろいろと」
悠介の一言にも周囲はやはり頷くしかなかった。
しかし同時に、多少の受難があっても、たくさんの幸福に恵まれた二人なら大丈夫だと、そう感じるのだ。それは全員同じのようで、
「あとでお祝い、しなきゃね」
理久の提案にも「賛成」とお互いに微笑み合った。
◇◆◇
太陽が輝く八月某日。今日も今日とて、最高気温が更新されるという旨を話すアナウンサーの声を耳にしつつ、男性はコーヒーを一口啜る。その味に思わず感嘆の溜息がこぼれた。
「九条さん、これは美味いな。前のものより好みかもしれん」
「それは良かったです。また買ってきますね」
「ありがとう」
キッチンへ告げたのち、ソファーに深く身を沈めた。ふかふかの感触に、程よく冷房の効いた室内、手には美味しいコーヒー。たまの休日に味わえる贅沢を満喫し、男性は上機嫌だった。
そこへ突然、廊下から慌ただしい足音が近づいてきたと思えば、勢いよくリビングの扉が開けられる。
「九条さん! 私の携帯知らない!?」
「テーブルの上にありますよ。もう神楽さんったら、さっきご自分で置いていらしたじゃないですか」
「え」
入ってきたのは男性の娘だった。珍しくそそっかしい一面を見せてしまった彼女は、僅かに赤い顔を俯かせながら、テーブルの上の端末を手に取り、カバンへ仕舞い込む。
お気に入りのワンピースを着ている娘に、微笑みを浮かべながら問いかけた。
「出掛けるのか?」
「うん。晩ご飯の前には帰ってくるね」
「分かった。気をつけて行くんだよ。ハンカチとティッシュと防犯ブザーは持ったのか?」
「もう小学生じゃないんだからやめてよ……」
「ははは、ごめんね。ちなみに、誰と出掛けるんだい?」
「彼氏」
思わず飲んでいたコーヒーで噎せた。しばし咳き込んだのちに「え!? そ、そんな話聞いてないんだが!?」と娘を見るが、
「だって言ってないもん。じゃあ行ってきまーす」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
呆気なく一蹴される。家政婦の見送りを受けて、無情にも扉が閉まる。
間も無く、入れ違いで現れたのは息子だった。
「おー、神楽はデートかぁ。いいねぇ、青春だねぇ」
「まッ、雅人は知ってるのか!?」
「何が」
「神楽の、か、彼氏に決まってるだろ!」
「そりゃ知ってるけど……あぁ、もしかして父さん、今知ったの?」
ガックリと肩を落とす。確かに自分は、娘が心配だから彼氏かボディーガードがいたら良いとは言ったが、それは紛れもない事実なのだが、しかしーー
「どうして私には言ってくれなかったんだ神楽……!」
「面倒だからじゃないの、父さんのそういうところが」
自分のことは棚に上げておきながらそう言う息子に、父は鬼の形相で迫る。
「どんな男なんだ! 年上か!? 同じ大学の先輩か!? まさか、放課後の音楽室で知り合ったとか……!」
「あー、はいはい。そのシチュエーションはありえないって神楽が言ってたよ。和多くんのことは、今から説明してあげるから。その前に、僕もコーヒー飲もうっと」
「なら私がご用意を」
「いや、自分でやるよ。ありがとう、九条さん」
「和多くん!? 和多くんって名前なのか!?」
「もう騒がしいわね……一体どうしたの?」
自室から出てきた妻も交えてこの後、御崎家では急遽『和多くん』に関する説明会が夕方まで行われた。
◇◆◇
白は、父の好きな色だ。建築のデザインを仕事にしている父は白を好んで使う。光と一緒に暮らしている気分になれるから、という言葉は口癖のようでもあった。だから、自ら手掛けた仕事の事務所兼我が家も、白が惜しみなく使われた、光溢れるデザインになっている。
哲郎も自然と白を好きになった。真っさらなそこは、これからどんな色にでもなれる可能性を秘めているから。
螺旋階段を下りて、一階に辿り着くなり、いつもは賑やかな大勢の社員さんたちの声がなく、やけに静かなことに気づく。そういえば、今日は打ち合わせで地方に行くと昨晩、言われた気がする。それなら来る場所を間違えた、と再度、階段を上り、二階の和室に続く襖に手をかけた。開ければ、畳の香りが鼻腔をくすぐる。
「婆ちゃん」
呼びかけると、大きく広げられた新聞の向こうから、眼鏡をかけた老婆が現れる。彼女はニコリと笑い、
「おや、てっちゃん。どうしたのかえ」
「俺、今から出掛けてくる。親父もお袋もいないから、婆ちゃん一人になるけど平気?」
「うんうん、心配なかよ。何かあったら、あれを使うけ」
彼女の目線の先には、立派な木刀が飾られている。その昔、祖母は女性ながらも剣豪だったらしく、哲郎の母もガッツリ血を引いた体育会系だ。おかげで一度、剣道教室に通わされたこともあったけれど、すぐにやめてしまった。哲郎は剣より、筆が好きだった。母の剣さばきもカッコよかったが、父が真っ白な建物の図面をカラフルにしていくのを見る方が、まるで魔法のようで面白く感じた。
「そっか。なら、大丈夫だな」
「あぁ、婆ばは強いけんな。安心しい。てっちゃんは、お友達と出掛けるのかえ?」
哲郎は一瞬考えたあと、少しばかり口元を緩ませて「えっと、友達じゃなくて彼女」と答える。祖母は珍しく目を見開いたのち、すぐにまた細め、笑顔でしきりに頷いた。
「そうけ、そうけ。てっちゃんのお嫁さんか」
「いや、そこまではまだ、ちょっと」
「良か良か。今度うちに連れて来んしゃい。婆ばも、お喋りしたいわい」
祖母は近くにあったポーチの中を漁りながら、嬉しそうに続ける。
「てっちゃんが選んだなら、きっと素敵な子じゃろうて」
神楽の顔が脳裏に浮かぶ。哲郎は、祖母の前に座ってから微笑んだ。
「ーーうん、すごく素敵な子」
やはり力強く頷いて、祖母は何かを差し出してきた。皺くちゃの手のひらには、塩飴が二つ乗っていた。ニカッと笑いかけられる。
「その子と、半分こしんしゃい。暑いから、気ぃつけてな」
「ありがとう」
快く受け取って、立ち上がった。部屋を出る前、一度だけ振り返る。
「多分、夕方には帰ってくるから」
「あいよ。てっちゃんの好きなトウモロコシ茹でて、待っちょるけん」
「分かった」
苦笑混じりにそう返した。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
優しい声が背中を押してくれた。
玄関を出ると、言われた通り、かなり強い日差しに出迎えられる。帽子を被り直してから、待ち合わせ場所へ歩き出す。その後、何となしに腕時計を確認して、思わず暑さも忘れかけた。待ち合わせの時間まで、もう一分しかない。明らかにのんびりし過ぎた。
焦りから走り出す。熱風が全身を包み込み、余計に体温が上昇するけれど、あまり気にならない。走った先には、きっと素敵なあの子が待っている、と知っているからだろうか。
住宅地と住宅地の境に流れる川。そこに架かった短い橋の上を目指して、ひたすらに手足を動かす。次の角を曲がれば、もう目の前だ。
夏、蝉の大合唱、大きな入道雲が浮かぶ青空の下。大好きな君に会えるまで、あと少し。




